第43話『謝罪。願い。誓い。』
時は少し遡り、ユキが部屋を出ていった直後のこと。
部屋に1人残されたリウスは、ユキが出ていった時と変わらず、ベッドに座ったままだ。
気分的には今すぐにでも横になりたかったが、血を洗い流しているとはいえ、外から帰ってきたばかりの汚れた身体で横になるのは抵抗がある。
どこへ行ったのか分からないユキを置いて風呂屋に行くという選択肢は、今のところリウスにはなかった。
二度と帰ってこないかもしれない。そんな思いがリウスの中になかったかといえば嘘になるが、ユキの言葉を信じるならば、ユキは一人では生きられない。少し大袈裟かもしれないが、現時点で将来的に同じ家に住もうと考える程度には、ユキは孤独に耐えられない。
だから、今すぐにどこかへ一人消えてしまうことはないはずだ。
そして、ユキの抱えるそんな事情を抜きにしても、ユキは根本的に律儀な性格をしている。ゲームの中だけでの付き合いだったが、リウスはそれをよく知っていた。
一言も告げずに立ち去るとは、ユキの性格上考えられなかった。
きっと、そう遠くないうちに帰ってくる。風呂屋に行くのはそれからで良い。
リウスの予想は、完全に的中した。
◇◇◇◇◇
ゴブリンに襲われた少年たちが医務室へ行き、ユキができることは完全になくなった。いや、元よりできることなど何もなかったのだが。
「帰ろう……」
昼間ゴブリンに襲われたことでユキは既に疲れ切っていた。そんなところに血塗れの少年たちが助けを求めてくるという非日常体験。正直頭の中がいっぱいいっぱいだった。
しかし、結果的にそれらの出来事はプラスに働いたと言っていいだろう。
難しいことを考える余裕がなかったおかげで、自分を偽らずに済んだ。
言葉を選んで気持ちを誤魔化すことなく、素直になれた。
リウスに対して気を遣っている余裕は、今のユキにはなかった。
ゆっくり、否、恐る恐るユキが部屋の扉を開ける。
もしリウスが寝ていたら、起こすのは忍びないという感情が三割。
残りの七割は、もし部屋に誰もいなかったら、という恐怖だった。
「おかえり、ユキ」
その声は、扉が完全に開き切る前に部屋の中から飛んできた。
「た、ただいま……」
リウスはユキが部屋を出た時と変わらず、ベッドの上に座ったままだった。
「さて、帰ってきてすぐで悪いけど風呂屋に行こう。今日は早めに休みた――」
「あのっ、リウス、その前に……良いかな」
普段であれば、無理矢理相手の言葉を遮ることはなかっただろう。
でも今は、そんなことを気にしている余裕はなかった。
今言ってしまわなければ、きっともう、二度と伝えられない。二度と忘れられない。
そんな強迫観念めいた思いが、ユキを支配していた。
何としてでも、一人きりになるのは、避けなければならなかった。
「その……昼間は、助けてくれてありがとう。それと……伝えるのが遅れて、ごめんなさい。本当はあの場で言うべきだったとは思うんだけど――」
違う。
違う。
違う。
伝えたいのはこれじゃない。本当に言いたいのはこれじゃない。
リウスは何も言わずにユキの言葉を待つ。それは優しさからだったのか、それとも。
今のユキにとっては、どうでもよかった。
興味がないと思われていた方が、嫌われるよりよっぽど良かった。
「私……私、リウスのことを、怖いと思った。同じ人間だと思えなかった。ここまで壊れてるなんて、思いもしなかった。
リウスの手の届く範囲にいるのが嫌で。助けてもらったくせに一言も感謝しない自分が嫌で。でもそれ以上に、自分から距離を置いておきながら、自分の都合が悪くなったらまたリウスに頼ろうとしてる私自身が……一番嫌だった」
上手く言葉が続かない。何を伝えるべきか分からない。リウスの顔を見ることができない。
「だから……その……ごめんなさい」
もう、何に対しての謝罪なのか、ユキ自身もよく分かっていなかった。
しかし同時に、これがユキの偽らざる本心でもあった。
頭を下げるユキを前に、リウスは何も言わない。否、言えなかった。
何せ、ユキのその反応は、感情は、間違いなく正しかったから。異常なほど正常なものだったから。
怖いと思うのは当然のことで、ユキと同じ人間だと言えるほど傲慢でもなくて、壊れてなんかいないと反論できるほど、リウスは人らしくなかった。
ユキの孤独に対する恐怖。その対処法としてリウスを使う。恐怖を恐怖のまま恐怖と認識して、傷つきながらも逃げずに向き合っているその姿の、なんて人間らしいことか。
恐怖を恐怖と認識することを拒絶して、逃げることすら放棄した自分が、どれだけ人でなしであることか。
だからリウスは、ユキに掛ける言葉が見つからなかった。
リウスがユキを慰めたり許したりするというのは、犯罪者が遵法精神を語るような、殺人鬼が命の尊さを語るような、独裁者が民主主義を語るような、違和感しかない行為だったから。
それでも、求められているならば。
語るしかあるまい。
薄っぺらな本心を。
「ユキは、何も間違ってない。俺を怖いと思うことも、自分の感情を他人より優先することも、全部正しい。だから、謝らないでくれ」
もうこれ以上、俺を責めないでくれ。
その願いは、聞き届けられなかった。
「私……怖かった。部屋に戻ったら、そこにリウスはいないんじゃないかって。ゴブリンの死体を見たときよりもずっと……怖かった。でもそれと同じくらい、ゴブリンの死体より孤独を怖いと思っている自分も……怖かった」
ユキの声は震えていた。顔を伏せているためリウスからは分からなかったが、泣いているのかもしれなかった。
ユキのその姿を、リウスは美しいと思った。
怖いことを怖いと言える。
それがどれだけ素晴らしいことなのか、ユキには分からないだろう。
リウスにしか、分からないだろう。
だからこれは、無意識であっても無意味な行為ではなかった。
気付けばリウスは、ユキの体をそっと抱きしめていた。
無くしてしまって、リウスがもう二度と手に入れられないであろうものを持っているユキを、愛おしく思った。
初めて、興味が湧いた。
「昨日も言ったけど、俺のことは好きに使ってくれ。恐怖を和らげるために、自分の身を守るために、1人にならないために、人でなしの俺を使ってくれ」
昨日のように、ユキに求められた結果の答えではなく。
これは、リウス自身の願いだった。
◇◇◇◇◇
「……ありがとう。もう、大丈夫」
10分ほどリウスに抱かれながら泣いていたユキは、そう言ってリウスからそっと離れる。
自分でも、どうして泣いてしまったのか分からなかった。
1人でいることを想像するだけで泣いてしまうほど、弱くはなかったはずなのに。
今まで自分に弱くないと言い聞かせ、信じ込ませていただけだったのか。それとも、異世界という未知の環境に対して、恐怖すら麻痺するほど不安だっただけなのか。
けれど、今はそんなことはどうでも良かった。
リウスが、自分の意思で伝えてくれたから。
昨日のように、求められた結果答えたものではなく、ただ自分の願いとして。
たったそれだけの言葉で、何の力も持たない口約束だけで、ユキの心は驚くほどに落ち着いた。そして落ち着いたことにより、今までの自分がどれだけ心細く、不安で、恐怖していたのかを知った。
だから、失いたくないと思った。
リウスに、そばにいてほしいと思った。
しかし、人の気持ちを思い通りには動かせない。
だからせめて、失わないための努力を。
「だったら、私もリウスのために使ってほしい。私もリウスの役に立ちたい」
「俺の役に、か……」
今のリウスに、自分のための願いはない。
いつだって、人のための願いしか持ち合わせていなかった。
人のための願いを、自分の願いだと錯覚させ続けてきた。
それは壊れてしまった今でも、壊れる前でも変わらないことだった。
しかし、ひとつだけ。
たったひとつだけ、壊れる前なら抱かなかった願いがある。
自分だけでは、きっとそれは叶えられない。
「なら……俺を、人でいさせてほしい」
「人で……いさせる?」
「きっと、俺一人だったら、いつか必ず間違いを起こす。人として、間違った行動を取ってしまう。だからユキには、そうならないように、俺を見張っていてほしい」
自分が人でなしの自覚はある。
今更、元に戻れるとは思わないし、戻ることを望みもしない。
けれど、怪物にまで堕ちたくはない。
傷だらけのままでも、人として生きたい。
壊れて崩れ去った怪物には、なりたくない。
「そしてもし、俺が間違えそうになった時は、ユキが止めてほしい」
ただの人間なら、こんな心配はしなくて済む。
人ひとりの力には限界があるから。
しかし、今のリウスの体は、ユキの体は、人としての限界を超えていた。
間違えたのならば、きっと堕ちるところまで堕ちる。
それを止められるのはきっと、人としての感情だけだ。
リウスは別に、感情を持たないわけではない。しかし、必要であれば、感情を捨てることを厭わないだろう。非情になることを迷わないだろう。
その時は、ユキに止めてほしいとリウスは願った。
「……分かった。私が、リウスを人でいさせてあげる。人であり続けることを望んであげる。
だからリウスは……私を守ってほしい」
きっと、今日のような出来事は今後も起こりうるだろう。それがこの世界の日常なのだから。
だが、ユキにはまだ武器を持ってリウスの隣で戦う覚悟がない。
だから、それ以外の部分で。
俺自身を怪物にしないために。
私が一人にならないために。
俺が人であり続けるために。
私自身の身を守るために。
「ああ、俺は、ユキを守るよ」
「私は、リウスを人であり続けさせる」
証拠は残らない、ただの口約束。
しかし、今日この日の誓いは、強固な鎖となって二人を縛り続け、決別を許さない誓約となった。
◇◇◇◇◇
冒険者ギルドの奥。
ギルド職員しか立ち入りが許されていないエリア。
木で作られた重厚な扉の前に、ミュエは立っていた。
扉は、この冒険者ギルドの長である、ギルド長が使う部屋へのものだった。
ギルド長。ミュエからすれば上司に当たる人物だが、ミュエは然して緊張もせず扉をノックした。
「入れ」
重く、深い響きのある男の声。
扉越しに聞こえてきた答えは短いものだったが、ミュエは聞き逃すことなく扉を開けた。
「失礼します」
「ミュエか」
見た目の年齢は50代後半といったところか。
日に焼けた黒い肌に、年齢を感じさせない鍛え上げられた筋肉。白く色の抜けた髪は短く切り揃えられ、鈍く光る双眸は猛禽類のような鋭さがあった。
部屋に引きこもってデスクワークをしているより、炎天下で角材を担いでいる方が似合う。そんな風貌だ。
「何の用だ?」
鋭い視線に晒されても、ミュエは臆することなく言葉を続けた。
「あの二人のことで報告したいことが」
ミュエの言葉には固有名詞が何一つ含まれていなかったが、ギルド長である男はミュエの伝えようとしていることを誤解なく理解した。
「まだ片方にしか確認が取れていませんが、大精霊の件は知らないようでした」
「この時期にこの町へ訪れて、大精霊の件を知らないのは少し不自然だな……」
「そうですね。ですので、明日にでも確認してみようかと」
「…………そうだな。くれぐれも、敵対だけはしないようにな」
「かしこまりました」




