第4話『魔法』
走るという行為は、こうも心地の良いものだっただろうか。あの日以来、もう走ることなど出来ないと思っていたものだが。
鎧を着ているというのに、駆ける速さは日本にいた頃よりも遥かに早い。存外、鎧という物は動き易く作られているらしい。
悲鳴がした方向へ走るという行為自体は初めてではないが、これ程までに早く、そして、これ程までに利己的な感情で走ったことは、今までにただの一度もなかった。
聞こえた悲鳴の大きさから考えるに、先程いた位置からそれ程離れた場所ではないだろうと予測をしていた秋斗だが、その予想は見事的中した。
走り始めて一分経ったか経たないか。木々の縫い目から見えてきた光景は、一言で言えば異質なものだった。
枯れた木々が何本も薙ぎ倒され――と言うより、圧し折られ、獣道のようになっていた。そこにいたのは一人の女性と一つの“影”。女性が走り、それを影が追っている形だ。
その光景を視界に捉えた秋斗は、どちらが悲鳴をあげたのか、ではなく、どちらを助けた方がより有益かを考えていた。尤も、状況を見ても、姿形を見ても、女性を助ける以外の選択肢は無いに等しかった為、殆ど無意識下での判断だったが。
ただ、助けると言ってもどうしたものか。
地響きのような声を上げて女性を追いかける影に話が通じるとは思えない。暴力で解決するにしても、腕を一振りしただけで木を薙ぎ倒す体長3メートル程の化け物に力で敵うのだろうか。
――まあ、駄目だった場合はその時だ。
アイテムボックスから先程仕舞った大剣を取り出すと、未だ女性を追いかけ続ける影に迫る。
走る速度は、女性よりも、影よりも、秋斗の方が早かった。
一息で影まで迫った秋斗は、影が木を圧し折ったことで生まれたスペースを存分に使い、右から左へ大剣を薙ぎ払う。
躊躇いは、なかった。
不定形で実体がないように見える影は、思いの外硬く、しっかりとした質量を持っていた。
腕に伝わる鈍い衝撃を感じながら剣を振り抜く。影は、さながらバットで打たれたボールのように、砲台から放たれた砲弾のように、大きさと全く釣り合っていない速度で木々を薙ぎ倒しながら、文字通り吹っ飛んでいった。そして“着弾点”では土煙が舞い上がる。
「嘘だろ……」
木を腕の一振りで圧し折る化け物? ではその化け物を1メートルを超える大剣で斬り飛ばしている自分は一体何なのか。
走る速度で薄々勘付いてはいたが、どうも引き継いだのは体や装備、スキルと魔法だけではなく、リウスのステータスまでらしかった。
しかし、膂力を数値で表されてもあまりピンとこないなと秋斗は思う。
「……あ、あの」
棒立ちで影が飛んでいった方向を見つめていた秋斗に、ついさっきまで影に追われていた女性が声を掛ける。
その声に反応して、舞い上がる土煙から目を離した瞬間、それは再び現れた。
突然、衝撃。
天と地が引っ繰り返り、いや、その時の秋斗には平衡感覚は疎か、上下左右すらも分かっていなかったのだが、とにかく、面白いくらいにくるくると、それこそ漫画のように秋斗は飛ばされた。
交通事故の被害にあったことのある秋斗だが、その時でも、これ程までに強い衝撃は感じなかった。尤も、事故の時は衝撃を認識する前に意識が飛んでいた為、確かなことは言えないのだが。
木に衝突し、地面に落下し、数回跳ねた後、慣性に従って転がる。
一連の出来事は三秒にも満たないものだが、どうも人間というのは、予想外、想定外の事象に見舞われると感覚が麻痺するらしい。秋斗には空中で舞っている時間がとても、とてもとても長く感じられた。
秋斗が漸く上下を再認識すると、次いで全身に痛みが走る。
生きている。
痛みを感じて、そう認識した。
経験したことがない程の衝撃。普通であれば、四肢や頭は衝撃と共に胴体からバラバラに切り離されるのだろうが、生憎と『リウス』の体はそこまで脆くはないらしい。
痛みによって、混乱していた頭は状況を正しく認識し、歪んでいた視界は見るべき方角を捉え続ける。
秋斗が立ち上がるのと、土煙の向こうから影が姿を表すのはほぼ同時だった。
あの女性がどうなったのかは分からないが、巻き添えを食らうような距離にはいなかった筈だ。無事だと仮定するならば、影は女性よりも秋斗の方が脅威だと判断したらしい。表情も感情も思考も読み取れないが、考える頭はあるようだ。
油断しているのか、驕っているのか、それとも警戒しているのか、体当たりをしてきた時とは打って変わって、ゆっくりとした足取りで近付いてくる。
体は痛む。だが動く。しかし、大剣は宙を舞っている間に落としてしまったらしい。アイテムボックスから新たな剣を取り出すという方法もあるが、せっかくなら、この状況であれを試してしまおう。
メニューやアイテムボックスの使用法を理解させられら時、それと同時に把握した、この世界特有の技術。日本で培った知識を否定し、積み上げられた事実を元に構築された科学を拒絶し、ありとあらゆる物理法則を無視した、現実を改竄する絶対的な法。
方法は難しくない。まずは対象を認識し、方向を定める。それから、辞書を引いて、目的の言葉を探し出し、それを読み上げるようなものだ。
この状況に、相応しいものはどれか。
数ある選択肢の中から、ただ純粋に、目の前のものを滅ぼすことに特化した、結果すら残さないものを秋斗は選択した。
魔術、魔法、魔導。
アポカリプスに存在した、武器以外での攻撃手段の一つ。
この世界でそれは、神の権能さえも再現可能な異能へと変化していた。
掌を影へ向ける。必ずしも必要な行動ではない。だが、無意味でもない。
長い詠唱は必要ない。名前を呟く必要も、本来はない。ただ一つのものを、自分が認識出来てさえいれば。
「〈復讐者の憎悪〉」




