武刻脱出17
外界が溢れたと言っても、実際は黒蠱虫の大群が外界から危険地帯へと移動しただけだった。
当時の僕には、それが何か分かる訳もなく。森から溢れ出した黒い波が岩壁を下から染める景色を、呆然と眺める事しか出来なかった。
岩壁の中腹にある横穴を住処としていた、僕と数十人のオビトは黒い波に恐怖した。
黒い波が届かないように、穴の入り口を岩で塞いだが、黒蠱虫は何故か隙間をこじ開けて、中に入ろうとする。
黒蠱虫はヒトの子供ほど大きく、黒くて丸い体に10本の細長い足があり、銛のように鋭い口の付いた甲虫だ。
黒い甲虫が数万匹の大群となって押し寄せ、行先にある生物は何でも捕食していた。
迫るモノの行動原理が何か分からないが、僕達は確実に捕食対象になっていた。
岩の隙間から虫の槍が何本も出入りして、少しずつ隙間が大きくなっていく。
ガリガリという岩を削る音が、僕達に終わりが近い事を告げていた。
オビトの何人かは虫がなだれ込んできた後の活路を話しあっているようだった。
言葉は分からないが、視線と声色で、子供をどうにか逃す事を考えているように見えた。
僕はただ恐怖に震えていた。逃げ場はどこにも無いのだ。
いつも起きる、得たモノを失う時がまた訪れようとしている。
そして今度は僕自身が確実に失われるだろう。
何の役にも立たず、無為に終わる。僕にとっての最大の恐怖が現実になろうとしていた。
岩を削る音が止み、虫の素早い足音が迫る。
群れを生かす為にオビト達が動いた。
僕は黒いオビトから、まだ歩く事も出来ない子供を渡された。
守れと言われたような気がした。
石槍を持ったオビト達が虫に突進し、次々と串刺しにされていく。
虫は相手が確実に絶命するまで何度も刺し、動きが止まると、次の獲物を探しだした。
僕の恐怖は最高潮に達していた。動く事が出来ず、渡された子供を、ただ抱きしめるだけだった。
何をしようとしても、恐怖が邪魔をする。
極限状態で僕は恐怖を消す事だけを考えた。
そして、虚術による精神改変という考えに到達した。
精神で制御している術で、精神自体を改変する。確実に失敗し、廃人になる事しか無い術だ。
僕にとっては壊れるかどうかは問題では無かった。守れと託された役目が果たせるならば、何を賭けても良かった。
恐怖を無くす、それだけを考えて術を練った。頭の中で自分が何重にもなった。起きながら夢を見るような感覚が終わらない。
結果から言って、僕の術は失敗しました。術は成らず、精神は奇妙に壊れました。
ただ、自我から感情が分離しました。例えるならば、嵐の中に居た心が空に登り、雷雲を見下ろしているような感覚でした。
感情を抑える事は出来なくなりましたが、自我が感情に左右される事は無くなりました。
そうなってしまえば、恐怖から得られる情報は多いんです。
黒蠱虫は尖った口が刺さるモノを狙うんです。刺さった相手の情報を読み取り、群れに共有します。刺さらないモノは地面か障害物と見なして、興味を無くすんです。
だから、この虫の群れから生き残る事は簡単でした。迫る口に岩で防ぐだけで、僕は岩と見なされたのです。
僕は次の日の朝日が昇るまで、虫の口に岩を当てる事を繰り返しました。
僕とオビトの子以外は皆死に、死体は虫の殿に持ち去られました。
僕は自分の恐怖を利用して危険を回避し、別のオビトの群れに合流しました。
僕はオビトの群れを守る為に、恐怖を利用し続け、それは全て上手くいきました。
群れは大きくなり、外界と危険地帯の狭間での生活も安定した頃、モリビトの遺物が外界に点在している事を知りました。
外界の遺物には、古いモリビトの情報が多く残っていました。今の法国が出来る前、モリビトは外界に居たのです。
古いモリビトが外界に居た意図は分かりませんでしたが、遺物は僕達が生き残る為に必要な知識に満ちていました。
外界生物を使用した術具の作成も、古いモリビトの知識によるものです。
術具によって、無法者から逃れる必要のなくなった僕達は、逆に彼等を支配する側となり、無法の荒野は狩人の縄張りとなりました。
外界の物資が元無法者達の繋がりで文明界に流れ、僕達は富の流れを掴み、狩人の影響力は確実に大きくなりました。
当然、武国には目を付けられ、僕は自身の恐怖に従い、武国に加わる事にしました。
武国は軍事国家ですから、戦争への参加は義務です。僕は狩人達が直接戦争に巻き込まれ無いように、諜報活動を買って出ました。
狩人は潜伏、索敵、情報収集を日常的に行っているので、僕達の集めた情報は正確で迅速でした。
狩人の情報が武国に多くの勝利をもたらしましたので、僕は元帥号を頂き、縄張りは武国の認める領地となりました。
武王は聡明な人物なので、僕がどれくらいで武国を支配するのか理解していました。
僕の支配は武王の望む国の形でないようだったので、僕達は密かに排除の対象となりました。
僕は武国全てを敵に回して生き残れ無いと理解していましたので、外界に国を構える事にしました。
この計画は、あと10年は先になる想定でしたが、思わぬ外的要因で早まり、今日になったのです。
◆◇◇
狩猟王の長い話には嘘がなかった。嘘はどれだけ隠しても、直ぐに分かってしまう能力が、私にはある。
「それでいつも恐怖を感じてるんだ」
「おや、他の方にこの手の話をしても、信用して頂け無いのですが、あなたは信じるんですね」
「面白い話は信じる事にしてるんだよ。これ、本にしたら売れるんじゃない?」
「恥ずかしくてそんな事できませんよ。僕の恐怖が伝わる人は滅多にいませんから、あなたのような方に聞いてもらえて良かったです」
しかし、狩猟王は嘘を言っていないが、肝心な事を話さなかった。
神人の話は全くなかった。恐らく意図的に隠している。
「モリビトの遺物の話が詳しく聞きたいな。狩人達には役に立たなかった情報も、いっぱいあったんじゃないの?」
「その話は、あなたの持つ神人の情報を聞いてからにしたいですね」
これ以上は平行線か。今ある情報から、狩猟王に神人の情報が渡っても、私達は不利にならない。どちらかと言えば、私達と狩猟王は立場が近いような気がする。
「なるほど、あんまり役に立たないと思うけど、私の知ってる範囲で話すよ。神人は文明界に干渉しているよね。それを知っている文明界の人は多分かなり少ないね。何故なら、神人の存在に気が付いた者は殺されるから」
「何故そう思っているのか理由が知りたいですね」
「神人に関わる者に干渉したら、襲われたからだよ。当然、返り討ちにしたけどね」
「それは欲国での事ですか?」
狩猟王は私の事をよく調べている。それこそ、ストーカー並みの追跡力だ。
「よく知ってるね。あまりにしつこかったから、ちょっと叩いたら、壊れちゃったんだよね」
「相手は覚者ですか? あなたが相手の命を取るなんて珍しい」
「覚者っぽい人は居たけど、その人は無事。多分、私の存在に気が付いて無いかな。壊したのは、自動追尾する人形みたいな奴だけだよ」
狩猟王はやや興奮気味だ。
「相手は恐らく忘者ですね。そうなると、壊した物は、神体かもしれません。まさか神体を見て生存している存在が居るとは」
神体の攻撃は確かに強力だった。文明界で太刀打ち出来る者は居ないのではと思わせるほどだ。
「神体を壊して以降、ここで覚者を見るまでは、神人に関する者に出会っていないなぁ。なんか成り行きで敵対する事があったけど、神人自体は悪い存在では無いよね。世界を護っているわけだし」
狩猟王は少し微笑んでいた。
「神人は古いモリビトが創った人工種です」
狩猟王の恐怖に隠れながらも、チラつく感情がある。それは彼がモリビトと口にする為に起きる怒りと悲しみだ。




