2階から響く足音
裏野ハイツ。
バス・トイレ別(※独立洗面台有り)、ベランダ有り、駐輪場有り。
築年1986年7月(築30年)、東向き、木造2階建(1階3戸、計6戸)。
この集合住宅は、この街にしては安い家賃と、上記のような、それなりの設備を備えている。
私は、2016年当時、同い年の妻と三歳になる息子との三人で、この集合住宅の103号室で静かに暮らしていた。
ある日の朝。リビングで二人、食事を取っているとき、妻が、ふと何か思い出したような顔をして、こう言った。
「あなた、ちょっと聞いてくれない?」
「どうした?」
豆腐と油揚げのお味噌汁を持った手をテーブルに置き、私は、妻の顔を見た。
「お二階の202号室なんだけどね、おかしなことがあるの」
「あそこは、人を見たことは無いけれど、空き室じゃないんだったな? 一応、誰か住んでいるんだとか、そういえば」
「お隣に聞いたらね、夜中に、足音が聞えてくるんですって」
私は、変な顔をしたと思う。
「人が住んでいるんだから、それは、当たり前だろう」
「そうじゃなくて、上の階で誰かが歩き回っている音がしたんですて。
だから、ちょっと注意しようと思って階段を上って見に行ったら、202号室の部屋の灯りは消えていて、窓から覗いて見たのだけれども、中には誰の姿も見えなかった、なんてことがあったんですって」
箸もおいて、ちょっと考えてみる。
そんなことが、ありうるだろうか?
ありうるとしたら、どんな理由が考えられるだろうか?
「それは、202号室にお住いの人が、夜、寝ぼけて暴れてしまったたんじゃないか? 寝ていたのだから、部屋には電気が点いてなかった。そして、音に気が付いてやってきた人が覗いていることに気が付いた。だから、その住人は、窓から見えない位置に隠れて息を潜めていた、っていう話だろう、きっと」
私が、とっさに推理したわりにはそれなりに筋の通った予想を返すと、彼女は首を傾げながらもそれ以上は反論せずに、朝食へと戻っていたのだった。
身支度を済ませ、玄関を出る。朝食時の会話を思い出しながら、2階を見上げた。例の、202号室は、やはりいつものように電気も点いておらず、人の気配は全く感じられなかった。
私はそれ以上気にすることも無く、わが子の手を握り、妻には手を振って、会社へ勤務に向かっていったのだった。
仕事を終えた、帰り道のこと。
残業による疲れが残る体を引きずって、私は、裏野ハイツまで帰ってきていた。自室のカーテンの隙間から漏れる灯りが目に眩しい。この時間ならば、パートに出ている妻も仕事を終え、息子を預けている幼稚園から連れて先に帰ってきているはずだった。
「・・・・・・ん?」
そのとき、ふと、202号室の中で、何かが動いたような気がして、私は、玄関に向かう道の途中で立ち止まったのだった。
夜とはいえ住宅街である。街灯の明かりで、部屋の中の様子が見えないことはない。電燈の無い室内で、人影のようなものが動いている様子が、その窓越しに見えたのだった。
(やっぱり、人が、いるのか? でも、ならどうして明かりを点けないんだろう?)
今私が立っている地上の高さからだと、部屋の中の人影の表情までは良く見えなかった。下から見上げているこの状況で、相手の上半身が見えているのだから、その人物は、普通の大人並の身長はあるだろう。わかることは、それくらいのことだった。
初めて目にした住人の姿に、私は、朝方の妻との会話を思い出していたのだった。
「お二階の人、いるみたいだったよ。俺も、姿を見たんだ」
翌朝。私は、朝食を作りながら妻に昨晩見た光景の話をしていた。今朝の料理当番は、私である。冷凍庫で凍らせていたご飯を電子レンジで溶かしながら、コンロで目玉焼きを作っている。
ちなみに、私の好みは醤油、妻の好みは塩、息子の好みはケチャップをかけることであった。
「ふ~ん、そうなんだ~」
三面鏡に向かって化粧をしながら、妻は答えた。どうやら、気持ちは装いに集中しているらしい。私は、特に気に留めず、今度は、サラダを調理する為に、きゅうりを切る作業へと戻っていたのだった。
「いるのならば、私たちのところにも、挨拶もしにいらっしゃれば良いのにねぇ」
食卓につくと、妻はさきほどの話の続きを始めた。どうやら、聞くとなしに聞いてはいたらしい。
私は、再び、想像の翼を広げる。
「ちょうど今、思いついたんだけれど、ひょっとしたら、202号室にお住いの肩は、目の見えない方なんじゃないかな?」
灯りを点けない部屋、昼夜無関係に動き回る様子、人目を避ける態度。
健常者の常識を押し付けられない為に行う、視覚障碍者の方が行う行動であると考えてみると、どの内容にも納得がいくのだった。
「あら、そうね。それだと話が通るわ」
妻が、うなずく。どうやら、彼女も同じ認識に至ったようだ。
二人で、天井越しに、2階を見上げる。謎の怪音も、解けてしまえば、どうということはなかった。
「まあ、何か助けになれることがあれば協力しようじゃあないか。逆に、迷惑を受けることがあっても、おおごとで無ければ、静観する。そういうことで、どうかな?」
「ええ、そうしましょう。同じハイツに住む仲間ですもの。協力しあって、生きていかないとね」
そうして、二人で、今後の方針を話し合っているところに、息子が朝のトイレを済ませ、園児服姿でリビングへと顔を出してきたのだった。
20年後、息子が結婚することになった。
そして、新婚夫婦の為に、新居を建てることになり、そこで親子一緒に暮らすため、私達夫婦は引っ越すことになったのである。
その日、鍵を渡し、部屋の状況を見て確認してもらう為に、裏野ハイツを訪れていた大家のお婆さんがやって来ていた。彼女に挨拶し、お世話になった礼を伝えたとき、ふと思い出したので、例の202号室に関する私の推理を伝えた。
すると、彼女は、顔面を蒼白にして、こんなことを言ったのだった。
「あたしは、確かに言ったよ、『あの部屋には、住んでいる人がいる』、ってね。
でも、それは、前に聞かれたときまでさ。
その後、”あの部屋は、空き室になっていた”、んだからね」
「そんな、馬鹿な!? でも、人が確かに、いるのを見たんですよ・・・・・・?」
慌てて、反論する私。
「明かりをつけない、障害者の方が、住んでいらっしゃったんじゃないんですか?」
老婆は、そんな私の様子に対して、首を横に振ったのだった。
「障害者だったのなら、なおさら、近所の人への挨拶はかかせないはずだろう? まして、目に障害があるのだったなら、このアタシが、わざわざ2階の部屋を選んで貸すはずがないだろう?
だって、そんなことをすれば、その人は、階段を使わなければならないことになるんだからね」
「・・・・・・」
引っ越し作業でで熱くなっているはずの背中を、冷たい汗が流れていくのを感じた。大家の老婆と私は二人、視界にあの部屋が入ってしまうことを恐れて、目線を上げることができないままに、妻と引っ越し作業の手伝いに来ていた息子夫婦とが呼びに来るまでの間、玄関先でただただ立ち尽くしていたのだった。
終わり