268話 笑顔の伝道師8
……人は嬉しい時、楽しい時に笑うものだ。
私は皆を笑顔にしたかった、そう願っていた筈だ、そう願ったからこそ道化師になった。
しかし誰も私を必要とはしていなかった、世界は笑う暇もない程に苦痛が多く、一時の幸福ですらも容易く掻き消されてしまう。 ……だから誰もがそれを守ろうと必死になって他者に刃を向ける。
だが、私を痛めつけ、奪った人々は笑っていた、そう笑っていたんだ。 ……だからそうした、精一杯誰かを傷つけ、殺し合いで笑えるように、公演を開いた、笑顔を原動力に死者に頼み込んで団員とし、いたぶられる事で少しでも笑ってくれるように。
……だけど、それもまた必要とはされて居なかった、ああ、一体どうすれば良いのでしょうか、どうすれば笑ってくれるのでしょうか、どうすれば幸せに出来るのでしょうか。
何をするでもなく街を歩く、人々が怯え引き籠っている今、路地裏を歩けば誰とも会わず、ただ思案を巡らせる。
……私は一体何故こんな事を願うようになったのだろうか、きっと最初に何かがあったのでしょう、今となっては思い出す事もままならない、笑顔の記憶が、誰かを笑顔にした記憶が……どうしてそれを思い出す事が出来ないのでしょうか、一体何故。
道化師がそうして歩き続けていると、一軒の家から赤子の鳴き声が聞こえて来た。
その声にふと懐かしさを感じ……彼は崩れ落ちた。
……どうして忘れていたのでしょう、忘れられていたのでしょう、大切な筈の記憶を、忘れてはならない思い出を。
私には嘗て家族がいました、とても素敵な妻とその娘、決して裕福では無いながらもどうにか手に入れたその幸せがいつまでも続くと、そう思っていました。
ですが、ある日妻と娘は熱病に侵され、容易く失われてしまいました……私も家族も国も、誰も悪くはありません、どの医者にも治し方の分からない、そんな病だったのですから。
果たして妻は幸せだったのでしょうか、まだ幼い娘は幸せだったのでしょうか……共に死んでやる事すら出来なかった私はどれだけ苦しんでも構いません、妻と娘にしてやれなかった分、誰かを幸せにして差し上げなければならないのです、それが一緒に苦しんであげる事の出来無かった私のせめてもの贖罪となるのです。
……それなのに、私は二人の事を思い出さない様に記憶に蓋をしました。
結局、私は私しか見て居なかったのです、贖罪と言いながら己が苦しまぬ道を選んで進んだのです、全てを誰かのせいにして、笑ってくれない相手に不満を覚えるように……
悲鳴が響いた、少量の魔物が防衛網を突破し、城郭を乗り越えて来たのだ、登攀能力を持つものや、無数の魔物の死骸を積み上げて乗り越えたもの、大半はその場で始末されたが、ごくわずかに抜けたものが市民を襲っている。
……考える必要などなかった、道化師は素早くナイフを投げ、的当ての技術で魔物を仕留める。
「あ、ありがとうございます」
そう言って感謝する人を見て、ようやく分かった、何も難しい事など最初からなかったのだ、余計な考えなど必要なかった。
まだ街に紛れ込んだ魔物は残っている、放っておいてもそう長くない内に始末されるだろう、だが、被害は増える。
道化師は扉を開き、団員を呼び出す。
「死んで花実が咲くものか、ですが最後に一花咲かせましょう!」
高らかに宣言すると道化師達は街に繰り出す、彼等によってこの戦いにおける市民の犠牲は本来の四分の一以下になるであろう。
……道化師の願いは最初から何も変わって居ない、ただ誰かに笑っていて欲しい、幸せになって欲しいだけでしかない。 ただ誰かに笑顔を届け、守るために戦っているだけなのだから。




