242話 黄昏の記憶4
部屋に戻り、背に乗せたルナを寝台に下ろす、短い鍛錬ではあったが消耗した様子の彼女の頭を撫で、私も寝台の縁に腰掛け休んで居ると、ルナは不思議そうにこちらを見ていた。
「どうかしたの」
「その……貴女は天使と戦ったんですよね」
その言葉に頷く、あれからそう時が経った訳ではないが、静かな今との落差に随分と時が経ったようにも感じられる。
「天使の計画の事については聞きました、それが良い物では無い事は分かって居ます……ですが、貴女は何を正義として天使と対面したのですか」
その問いに苦笑する、何一つ間違った事を言った訳では無いし、その意図も理解できる……ただ、その子供らしさを微笑ましく思っただけだ。
常に正義を芯として物事に立ち向かう、そんな英雄で在れたらどれほど幸せに生きれたのだろうか。
だが、私の答えは一つだけだ。
「ただ、天使の計画が気に食わなかった、それだけだよ」
「え……」
ルナは言葉に詰まる、当然だ、この子は私を物語の英雄のように見ていたのだろう……自身の正義を貫き、困難を乗り越えながら悪を滅ぼす、そんな英雄と。
「最初に言っておくけど、私は自分が正義だと思ったことは無いよ……勿論私の信じる正しさは存在するし、どうあるべきかという信念もある、だけどそれが正義であると思ったことは無い……まあ、他者からしてみればそれが私の正義なのだろうけどね」
そもそもが裏社会に属する私だ、その行為はただ私の背後に居る者達の為の物であり、決して正しさからなるものではない。
「……よく分かりません」
「そうだね、一口に正義と言ってしまうから分かりにくくなるんだ、その意味をはっきりさせる必要があるだろうね」
笑ってそう返して、少し伸びをし、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「正義ってのを簡単に言うと、その人が正しいと信じているものだ」
まず最初に答えを示す、それを道標にその中身を重ねていこう。
「どんなものでもいい、何かを信じる、それが正しい、そう思う事は悪い事じゃない……自分がどう在りたいかの理想像を一つに信じ、その正しさに近づこうとするのであれば醜悪になることはまれだ……だけど、それの正反対に進んでしまう者はとても多いんだ」
自分の理想像に何が足りないのか考え、新たに得て前に進む、そうして人は成長するのだろう。
「だけどね、理想のままに在ろうとすることには、常に自己否定が付き物だ……だから人はそれから逃げようとする……そして自分が信じる正しさが周りに無い事に文句を言い始めるんだ」
私とてそうでないと言い切る事は出来ない、多くの人々の在り方に不満を持つことはあるし、変えたいという考えが頭に浮かぶことだってある。
「でもね……その正しさっていうのは、あくまでも、その人だけのものなんだ、例え皆がその正しさを正しいと言ったとしても、一人一人の頭の中での解釈は僅かに変わってくるだろうし、その正しさをどう使うかもまた別のものだ」
ルナはじっと目を伏せて考えている、正しさというものについて語ると哲学的になってしまうのは仕方のない事ではあるが、私が如何に哲学を教えるのに向いていないか良く分かる。
「そして自分の信じる正しさを人に要求するようになるとね、とある考えに収束していくんだ……自分の考えは正しい、あいつらは間違っている、自分の考えは正義であいつらの考えは悪だと……そして行き着く答えは一つ……自分は正しくてあいつらは間違ってるんだから、それを正す為になら何をしても許されるはずだ……と」
「それが……正義……」
ルナの言葉に頷く。
「自分の在り方を見つめ、律する為のものであった正義が、他者を否定して自分の望む形へと矯正することへの免罪符にとって代わるんだ……それほどまでに正義という言葉には力があるんだ、なんせその人にとっては正しくて義があるんだからね……一切の罪悪感を抱く事無く正義を執行するんだ、傍から見てどれほど醜悪で在ろうと、本人はとっても気持ち良いだろうね」
最後の言葉には皮肉を込めていった、そして自分がそうなるまいと律する為の要石として。
「それが……貴女が自分を正義だと語らない理由ですか」
「ああ……私は自分がどれほど闇に染まったとしても、醜悪で俗悪なものにだけは、なりたくないからね」
そして言葉を繋ぐ、この子に忘れて欲しくない言葉を。
「いいかい、どんなものでも自分の為に生きているんだ……誰かを救うも殺すも、自分がそれをしたいからするんだ、それは正義の為では無く自分の為だ、自分の正義ってのはあくまで目の前にある選択肢からどれを選ぶかの基準と判断材料に過ぎない、間違ってもその行動を行う理由ではないんだ……それがどんな正しさを持っていたとしても、それに酔ってはいけない……だから考えなさい、自分がどう在りたいか、何をしたいのか考えなさい、そして正義の為では無く、自分の為にそれを行いなさい……そうしていれば、気付かない内に見た目だけが綺麗な醜い怪物になる事は無いのだから」
私の言葉にルナはさっきよりも深く目を伏せ、何かを考えている……私の言葉をどう捉えたのかは知らないが、何かを学ぼうとしているのならそれでいい、私の考えに賛成するも反対するも自由だ……それを彼女自身が考え、自分の意思で選んだのならば、その選択こそが私にとっての正しさだ。
ゆっくりと彼女の頭を撫でる……ゆっくりと考えなさい若人よ、今は答えが出なくとも、何時かは自分にとっての答えが得られるのだから。




