223話 宵4
彼女が遺した情報、それはただの情報を纏めた報告書であり、災厄の予言でもあった。
「天使の加護の喪失による人間の魔物化・異形化に関する考察と警告」
私は1頁目に書かれた題を口に出して読み上げる。
「星華ちゃんは書いた本の内容を、その情報の危険度毎に三段階で分けていた……ただの料理本とかは第一段階。さっきの魔物に関するものや、魔道具に関するものは、第二段階……そしてこれは数少ない第三段階のものだよ」
そう言って豊さんは、その分類法を記した紙片を渡してくれる……第一段階は誰が見ても問題ない無害なもの、第二段階は情報によって一定以上の被害を出す危険性を持つもの……そして第三段階は知るべきだが、知っていると言う事実そのものが危険性をもつものや、それ一つで国を相手に戦争を起こせる程度の能力を持つ知識などであった。
「それでも第三段階の中でも、早めに目を通すように促してあったから、避けては駄目な筈」
「そうですか……あの人がそういうのであれば、間違いは無いでしょうね」
一度深呼吸をして頁を捲り、難解な内容を少しでも理解しようと声に出して読み上げる。
「
人間の異形化は、人類の総数を考えれば僅かな事例であるが、稀ではない……主に異形化は人間の強い望みが原因となっていると推論されるが、それだけが原因では無い事は想像に難くない。もしそれだけであるならば、もっと多くの異形化が起こる筈だからだ。
他の原因として霊的地理が最も有力だと考えられる、異形化が発生した場所の統計はある程度の偏りが存在している上、一般的に霊場と言われていない場所であったとしても、調査をすれば、ある程度の妖魔伝承が残っていることが多く、また、古文書を紐解けば通常なら地震などの災害の隠喩と解釈されるが、その痕跡の見当たらない被害の記録が出てくる事が多い
」
そこまで読み上げて言葉を止めた。
……少し背筋が凍るような思いがする、この記録は、明らかにこの世界で調査されたものではないのだから。
「これは……」
「うん、間違いなく、私達が元々居た世界での知識だね」
「あの人は、あの世界でこの知識を知れる立場だったのですか……」
「知れたね……私や星華ちゃんが所属していた巨大な花街を中心とした組織……それに関する情報もあったから」
……そっちも関わっていたのか、いや、これは当然だろう、そもそも、まともに税を納めているかどうかも怪しいあのような組織が、幾ら強力な武力を持っていたとしても、国と対立しない訳が無いのだから、それに対抗出来るだけの手札と、相手に与える利益が存在していない筈がない。
「以前星華ちゃんに、あの組織が何であそこまで強い勢力を持っているのかって、聞いたことがあるんだけどね……『嘗て人間が技術と引き換えに置いて行ったものを全て拾い集めて積み上げた結果だ』って、言ってたんだ、その時ははぐらかされたと思ったけど、今思えば多分その通りの意味なんだと思う」
「つまり、魔術、呪術等、化学技術が広まるにつれ、消えたものを集めたと」
……だが、疑問もある、そのようなものは御伽噺の中の産物に過ぎない筈だと。
急に眩暈がして、体から力が抜け、椅子の背もたれに倒れ掛かった。
「私も同じ気持ちだけどね、でも一つだけ揺ぎ無い証拠があるんだ」
「それは何でしょうか」
一旦気を落ち着けて、彼女に問う。
「簡単な事だよ……この書物を書いたのは誰?」
「それは当然星華さ……そうですか」
考えてみると疑問に思うほうが可笑しい話だったのだ。
「うん、星華ちゃんが存在している事、それ自体が異形の存在があの世界に存在していた証拠だよ」
恐らく、ここで記されている脅威としての異形では無いのだろうが、それに類する存在であることは間違いなかった。
「そして、あの世界ではこの情報は秘匿されていた……いや、寧ろ積極的に空想の存在だと考えさせていたのでしょう、繁栄の手段として科学を選んだが故に、それの範疇に存在していない物を排斥し、胡散臭いものとして消し去ろうとした」
「うん、でもそれだけじゃ対処できない事態が起きてしまった、化け物と化した人間の被害は、簡単に誤魔化せるものじゃなかったから」
霊的なものに対して、それを切り捨てた化学だけでは対処できない、だからこそ、それを始末できる能力を持った組織は、国、いや世界としても必要な存在だった筈なのだ。
「……これは大きな問題ですが、ここはあの世界よりも人口が密集していません、最終的な脅威は低いのではないでしょうか」
「そうだったら良かったんだけどね……この頁だよ」
そう言って彼女が広げた頁を声に出しながら読む。
「
……以上の事から、人間が異形と化すには、何かに対する強い感情と、強力な霊場、そして本人の魔術適正が重要と推測される。
魔術適正に関しては、自覚していない分を含めればほぼ全ての人間が持っているものだが、異形化する可能性がある程と定義するならば、全体の一割程度と言えるだろう。
問題は霊場である、霊場は地脈の流れや、人間の潜在的な意識だけではなく、雨や風、極端に言えば一匹の猫にすら影響を受ける為、ある程度は予測できるものの、完璧な再現性を得ることはほぼ不可能と言えるだろう。
」
ここまではまだよかった、問題はその先の文章に会ったのだから。
「
しかし、この見解は私が以前いた世界の物であり、この世界においては違う、地脈の流れは大きく、太く、そもそも魔術が一般的に使われる以上、空間に満ちる魔力の平均的な量は、私の知る限り弱い霊場と言っても差し支えない程である。
この状況で尚人間が異形化していないのは、天軍が存在することで陰と陽がある程度打ち消し合い、人の性が魔に堕ちる事を防いでいると考えられる
」
「つまりこれは……」
「多かれ少なかれ、人間は異形化を始めるって書いてあるように見えるね」
……その横には主に負の感情が強く影響すると付記されていた、そして、今この状況で人々が負の感情を抱かずに暮らせるとは私には思えなかった。
「対処法は……無いのですか」
「魔力が集まって物理的に顕現している状態だから、魔力に通用する攻撃によって魔力を散らせば、人型に戻す事は出来るみたいだけど……記憶が残ってる場合と残ってない場合、それと異形と化しても意識が残ったまま暴れてる事もあるって書いてあるね」
戻せるのは救いではあるが……放っておいたらまた異形と化しても不思議ではない。
「それと……異形から戻っても異形の力の欠片が残っている場合もあるってさ……星華ちゃんの部門にはそういう人も居たらしいよ」
「あの人の部門ですか」
「うん、記録を見た感じ12個の部門があって、それぞれ役割や得意分野が違ったみたい……実質的な頂点の姐さんもその内の一つを管理していたみたい、そして星華ちゃんも同じように一部門の長だったらしい」
「……なんとなく予想は出来ますが彼女の部門と言うと……」
「……うん、星華ちゃんが言ってた暗殺と、異形と化した存在の制圧……勿論暇な時の方が多いから、その時は割と好きに普通の仕事してたらしいけど」
つまりは残った異形の力を制圧に利用すると同時に、居場所を与えることで再び異形と化して暴走する事を防いでいたわけか……今、そこまでの仕組みを作り上げるのは難しそうだ。
「……まだまだ、頁が余っていますが、そこには何が?」
「ああうん、これは実際の記録文書」
そう言って彼女が捲って見せると、そこには白黒ながらも見事な挿絵と、実際にどの様な能力を持っていたか等が細かく記された、異形との戦闘記録が大量に書かれていた。
「この戦闘記録は貴重ですね」
「うん、正直戦力に関しては差が大きいからそこまで当てにはならないけど、それでもないよりは遥かにまし」
少し気を落ち着ける為に紅茶を一口、口に含み、息を吐く。
「これは正直公表したい内容ではありますが……」
「止めた方が良いよ、星華ちゃんがこれを最大の情報の危険度に指定したからには、碌なことにならない」
「そうですね、これを知っていることが異形化の原因になりかねませんから」
人間の強い感情が異形化の引き金となる……これを知って、人間が己の欲の為に自ら望んで異形に身を堕とす、それを危惧したが故の最大危険度なのでしょう。
「豊さん、これからは最大の危険度の物は、星華さんか貴女のダンジョンからは持ち出さないようにいしてください、必要ならば直接出向く形で読みに行きます」
「うん、分かった」
その本を鞄にしまい、少し休憩を取る。
「貴女は……大丈夫ですか」
「異形化……ね、実は最後にもう一分あるんだ」
「何でしょうか」
静かな彼女の声に身構える。
「
平均を大きく超える魔術の能力があれば、異形化に抵抗出来る、また、その気になれば自らの意識を残したまま異形の力を顕現出来る
」
……それは、この本で最も知られるべきではない情報であった、その気になれば圧倒的な力を欲望のままに、理性的な状態で使えるという事なのだから。
「それは……どの程度の能力が必要でしょうか」
「まず間違いなく、星華ちゃんは出来る、私や天音ちゃんも多分出来る、普通の人間にはそこまで出来る人は少ない……でも、一度異形化して、元に戻った人はある程度その力を使えるみたいだし、劣化するかもしれないけど出来ると思う」
「まだ、数が少なくてよかったと思うべきでしょうね」
「うん、私としては、正直どんな姿になるか自分でも想像がつかないから、抵抗出来る可能性があるのは、まだ良いほうだと思う」
「少し、休みましょう、これ以上議論を続けても具体的な対策が生まれるとは思えません」
「そうだね、実際実力で制圧するしかないって言われてるようなものだし」
外を見れば既に暗くなってきている。
「天音ちゃん」
「何でしょうか」
「……一緒に寝てもいいかな」
「寝台も無駄に大きいですし、構いませんよ……ただ、私はあの人の様にはなれませんよ」
「うん、分かってる、それでも一人で寝るのは寒いから」
「そうですね」
正直、最近の彼女は不安定だ、納得はしていても孤独を消せる訳ではない、あの人の代わりになることは出来ないが、ほんの少しでも支えになれれば良いのだけど。
「大丈夫ですよ、二人で休みましょう」
「……うん」
私の差し出した手を彼女はしっかりと受け取った。




