219話 宵2
頬を撫でる冷たい夜風に混じって、血の腐ったような臭気が流れてくる。
その臭気の元はかつては教皇であった化け物、背からは無数の触手が生え、両手は武器に変化し、歪に歪んだ肉体と、それを覆うまばらに生えた鱗と外骨格……ただ遠目から見た形以外は、人間の面影はどこにも残していない。
私はそれを前に、己の武器である釘を構える。
豊さんも私の近くで、その怪物に向き合い、両手でしっかりと握った脇差をそれに向けている。
「豊さん、貴女は前に出て戦うのは、向いていないでしょうに」
顔を向けずにそう言うと、微かに笑ったような気配がある。
「大丈夫、戦いなら星華ちゃんに教えてもらってるから……それに、あれより星華ちゃんの方が余程強いから」
「……そうでしたね、ですが、私一人では抑える事も難しいでしょう」
確かにそれは道理だ、彼女であれば一撃で両断しそうなものだ。
無数の触手が動き出して私達に襲い掛かる、その先端は斧、棍、槍などの形に変化しており、それぞれが適切な使用方法で使われ、絶え間なく攻撃を繰り返す。
私はその攻撃をただ防ぎ続ける事しかできない……だけど、彼女は違った。
急に攻撃が弱まったと感じて、確認すると、豊さんが一気に突き進んでいた、脇差を鞘に納め、左手で鞘を、右手で柄を持ち、全ての攻撃を一切防御せずに躱しながら。
……星華さんが彼女に仕込んだ技術はこれか、全ての攻撃を躱し、懐に潜り込む見切りの力、優れた動体視力と状況判断力が必要な技ではあるが、極めれば、武器の種類を問わない汎用性と、不利な状況を覆して対象を抹殺できる武器となる。
そして彼女の動きも洗練されている、迫りくる触手を必要最低限だけ体を横にずらして躱しているが、そこに予備動作が一切無い、これでは先読みして動くことも難しいだろう。
……これは間違いなく、暗殺者としての彼女の技だろう、今この眼で見ているのが本家より弱い事が信じられない程の圧倒的な戦力、あの人が嘗て一つの国に等しい戦力を持つとさえ言われた勢力の中で、唯一無二の強者であった意味が今なら理解できる……これは彼女の持つ無数の技の一つでしかないのだから。
……彼女が進んだのだ、私も進まなければ。
手に持った巨大な釘に仕込まれた術式を起動する、放電が始まるとともに、その身は緋色に染まり、熱を発しだす、あの人が一晩で改造した結果得た効果だ、相手が生物である限り確実に有効な武器である。
私に向かう触手に一振りすれば、血肉と骨を焦がす臭いと共に触れた部分が焼きつぶされ、切り落とされたその先端が地面に落ちる。
そして私も前に進む、私が進めば相手は私にも触手を出して攻撃しなければならないから、その分豊さんの攻撃が届きやすくなる。
そして体制を崩してしまえば、確実に止めを刺す方法はある。
私は攻撃を叩き潰し、豊さんは躱しながら進んでいく……そしてその時は来た。
完全に間合いに入った豊さんの体が沈み込む、そこに怪物は大きな剣に変化した右腕を振り下ろすと共に無数の触手を殺到させる……だが、それが彼女の罠であった。
豊さんは一瞬で脇差を振りぬき、その右腕と触手を根元から切り落とした、その傷口は不自然に煌めいており、恐らく氷結しているのだと思われる。
私も彼女に続く、彼女が少し下がった隙に前に出て、金属製の非常に重い釘を振る、その切っ先は防御に使用した斧状の左腕を破壊し、怪物が無防備になった。
「豊さん、離れて!」
鋭く叫ぶと、彼女が距離を取るのを感覚で認識しながら、釘を怪物の胸……人間であれば心臓が存在する部分に突き立て、それを振るうために鍛え上げた腕力で強引に地面に引き倒した。
「何故……神の力を拒む」
まだ言葉を発せる知性と生命力が残っているらしいそれは、私に問いかける、それに私は星華さんならどう答えるかを考え、それを口にした。
「神の力……その姿では悪魔にしか見えませんね」
「悪魔……なるほど、私は天使になった積もりの悪魔であったか……殺してくれ、そして人々を導いてくれ」
「当然です、猊下」
最大出力で放電を行い、一瞬でその体を灰と骨の山に変える、それを感じる能力が残っていたかは不明だが、それ以上痛みを感じる事は無かっただろう。
……全く後味の悪い事だ、相手が完全な悪であれば心を痛める事もなく裁きを……いや、その考えこそが独善へと走り、自己主観のみによる正義に酔いしれる事になるのだろう、教皇の様に。
「隊長、ご無事ですか」
数歩下がって、武器を落とし、地面に座り込んだ私に周囲の兵士が集まってくる……首だけ動かして見れば、豊さんも私と大差ない様子で地面に大の字になって寝転んで私を見ていた。
「私は大丈夫です、皆さんは大丈夫ですか」
「はい、全員無事です、隊長、この後の指示を」
彼らをどう動かすかを少し考えて口を開く。
「貴方達は先に帰還して下さい、多くの国民に混乱が広がって居る筈ですから、それに対する説明と、必要であれば暴動や犯罪の対処を」
「了解しました、隊長はこの後はどうなさるのですか」
「私は、豊さんと共に、教皇を埋葬してから向かいます」
「教皇を、敵ではないですか」
……ああ、彼らは最後の言葉を聞いていないのか。
「敵であれ、教皇です、立場上正式な葬儀を行うわけにはいきませんが、せめて埋葬するのが人としての道理ではないでしょうか」
「……私の考えが足りませんでした」
彼等はそう告げて、先に国へと移動を開始する……この位置なら夜明け前には到着するだろう。
少し休んだ後、豊さんと骨を拾い灰を集める。
「天音ちゃん、どこに埋めるつもりなの」
「ここから少し進むと国がよく見える丘があります、そこにしましょう」
「解った」
その後数時間かけて丘の上に墓を作った。
地面に穴を掘り、岩を削って石棺を作り、一度星華さんのダンジョンに移動して陶器の壺を貰い、そこに骨と灰を入れて、それを石棺に納め、蓋をして土を被せる、そして再び岩を削って作った墓石を立てる……私の知る一神教では死者の体は焼いたりせずに埋める必要があるのだが、この世界では別にそう言う事もないので、その地位にしては質素だが、まあ悪くはない埋葬だろう。
そして墓石に言葉を刻む、国の為に己を捧げた者ここに眠る、と。
そこまで良い事では無いが、多少は暈す必要がある以上、こんな所だろう。
最後に簡単な保護の結界術式を施して埋葬を終えた。
少し豊さんと共に丘に座って休む。
……私はこれからも人を殺し、それを正当化しながら生きるのだろうな。
「天音ちゃん、考えがあるの」
「何でしょうか」
彼女の子供っぽい顔の、暗い光を宿した目を見る。
「私には政治とか分からないけど……でも、私にできる事ならあるよね」
「豊さん、貴女は……」
「そう、星華ちゃんが嘗てしていた事、脅威から国を守る力、私ならその手伝いは出来るよね」
つまりは暗殺者、戦闘屋、まともなものでは無いが、必要なものではある……星華さんはこれに反対しないだろう、彼女自身が言い出した事なら、あの人は止める事はしない。
そこに一つの影が現れた、金色碧眼の少女の姿。
「アリスさん」
彼女が剣を持っていたとしても私は抵抗しなかっただろう、私はそれに値するのだから、だが、彼女が持っていたのはそれとは違う物であった。
「これは……本ですか」
彼女は頷き、豊さんにも別の本を渡している。
表紙を開いて出てきた文字に私は動けなくなる、台本、そこにはそう記されていた。
次々に頁を捲れば、様々な国の方向性、事件、ほぼ全ての状況に対する複数の解決案がそこには網羅してあった……絶対にこれに従う必要はないと言う注釈と共に。
豊さんに渡されたものを見せてもらうと、今度は彼女自身が選び得ると想定される数多くの道筋と、それに対する無数の助言、それとダンジョンにはより専門的な記述の本がある事が記してあった。
「豊さん……」
「うん、分かってる、私が一番驚いてることはね、星華ちゃんが色々書いてたけど、その結果が本棚数個分あるって事かな」
……本棚数個分の著述、彼女は魔術や魔道具の技術を持っていたから、それなりの数になるのは分かるが、それだけという事は、文字通り全ての知識を文章にしているのだろう。
アリスさんが帰った後、私は口を開く。
「豊さん、改めて聞きます、この後、私を助けてくれますか」
そう彼女に尋ねると、彼女はすぐさま頷く。
「うん、星華ちゃんが頑張ってるんだから、私が楽するわけには行かないからね……一応私奴隷なんだし」
私も頷き、転移を使わず、二人で徒歩で国へと向かう、彼女が託した台本に目を通しながら。




