第08話 「白石水子の出会い03」
某国民的アニメに登場する大泥棒と警部よろしく、当人たちの真剣さをよそにコミカルな様相は否めない、節度あるべき年端を経た男女二人による追いかけっこ。
白い波がさすらう砂浜での恋人同士の戯れでもなく、そんなロマンチックなテイストとは大いに掛け離れた、四月の陽気に汗滲む獲るか獲られるかの駆け引きだった。
必死さのあまり、見様によっては少女漫画的に飛び出した曲がり角の先で、水子は何かにぶつかって尻餅をつく。残念ながら食パンも口に咥えてなければスカートを抑えることも無く、そこに羨むようなときめく展開の予感は――微々たる可能性ほどだったとだけ憶えておこう。
代わって待ち望んでいたのは、淡く香る金色の光景だった。
「――痛ったぁ……」
衝撃の瞬間、流麗に靡く金色の線が視界を埋め尽くし、水子は瞬間的に何が起こったのか理解することは出来なかった。水子とは別に上がったらしい女性の短い悲鳴だけが、状況を説明してくれていた。
尻餅をついて患部をさすりながら思わず呟く水子の正面、同じく足を取られたのであろう、同性の水子を持ってして息を飲むような美女と目が合う。
腰の落ちた状態ならば地に触れるほど健やかに伸びた艶のある金髪と、丁寧に洗練されたガラス玉のように深く澄んだ碧い瞳を携え、何処か日本人離れした顔立ちが僅かな辛酸の表情を浮かべ困惑を訴えている。
水子はその美しさに見惚れたばかりに謝罪が遅れ、慌てふためいて体裁を整えた。
見惚れてしまった束の間を除けば、立ち上がって腰を折るまで一瞬のことである。
「す、すすす、すいませんっ! すいませんっ!」
「い、いえ、気にしないで」
彼女は両手を開け広げながら首と一緒に小気味よく左右に振り、体の程よい愛想笑いを浮かべて悠然と立ち上がる。その所作一つが仕上がったというか、水子の気を病ませないような振る舞いは良い意味で機械的にさえ思わせた。
非は完全に水子が負っているだけに居た堪れなさは否定できないが、その上で多少は気を晴らしてくれるほどの不思議な魔力が彼女の仕草には含まれている。
あるいは、今なおも背後の路地から追っているであろう件の男を合わせたあらゆる焦りが、水子を急いて錯覚させているだけなのかもしれない。
彼に対して恩知らずと下した評価を笑えない、礼儀知らずな気の迷いだった。
錯覚ついでに、水子は彼女を芸能人か何かと勝手に考えていた。
そうでもなければ説明がつかない美しさを含め、そうであってさえも説明つかないような結びつきが、水子の目には映っている。
「御嬢」
「――よしなさい」
その会話の成す意味においては水子の知るところで無いが、そのやり取りは、あるいは一般的に芸能人を思わせる関係そのものである。
黒服姿で黒眼鏡の黒い髪をしたためた、ついでに言えば浅黒い肌の大男が、主立った言葉も発せず半身分ほど二人の間に割って入ってくるのだ。それはさながら芸能人とそのマネージャー、もしくはハリウッドの大スターとボディガードだった。
そうであると思ってしまって遜色ない彼女彼らの二人の様相に、水子は浮世離れした現実感を見失っていた。
異様な様態を成すこの街にすら浮いて見える二人組。
否、むしろその逆でもあり、異様な様態を成すこんな街さえも普通に見せる。金が掛かった映画の中の方が自然に溶け込めそうな彼女らは、一体どんな所用を持てばこんな街に訪れるものか。
この街だからこそと、やはり異常で、簡単な理由で片付けられる疑問に意味を考えるだけ無駄である。
右を見れば喧嘩をして、左を見れば喧嘩を語り、正面を見れば映画のワンシーン、背後にはけたたましい叫喚が迫ってくるこの街で、水子に脚を止めているられる暇はない。
タイミング的に考えても直ぐそこに差し迫っているであろう『負け犬』の遠吠えに、水子は身を隠せる場所を慌てて探し始めた。
今更慌てても既に遅く、そして人波に紛れる計算で大通りに出た作戦が裏目に出て、吹き抜けていく見晴らしの良さに相応しい場所は見つからなかった。
これを彼女らの妨害と決めつけるには水子の自業自得というか、彼女らに責任を問うのもお門違いである。
水子にとって唯一味方してくれるのはこの位置関係だ。
一人慌てる水子の正面に控える大男と、その後ろにブロンドの美女という構図。背後の角を曲がって水子の俯瞰で見れば、丁度彼女らの真後ろが死角になる。ご都合的に女性一人くらいはすっぽりとその背中で守れそうなほど広い肩幅は、背広がはち切れんばかりに鍛えられているように見えた。
そうこう考察しているうち、例の声がより鮮明になって近づいてくる。
「待ってくださいよぉ、お姐さ~ん!」
調子のいいことを大声で宣いながら、ご機嫌にそこの角を曲がってきていた。
甘ったるく伸ばされた語尾がいろんな意味で寒気を誘う。
ともすれば水子の行動は一つだ。
「ごめんなさい、少し隠れさせて……!」
声を潜め、息を潜め、取り繕ったように取ってつけられた状況を利用する。
水子は彼女らの背後に回って身を隠し、懇願の承諾も得ず祈るようにして縮こまった。
ブロンドの彼女は水子のその奇怪な行動自体にもまた戸惑い、それとほぼ同時に状況の大筋を察したようである。
こうなった経緯からも鑑みて、見るからに追って追われる立場という分かりやすい状況。ぶつかった縁ともいうべきか、彼女はほんの僅かな間に生まれた奇妙なこの関係を優先してくれるようだ。
黒服は曲がり角から伝わってくる衝撃を屈強な肉体でズシリと抱き止めて、その粋がった横暴な居ずまいに対して寡黙に佇んでいた。
「ねえ、お姐さぁ――んぬわっぷ……あん? 何だてめえ、ああ? やんのかぁ!?」
その気性における緩急の激しさには関心すらしてしまうものがある。
揚々に水子を呼び止めようというところを遮られ、僅か一瞥を下すだけの折の間で吹っかける。
喧嘩の街たる所以か、中でも『負け犬』の彼ならではの溢れ出てくる血気に思えた。
スポーツマンシップに則った階級で見れば勝負にならないようなほどの差はあるが、怖いもの知らずなのだろう。水子は独りでにその二つ名が付けられるだけの理由を察する。
先ほどと同じく、また黒服からは主立ったことも介せずに、内容の分かり辛いやり取りが水子の目の前で行き交う。
「御嬢」
「可愛がってあげなさい……少しだけね」
この場合、比較的に分かりやすく聞こえたのは水子の気のせいではないだろう。
背中越しに聞こえる指の骨を鳴らすような野太い音が、水子の解釈をより助長してくれた。
水子の解釈通りであるなら、先ほどのやり取りにも同じ意味が込められていたと思うと肝を冷やす。
「終わるまであっちのお店でお茶でもしましょうか」
優雅に踵を返し、ブロンドの彼女はそんな提案を挙げる。
その後ろで熾烈な睨み合いが繰り広げられているであろうとは思えない、これもまた感心せざるを得ない緩急だった。
「あっ、はい」
散々断ったはずのお茶のお誘い。
水子はあっさりと受け入れるのである。
◆
「もうホント、申し訳ないです。あの……お怪我とかは?」
気がつけば時計の針も正午を指し示すまで一時間を切っている。
注文したアイスコーヒーが運ばれてくるのも待たずに、水子は頭を下げていた。
「大丈夫、大丈夫よ。子供じゃないんだからこのくらい気にしないわ」
とある茶店の一席。窓際の席に腰を落ちつけ、早速縮こまる水子に対し気取らない返事で柔らかな笑顔を見せる。
流麗な長い金髪を惜しみなく耳にかける仕草は、同性ながらに惚れ惚れしてしまう色気を当てられた。
その居ずまいにおけるはっきりとした格差の所為か、大人の余裕のようなものが店中に振りまかれているようだ。
「その、急だったのにありがとうございました」
「構わないわよ。困ったときはお互いさまでしょう」
「でも見ず知らずのこんな私に……意味が分からないですよねぇ」
水子は乾いた笑いでぎこちなくはにかんで見せる。あまりにも魅力的な彼女の微笑みに思わず喜色を零してしまった。
謝罪の立場と絶世の美しさに緊張してか、含みがあるようにも見えるニタついた笑みは喜色というよりも気色が悪い。
同性の水子でさえも、こうも浮ついて身悶えさせる見目麗しさはもはや感服するしかなかった。
謝罪の立場による緊張だとしても、紛いなりにも言葉を介してなお緊張は晴れないのだ。
風貌から既に芳しい香りが鼻翼をくすぐってきそうな、眺めているだけで極上の色香に胸がすく。
流麗な金髪に、碧い瞳。それらは純真な日本人によるものには見えなかったが、彼女の流暢な日本語を聞くに尊敬や憧れに割合を振った違和感は否めない。
染めていたりコンタクトの類ではない自然な色合いは、水子の目途に確固とした確信を裏付ける。
彼女の可憐な振る舞いが愛想笑いでさえ上品に見せていた。
「それじゃ、その理由を聞く前に自己紹介でも済ませておこうかしら。私は森崎レベッカ舞。よろしく」
「あっ、白石水子です」
森崎レベッカ舞。語感や字面からして分かりやすく、水子の確信を言葉へと昇華させる。
差し出された華奢な真っ白い手に握手を組み交わし、憧憬の眼差しで水子は尋ねた。
「やっぱり、ハーフの方だったりするんですか?」
「そう。欧米のほうのね」
自慢げに話すでもなく、嫌味のないさらっとした滑らかな口調で彼女――森崎は告げる。容姿に似合わぬ堪能な日本語を使う人間として、物珍しそうな視線を向けられることは慣れたもののようだった。
今回も例に漏れず水子の眼差しに込められた意味を知って、内心うんざりした気分を噛み殺している。
とはいえ、それ自体を嫌がっても稀有な視線が尽きるわけでもなく、羨望を拒む方がよっぽど皮肉ったらしく見えてしまうだろう。
もとより、誰かに憧れることは決して気持ちの悪いものでもない。それに酔いしれないだけだ。
「へー、へー! すごいです! かっこいいなー」
「そんな。大したことじゃないわ。偶然そういう家に生まれただけだから、他の人となにも変わらない。少なくとも私は自分の良いところがお家だけだとは思わないもの」
本人は遜っているが、白石の目には余計に森崎の姿が凛々しく見えてしまう。口にしていることがもはや男前である。
言葉に見合うだけの容姿や品格を兼ね備えていなければ、思い上がっているだけにしか聞こえないような言い回しだ。それが不自然でもなく素直に受け入れられる。
水子から言わせれば他の人と変わらないなんてことは断じてない。芸能人やハリウッドの女優でも引けを取るほどの美貌は、あるいはテレビの中ではなく直接その瞳に映しているからだけなのかもしれないが、そうだとしてもその中で一際輝いて見せそうなほどの美貌なのだ。
彼女の言葉一つを嫌味に感じられないことが既に、森崎レベッカ舞という女性の品格を表している。
水子は同性であって、一人の女として、そこに憧れを隠せなかった。
「そんなことより、そっちの方はどうしてあの男の子に追いかけられてたの? 痴話喧嘩……には見えなかったけど」
喧嘩の街、とはいえ痴話喧嘩なるものは街の様相を成す一部と言っていいものだろうか。そもそも痴話でもないのだが。森崎の目にそう見えてなかったことに水子はまず安心を覚える。
森崎の生い立ちに小粋な情緒を膨らませていたところ、一転して水子の苦労話は決してその余韻に栄えるものではない。
「それはその……話せば長いようで短いようで、とっても下らないことなんですけどね。その前にまず、舞さんって呼ばせてもらってもいいですか?」
謝罪の立場だったということもあり、ざっくばらんな水子も今回ばかりは敬語にもなる。というより、憧れが前面にせり出て口が勝手に敬語を滑らせている。
何時もながら水子の他人行儀を嫌ってはでなく、それもまた憧れが先行して下の名前を呼ぼうとしているのは流石の神経の太さといったところか。
異性からの提案であれば相当親しみ合っている仲でもなければ飲み込み難そうな提案だが、同性だからこそ森崎も抵抗は小さかった。
「そう? じゃあ私も水子でいいかしら」
「ぜひお願いします!」
想像以上の食いつきに森崎はたじろぎつつも、水子から伝わってくる愉しげな雰囲気は単純に居心地が良かった。
心の内で静かに慕っていればいいものを、言外に憧れてますと言わんばかりに押し出された佇まいはいっそのこと清々しい。
ハーフというだけで向けられてきた奇異な視線でも、水子の場合は不思議と森崎も好感が持ててしまう。
同性ながらに憧れを向けられているように、同性ながらに水子を見る森崎の目は好意的だった。それは水子の持つ魅力がそうさせているのだ。
程よく緊張も解けていき、水子は初めて森崎の前に自然な綻びを見せる。
独り善がりに浮ついていた雰囲気も睦まやかになったところで、咳払い一つに見栄えを整える。
今一度先ほどまでとは別の緊張感を持って、語り出す。
「それじゃあ改めまして……実は私、フリージャーナリストを目指してるんです――」
あの下らなすぎる追いかけっこの真相を解くには、水子の生業をさらけ出すことも必要だろう。