第07話 「白石水子の出会い02」
加藤浩一。高校二年生。十七歳。生年月日は八月二十日。
身長は百七十五センチ。曰く、体重はご想像にお任せとのこと。
好きな食べ物はプリン。嫌いな食べ物は麺類全般。特技は大声。趣味は漫画を読むこと。
頑なに無視しても嫌でも耳に入る自己紹介により覚えてしまった情報である。
「ねえいいでしょ、お姐さぁん。お茶くらい付き合ってくださいよ~。あっ! そこの店のパンケーキ超美味いんすよ!」
手振り身振りを加えて無理やり視界に食い込むように、さながら自分の顔を覚えさせようとでもしているのか、加藤が視界に入るたびにそれを無視して水子は早歩きを緩めない。加藤はまた追いつき追い越し水子の視界を汚す。それを数回、数十回繰り返しているうち、気づけば比較的人通りの多い場所までたどり着いていた。
水子の宿泊したホテルから五分とかからない店での食事、そのまた付近での喧嘩現場。そこから歩くこと小一時間、この街の大通りへと向かう道半ばに喧嘩の一つでもと考えて徒歩を選んだが、水子は加藤に邪魔をされそれどころではなかった。
否、実際に『負け犬』こと加藤浩一本人の喧嘩現場は目撃したのだが、取材すべきは彼ではないと水子は本能的に思っていた。
甘味で釣ろうという見え透いた魂胆に水子はそれとなく視線だけを紹介された店へ向け、小さな葛藤の後、心を鬼にして堪え歩く。
何とか口を聞かず誘惑に耐えてきたその隙に生まれたわずかな綻びの所為か、水子は自棄になってまんまと口を開く羽目になる。
「――あのねえ! こう見えてもお姐さんお仕事中なの。邪魔しないでくれる?」
荒っぽい口調で説き伏せる。これまで黙りこくってきた反動か、水子の様変わりした言動に加藤は目を丸くして面食らっているようだった。これでもまだ向けられているものが好意ではあるだけに抑えた方だ。
本日は陽のあるうちからの活動だけあり例のコートは身に付けておらず、身なりから仕事中の雰囲気を見抜くことは難しいだろう。代わりに男勝りというか、それが水子らしいとでも言い換えられるからこそ良いものの、良くも悪くも男受けを狙ったような格好ではなかった。水子らしくラフな様相だが、目的は男漁りでもないだけに自分を見失ってないというところだろう。
もっとも、現在進行形で稀有な男に絡まれていることが最大の問題か。
「仕事なんてサボればいいじゃないっすか。ほら、俺も学校サボってるしさ」
水子の怒気交じりの口調も意に介さずといった具合に、加藤は浮ついた笑顔で開放的に振る舞ってみせた。水子の立場も知らず真剣味に欠ける言動にはとてもじゃないが腹を据え兼ねる。
これが水子にとって時間が有り溢れようものなら、加藤の態度次第では万が一に付き合ってやらなくもなかったかもしれない。如何せん、水子の取材には短すぎる時間の制約が組み込まれているのだ。
ジャーナリストという仕事を甘く見ているわけではないが、今日を含め残り四日間、最終日もあの長い運転時間を考えれば時間などあってないようなものだ。得体の知れない存在を追おうとする身分で、よもやたったこれっぽっちの期間で調べ上げようという試みはその筋の人間に聞かれたら鼻で笑われてしまうことだろう。
例えば警察の調査にしても、あれだけの人数を駆りだしながらたった五日間で解決できる事件がどれだけあるものか。その身一つで臨む水子にはあまりにも短すぎる期限だ。
ともすれば、それこそ加藤の言うように、この五日後には組まれたバイトの予定もサボってしまえばいいのだろう。
残念ながら、それを許すだけの財力が水子にはなかった。
「悪いけど『負け犬』君。これは遊びじゃないの。本当はお茶くらい一緒にしてあげれればいいんだけど、生憎とお姐さんには時間がないのよ。これ以上私に嫌われたくなかったら学校に行ってお勉強してきなさい」
「えー……勉強は嫌いっすよぉ……それより、何のお仕事してるんすか? 良かったら俺、お手伝いしますよ。あと『負け犬』って呼ばれるのも嫌いなんでこーいち君か浩ちゃんって呼んでください」
やたらと人懐っこく食い下がって諦めない加藤に、水子は自然とため息を吐いていた。
ひとしきり眉間にしわを寄せて考え込み、水子は告げる。
「……ごめんなさいね、加藤君。とてもじゃないけど君では手に負えない仕事よ」
「うーむ。それ、逆に気になる言い方っすよ。あとこーいち君か浩ちゃんって呼んでください」
はぐらかすにも押しが弱いことは理解しているが、ただただ迷惑に思うだけの白石水子とは別に、ジャーナリストとしての白石水子にとって貴重な情報源であることが無碍に切り捨てられない要因か。
水子はそれに付け上がられているのだと判断し、いい加減に取り繕うのも辞め不満を連ねた。
ついでに語尾の鬱陶しい要望もわざとらしく強調して可能性を折っておいた。
「加藤君。そもそも君ね、私の何を気に入ったのか知らないけど何でずーっと付いて来るわけ? しつこい男は嫌われるってよく言うでしょう? だいたい何よあの人の顔見て言う一言目は。女の子に振り向いてほしいなら憐れに気絶してないで得意の喧嘩にでも勝って強いところを見せてみなさい」
単刀直入に、つい先ほどの介抱してやった事実を突きつける。
『負け犬』なんて呼び名を本人が気に入っていない通り効果はてき面で、空の息を飲んで言葉を失っていた。特別な解釈でもなければ厭世的でしかないその二つ名を嫌がることなど当然であろう。敗北、という事実はこの街で喧嘩をする者である彼には屈辱でしかないのだ。
水子はこの目で見たままに加藤の無念を容赦なく抉った。
加藤は悲しみに溢れた喉を振り絞るような声で嗚咽する。
その目に光り輝くようにこみ上げてくるものはなく、鈍感そのものの水子でも加藤の演技を見破ることは容易かった。
「……だって、だってさぁ……俺って何故かいっつも負けちゃうから気絶してばっかなんすよぉ……そんでもって喧嘩なんて当たり前の街だから怪我人でも誰も見てくれる人なんていなくて……優しく介抱してくれるのなんてお姐さんが初めてだったんすよぉ! そんなもん女神じゃんよぉ! そりゃあ好きになっちゃうでしょぉ!」
随分と情けない告白だ。限りなく演技的である分、同情を誘おうという見え透いた腹の所為でほんの僅かばかりも水子の心には響かなかった。
好意という感情は理解できるのだが、誠実さが足りないというか、これだけ軟派な物腰では頭の弱いタイプの女しか引っかからないだろう。
これでも確固たる意志を持ってこの街に訪れた水子を騙すには無理がある。
水子は加藤が嘘泣きにかまけている間に一寸ばかりの策略を企てた。
目に映るは横断歩道。丁度、今から走って向かえば、水子の脚力ならば信号機の青い点滅が赤へと変わろうとする瞬間に間に合うだろう。
そこで泣いて油断している加藤を引き離すという寸法だ。
そうと決まれば水子が行動に移すタイミングは間違わなかった。
この一瞬を逃せばまた次の信号を待つ必要がある。その時にはどう状況が変わっているかも分からないのだ。ならば今だけしかない機宜を逃さない。
水子は加藤を置き去りにして無言で走り去る。
「ちょっ、あれ、お姐さん!? せめて名前だけでも教えてくださいよぉ!」
一瞬遅れて背後からあのうるさい声が響いてくるが、ただ一目散に駆け抜けた。
水子が横断歩道を渡り切ると同時に信号が切り替わり、そこでようやくチラと振り返ると、赤になった信号を構わず渡ろうとする加藤にクラクションを鳴らしたトラックが遮っていた。
後続に数台の自動車が続き、加藤が完全に渡るタイミングを失ったことにひとまず安堵し、水子は身を隠すようにその場を立ち去る。
いよいよ本格化するはずの水子にとって取材二日目、波乱すぎる幕開けである。
◆
犬の遠吠えにも似た、晴れやかな空を突き刺す鋭い叫びだった。
街中に響き渡ってはいないかと疑われる狂犬のような声が、どこからか聞こえてくる。
「お姐さーん! どこっすかー!」
街のメインストリートからは少し外れた路地を歩く水子は、人知れず身を竦ませていた。
それこそ犬並の嗅覚でもない限り簡単には見つからない場所に身を移したつもりだが、存外この執念にはそれに匹敵するだけの索敵能力が備わってはいないかと、背中に冷えるものを感じている。言葉には表せぬ嫌な予感が冷や汗となって頬を伝った。
水子は恐る恐る振り返り、そこに彼の姿がないことを確認して安堵する。
調子が惑わされれば、甚だ予定も狂う。
本来であれば大通りに出て、水子が最も気にする名である『西京鋼平』の聞き込み、及び捜索に臨んでいたところ。
加藤浩一という男一人の為に邪魔をされる不満を隠しきれない。
延いては、善人ぶって彼に絡んでしまった後悔である。
何故絡んでしまったのだろう、と嘆いたところでその疑問はあまりに簡単で、そこに気絶した人間が居れば手を貸すことは普通に平常な感覚だ。異常なのはこの街の方だった。
気絶した人間が居れば放っておくのが当たり前のこの街で、平常な感覚を持つ水子が手を貸してしまったが為に、妙に懐かれてしまった。
恩を仇で返すとは正にこのこと、本人に悪気は無さそうだったのが痛いところだ。
また、どこかからあの声が聞こえてくる。このまま定期的に叫び続けるつもりだろうか。
放っておけばそのうち諦めるだろう、とも思えないのが怖いところだった。
これだけ大きい声で叫んでいれば嫌でも一般人の耳にも入ることだろう。
あるいは、追われている立場だからこそ変な焦りを持っているだけかもしれないが、この街では彼の叫び声もまた日常的なものという可能性も存分にあり得る。
あのあんまりな二つ名を付けられるだけあり、悪目立ちする加藤浩一の名前に集う人々は少なくないかもしれない。
その本人が求める探し人が誰なのか広まれば、水子の取材どころでなくなるというのは想像に容易い。
そうして仮想敵の増えていく水子は無意識に警戒を強めていた。
取材を始めるにも場所を変えるしかないかと、思わぬ形で時間と手間を取られる。
周囲を警戒しつつ移動を始め、水子はため息ながらに考えた。
加藤に近づいていしまった後悔と同時に、助けてやった選択は間違いではないという思いがあるのだ。
人として当然というか、この街の異常性に毒されない普通の感覚を忘れてはならない。この街の常識を普通の感覚として持つには、ジャーナリストとして大衆に向けるべき記事を書く人間として致命的だ。
そうでなくとも水子を持ってして苦手と言わしめる彼の人間性。あの清々しいほど実直な性格に水子の同属嫌悪的なものはあれど、紛いなりにもそこに向けられる感情が好意であるだけ、不思議と無碍に嫌うことはできなかった。
だが、ジャーナリストとしての白石水子と、あるいはその中の人として、水子はそのどちらをも両立させられるほど器用な人間ではない。その半端な対応は、極端ではあるが水子にとっても加藤にとっても互いに意味があるようには思えなかったのだ。
だからこそ、ジャーナリストであるためにこの街に立つ水子は、加藤の声に振り替えることは出来なかった。
十字になった路地から顔を覗かせ周囲を見渡す。
そこに彼の姿がないのを再三に安堵しかけた、束の間のことである。
水子から見て右側に真っ直ぐ伸びた路地の突き当り、曲がり角から機嫌よさげな例の男の装いが目に飛び込む。
「げっ」
水子は思わず嫌なものを見るような反応で声を漏らしてしまう。今一番会いたくなかった人物と言って間違いない。
すぐに顔を引っ込めたが、人通りのまばらな路地には存外に水子の声が響いてしまった。顔を引くほんの一瞬、彼が水子の方に気づいたのを確認できた。
緊張からか、隠した身に思いの外高鳴る胸の鼓動に我ながら胸やけしていた。
いよいよ追いかけっこの様相を成してきた、高校生にもなる男と大の大人である。
水子は何故か追いかけらる立場となったことに今更疑問を抱えつつ、大通りに出た方が返って人混みに紛れやすいかと瞬発的に判断する。
行ったり来たりに脚を走らせ、太陽も昇りきらないこの午前の間にこうも疲労を感じる羽目になるとは思いもしなかった。
背後から聞こえてくる追いかけてくる声と足音から逃げ、部活で鍛えたはずの脚に衰えを感じつつ。
大通りに出る道を左に曲がる。
背後の様子を振り返りながら走っていると、水子が出てきた道から今にも彼が飛び出てきそうな声が聞こえてきた。
あの大きな声が路地に反響して背中を襲ってくる、そんな恐怖感。
後ろを気にするばかりであれば、当然前の様子など見えるはずも無く。
「――きゃっ!」
何かにぶつかる衝撃で水子は尻餅をついた。
無論、そんな可愛らしい声を上げられるのは水子ではない。