第06話 「白石水子の出会い01」
「――どりゃああああああああああああああああああああああああああああああ!」
モーニングコーヒーも極めたての太陽が加速的に明るみだす朝一番。
爽やかな小鳥のさえずりとは遥かにほど遠い暑苦しい雄叫びが聞こえてくる。
大声コンテストが開催中なら優勝も間違いなしの清々しいような騒音だった。
さあいざと足を踏み出そうという、白石水子にとってフリージャーナリストとしての初仕事で二日目の一歩を刻もうとした瞬間のことである。
費用軽減のため素泊まりプランでの旅。全国的に有名なジャンクフードのチェーン店で朝食を済ませ、この街、『神倉市』の中心街へと向かった正に一歩目を狙いすましたかのような轟音だ。
およそ人間の声帯から出ているとは信じ難い、水子は一瞬怪獣か何かを錯覚してしまうような声だった。
「おい、そこで『負け犬』の加藤がやってるってさ。行こうぜ」
「この声聞きゃ分かるよ。まーた勝てねえ喧嘩吹っかけてんのか、アイツは」
水子とほとんど変わらぬタイミングで店を出た、大学生くらいの二人組がスマホを片手に会話している。
さも当然かのようにこの大声を聞き流しながら二人並んで喜々として走り出した。
水子はあまりにうるさい大声に呆気を取られ、何となしに耳に入った会話の内容に理解が遅れていた。
理解するよりも早く、まばらだった人波が男女問わず一点に向かっているのを視界に捉え、水子は戸惑いながらもその波に乗じる。
恐らく水子と同じく食事中だったのであろう店の中からも何人か走り出してきたのを確認して、ようやく状況を掴めてきていた。
これが話に聞くこの街の代名詞。
この街の誰もが目指し、誰もが語る、最強という栄誉。
水子がいよいよ本格的にジャーナリストとしての活動を始めようという記念の瞬間もお構いなしに、この街の朝は例によって喧騒から始まった。
どうにも、今朝の主役は妙なあだ名までつけられているようだ。
二人組の会話の内容からしても主役は悪目立ちしているように伺える。
その二つ名は最強を目指す者として致命的ではなかろうか。
「てめえらいつかぜってえぶっ飛ばしてやっかんな! 右ストレートでぶっ飛ばす!」
水子が騒動の中心に行き着くのは一歩遅かったらしく、決着は早々に決まってしまったようだ。
騒ぎの中央には人だかりが厚く取り囲んでいる為に、残念ながら催しそのものの様子は見られなかった。これだけの人混みでも耳に残る甲高い声は、負け犬の遠吠えよろしく、そんな捨て台詞だけを水子の耳に届けていた。
哀しいかな、相変わらず威勢だけは良い大声の所為で、勝敗の甲乙はその光景を直に見ずとも分かってしまう。
恐らく乙であるところの彼の語勢は、酷く荒れていた。
水子はそんな暴言を右から左に聞き流しながら、感動の中にいる。
ただの街のチンピラに過ぎないような彼らの喧嘩程度に、これだけの人だかりが集うものかと。よもやその誰もが躊躇も無く行われる暴力を見て喜々としているものかと。
否、前もって調べた情報や昨夜の取材に聞いた話そのものなのだが、そのものであることに高揚感を隠しきれないのだ。
忘れもしない、初めてこの街の地を踏みしめた昨日、想像とのギャップに小さな挫折を味わった。
バー『すみれ』の店主である斎藤悠から話を聞くまで、聞いて尚も胡散臭かった疑心が今ようやく晴れたような気がした。
これこそが、この街のハイライトである。
喧嘩。明確な勝ち負けのある喧嘩。殴り合いの喧嘩。
誰かが勝ち、誰かが負ける。そこに意味は無く、ただ最強という栄誉を目指す為に、傷付け合う。
水子は喧嘩の街と聞き、泥臭いものを想像していた。
だが、そこにあったのは誇りのぶつかり合いだった。
誰かが勝ち誰かが負けるというだけの意味のない行為に、人々が語り合う理由を水子は知った気がした。
水子の場合、昨日からのようやく喧嘩に立ち会った感動を錯覚しているだけかもしれないが、この街の異質な様態の一部を紛れも無く垣間見たのだ。
口頭での記憶やメモ帳の上にだけあったはずの情報が、今初めて本物になる。
人混みを掻き分けようにも水子の女性然とした体躯では進める距離もたかが知れる限り。ちょっとした音楽フェスにでも乗り込んだような分厚い人の壁に阻まれる。喧嘩そのものの様子は目で見えなくとも、中心の彼らの声だけでも聞き逃すわけにはいかない。
負けた側の彼は喧噪の中でも聞き取りやすい声だが、甲は普通の成人男性ほどの声量だった。ご都合的に彼らは名乗りを上げてくれて、水子の耳でも確認することができた。
「リベンジするならいつでも受け付けてやる! 俺たちの名前はボトムスだ!」
何故か大衆へと呼びかけるように声を張っている。思わぬところから水子の貧しい記憶力にも引っかかる名前を聞いた。
その後に鈍い音が続き、悶えるような短い呻き声と同時に喧騒は鳴りを潜め始めた――ようにも思えたが、人だかりが口々に揃えるのは水子と同じ疑問である。
右も左も前も後ろも、皆何故ボトムスがと、声を揃えていた。これが昨夜、水子が桐谷という中年から聞き及んだ情報の一つ、ボトムスを騙る連中が居るという、その実態だろうか。
最強を目指す為その名を騙り注目を集めている、と水子が予測を付けたのは、あくまでも口頭で聞いた情報での限りだ。名前を広めようとしているのは何となく分かるが、此度もその真意までは見抜けなかった。
水子は視認することは出来なかったが、ボトムスと名乗った彼らはその場を後にしたのだろう。あれだけあった人混みが徐々に解散していく。
『負け犬』の彼は止めを刺されてしまったのだろうか。そのあんまりな二つ名を付けられるだけあって、今回もまた勝てなかったようだ。
やがて人だかりは見る影も無くなり、まばらな神倉市の姿に戻っていく。
その流れに乗り忘れた水子が取り残されたことに気づいたのは、辺りに水子以外の人影が完全に退散してからだった。
「え? ちょっ……え?」
水子が戸惑いを隠せなかったのは野次馬たちの解散の速さからではない。
取り残された水子の他にもう一体というべきか、もう一人、道端に倒れたまま放置された『負け犬』の彼を誰も介抱しないことからだ。
気絶して動けないはずなのに誰も手当てを施してやろうともしない。
辺りを見渡しても皆平然と普通の日常に溶け込んでいく。
水子だけが左右を見渡し、孤独感を味わっていた。
慣れという範疇を超えた、日常である。
この街がこの街たる所以ともいうべきか、怪我人を当たり前に見過ごす異常な日常を、水子は簡単に受け止めることは出来なかった。
「……だ、大丈夫なの君?」
この街の異常な日常性を普通の感覚として放っておくことは出来ない水子は、今なおも苦しそうな呻き声を上げる『負け犬』の下に歩み寄る。
嫌な方向に曲がった鼻から滴り落ちる血が生々しく、水子はそっと頭を抱えて常備していたハンカチで拭いてやった。
触れられることに痛みを伴うのか、彼は短い呻き声で訴える。気絶した状態でも無意識に痛みを避けようと首を動かし、その防衛本能がやがて彼の意識を連れ戻していった。
「――うっ、痛ぅ……」
「良かったわ……無事よね、君?」
陽の光を眩しそうに捉えながらゆっくりと半目を開く。
水子は目覚めてくれたことにまずは安堵し、次に意識の確認を取る。付き合ってやる義理こそ無いが、意識に異常があるのなら病院に連れて行ってやらなければならない。この街の誰かがそれをしないなら、普通の感覚が為に近づいてしまった水子に責任が発生してしまう。
自我があるのならその先は彼自身に任せるだけだ。
あわよくば、水子は取材に付き合ってもらう構えでいた。介抱してやった恩義に話を聞かせてもらうくらいは許されるだろう。
勿論、近づいた時点でそれを見越していたほど水子も露骨に狡猾ではないが、近づいてしまったからにはと思うのは傲慢だろうか。
最強を語る者の立場は昨夜も聞いた。最強を目指す者の立場からも話を聞かなければならないと水子は思っている。ともすればこれほどおあつらえ向きなことも他に無いだろう。
ボトムスと名乗った、彼らに絡まれたのか絡んでいったのか、その辺の事実関係も気になるところだ。
両目を薄ぼんやりと開き次第に定まっていく焦点に、繰り返して意識の確認を取る。
何を思ったのか、目が合ったことに安堵している水子を見上げ、不意にあの喧しい声で叫び出した。
「はっ! 女神!」
白々しく聞こえるような反応だった。
腕で抱え続けることに疲れて地につけた膝に乗せてやる――図らずも膝枕の形だったが、その体制のまま水子を真っ直ぐに見つめてくる。
彼は思いの外元気に体を起こすと感覚を確かめるように体を動かしつつ、衣服に付いた汚れを落としながら最後は気合の掛け声とともに自ら鼻を矯正した。顔に残る血を服の袖でゴシゴシと拭き取り、改まって両膝を付く。
言葉も出ずに膝をついたまま呆ける水子に、彼は手を揃えて頭を下げた。
形の出来た土下座だった。
「あざっす! 俺の名前は加藤浩一、助けてもらった御恩ぜってえ忘れねえっす!」
随分と意気の籠った自己紹介だ。
『負け犬』の加藤、改め加藤浩一。先ほどまでの気絶が嘘のように、加藤は水子の受け入れられる度を越して快活に振る舞っている。えらく凛々しい顔つきで水子を眺めていた。
水子が面倒くさい人種に絡んでしまったと判断するまでに時間の浪費は少なかった。
「あっ、それ俺の血拭いたんすか!? 洗って返すんで名前と連絡先教えてください!」
加藤は水子が手に持っている血の付着したハンカチに目敏く気づき、受け取ろうと、というより物欲しそうに両手を差し出している。その流れに繋げるにはいささか強引ではあるが、ナンパ紛いに情報交換を求めてくる。
「い、いいわよハンカチくらい。何ならプレゼントするから。じゃあ私はこれで……」
あまりの熱意に流石の水子も気圧されている。
水子はヒラリとハンカチを加藤の手に落とすように乗せてやり、普通の感覚で善人ぶってしまったことに後悔しつつ、そのまま立ち去ろうと身を翻した。
それとなしに分かりやすく関わりたくない雰囲気を振りまいていたつもりだが、加藤はやけに食い下がってくる。
「待ってください! そうだ、助けてもらったお礼にお茶でもしましょうよ。俺奢るからさ、ねっ」
結果はどうあれ先ほどまで荒々しく喧嘩していた割りに、この女々しい態度が悪い方向にギャップを生んで気持ち悪い。それに合わせて初対面もいいところ、たった二、三言ほどしか話していないにもかかわらず、あまりに分かりやすい好意が逆に不快だった。
水子に対した一言目がその大きな起因であるのだろう。
何をどうまかり間違っても、それだけ言われるほど水子は出来た人間ではないと自覚していた。照れや気恥ずかしさよりも先に不快感が勝るのも品に欠けるが、謙遜でもなくただただ背中がむず痒くなる。
初対面どころか、ほとんど目を合わせただけの相手に言われる言葉として、純粋に不信感を覚えた。
他に誰も居なかっただけで普通の感覚として近づいてしまったが、こうも大袈裟な反応になるものだろうか。普通の感覚として、水子はその異常な好意を受け付けられなかった。
そして加藤が身に纏う校章付きの青いブレザーからして分かる通り、見るからに年下も年下に奢られるような筋合いはない。中学生程幼くも無く、大人と呼ぶには落ち着きに欠ける、よもや高校生に馳走になるほどひもじい思いもしていない。
単純に加藤の付け上がった態度は気に食わなかった。
あるいは、それは水子の子供染みた稚拙なプライドだろうか。
関わっては負けだと、これまた子供染みた変な勝負意識に駆られ、水子は無言のまま足早に立ち去る。
普通に歩いては追い付かせない程度の歩調で頑なに後ろは振り返らない。
喧嘩の現場をどれだけ離れていこうと、加藤の気配とうるさい声はどこまでも付きまとってきた。
(さて、どう振り切ったものか……)
頑なに無視を決め込む水子に、加藤は自己アピールを絶やさない。
ひたすら無言を貫きずらかる方法だけを考える。
内心のため息を噛み殺す、もはや根気の勝負だった。