第03話 「白石水子のプロローグ03」
ボトムスの発音は装甲騎兵です。
グラスの中には半分ほど酒が残っている記憶はあったが、すっかりと空になったグラスを握りしめながら突っ伏した体制のまま顔だけが二人を向く。
水子と斎藤が取材に話を弾ませ声を雀躍させた拍子に目を覚まし、一気に飲み干したのだろう。酔った勢い余ってグラスの底をカウンターに打ち付ける甲高い音に上手いこと意表を突かれた。
だらしない格好で取材に割って入ったのは、水子の年齢の倍はあろうかと思われるサラリーマン風な中年の男だった。
呂律も上手く回らず、視点も定まっていないような状態で喋っている。
内心面倒くさい人に絡まれたなんて頭の中では考えているが、中年の言葉には聞き逃せない単語がある。これが取材と関係の無い話でもあろうものなら適当にあしらうところではあるが、フリージャーナリストの端くれとして水子は聞き耳を寄せた。
街の最強、なんて話題から話が膨らんでいくあたり、この街ではそんな会話も有り触れたものだろうかと考えさせられる。
話題と同様に、水子の思考も膨らんでいく。
取材中の手前だけに厄介な面倒事は避けたいところ。
チラと横目に見る限り、中年はしゃっくりをしながら再び意識を落とそうとしている最中で都合がいい。
水子は極力絡みたくはなさそうにする仕草で斎藤へ視線を送り、その答えを待った。
「ボトムス――つまりは、自らネットの底辺を名乗るアナーキーな集団だよ。学生からサラリーマン、その他諸々と、パソコンやスマホ一つで誰でも入会できるグループだ」
「それは……何をするグループなの?」
ボトムス。
一応、メモ帳にその名を記してはみるが、斎藤の説明だけでは言葉が足らずにふと水子の筆が止まる。
ネット発足の組織がある、という情報までならありがちと言えばありがちではあるが、それが先までの話題と如何に結びつくものか。組織自体の規模やアナーキーの限度にもよるところで、何れにせよ断片的な情報では予想が難しい。
少々ネットには疎い水子には皆目見当がつかなかった。
ともかく、中年からのただの茶々入れと結論付けるには早計である。
「俺もよくは知らないけどチャットやオフ会が行われているみたいだね。なんでも、グループの発足自体がこの神倉市の街掲示板から始まったらしい。この街の大規模チャットのようなものじゃないかな」
斎藤から補足された説明も結果は変わらず、水子は頭を悩ませるだけだ。むしろことさらに首を傾げる結果となった。
チャットをしたとて水子の中では強いということには結びつかない。こう言っては憚れるが、ネットをしている人種なんて、大概根暗なイメージを持ってしまうことくらいやぶさかではないだろう。
自分の中で情報を整理しながら思考を重ねても、水子は自力での答えは導き出せなかった。
「それが最強……?」
困ったように視線を送っても斎藤もそれ以上は知らないとばかりに肩を竦めてみせた。
肝心なところで、なんて悪態は胸中にしまい、ボールペンのノックを顎に押し当てるような仕草で考え込む。
面倒な展開へとなりそうな予感は大いに存在するが、意を決して話を振ってきた中年に尋ねることにした。
咳払いを一つに、気持ちよさそうに寝息を立てているところ申しわけないが、やむを得ずおだてるような猫撫で声で言葉を選ぶ。
「ねえ素敵なおじさま。なぜボトムスが最強か教えてくださる?」
こういった輩は変に突っかかるよりも調子に乗せてやった方が扱いやすい。
水子が斎藤に対して図々しい態度を取っていた自覚はあるのかは置いておくとして、斎藤はその態度の豹変ぶりに目を見張る。わざとらしいあざとい口調に苦笑いしか出来なかった。
水子も、自己評価では高くないが、並に美人である。
なだらかな撫で肩、均整の取れた四肢、女性らしい身体つきは男女共に理想にするところだろう。引き締まったウエスト、割りにその上部に当たる部分はささやかなものではあるが、言い換えれば見栄えするプロポーションだ。
肩に掛からない程度に切り揃えられた茶色がかった髪は気の強そうな顔立ちに良く似合っている。
現代の若い女性には珍しく、その上着からして着飾らない服を身に付けてはいるものの、少し洒落た格好でもしていれば男性ならば目を引く程度には出来上がった人相だ。
何より、若さがある。
容姿から見るに四十代も半ばに差し掛かりそうな中年の半分しか生きていない、恋に仕事に一生懸命なお年頃だ。もっとも、当人の恋愛経験など語るも悲惨なほどがさつではあるが。
要するに、若い女性におだてられて気を良くしない中年は居ないということである。
「用心棒が居るんだぁよ。とにかく規模が街ぐるみでさ、誰でも簡単に入会できるとありゃあそん中に腕っぷしの立つ奴も多いわけ」
「そう……ありがとう。おじさま」
一応、気を咎めない程度に素っ気ない態度で礼を言う。
興味なく、というよりは、深くは関わりたくない思いでの扱いだった。
あまり長く関わっても良さそうなことは無いだろうとメモ帳に集中する。
中年の説明をそれとなくメモ帳に綴るも、これまでの取材において水子の中では優先度の低い内容である。
要約は理解できるし納得できるものの、それは自身がネットに疎いためか、やはり最強の一角と定めるには如何せん根拠が弱い。極道や不良高校と比べては、信用に足る情報には一歩及ばないというのが正直なところだ。
ボトムスとやらに入会した人物が偶々喧嘩が強い人間だとして、その集まりだと想像しても、ヤクザだのヤンキーだのと照らし合わせて強さの根拠がないのだ。
例えば水子がグループに入会したとしても、水子は喧嘩が強いわけではない。それだけでも、強い人物の集まりより自分のような非力な人物の集まりだと考えた方が想像し易いと水子は思った。
無論、一概に言えたことではないのだろうが、水子もこの調査には時間に限りがある。
中年には悪い気もするが水子も遊びではない。
「……そういえば、ここ最近特にボトムスの名前を聞くことが多いような気もするなあ」
一旦ボトムスに対する思考を断念しかけたところで、斎藤はそんなことを言う。
きっかけこそゲーマー的思考ではあるが、今正に情報が行き交う酒場でその店主ともある存在が口にする発言ならば水子も無視はできない。
情報なら客の居る限り嫌でも耳に入るこの環境で、特にと銘打たれたのであれば気になってしまう。
ボトムスに入会できる誰でもという意味には、反面、強い人物を勧誘しているという想像もまた容易い。
斎藤が最近になって聞くことが増えたという理由は、最近になって組織の力を付けようと勧誘や口コミが増えた、という推察も簡単なのだ。
一転興味を引く話題となり、ふと気になって水子は中年に一歩、もとい一席分ほど身を寄せた。
「もしかして、おじさまもボトムスの会員……とか?」
「……娘がな。友達と一緒に入ってるつって楽しそうに話すんだよ」
考えても見れば親子ほどの年の差だ。
子供が居るのか、なんて失礼なことを考えながら、世間話的に会話を続ける。
「娘さんはおいくつで?」
「十七になった高校三年生だ。俺ぁ毎日汗水垂らして働いてるっつーのによぉ……俺にゃあ友達とか言って、本当は彼氏でもできちまったんだよ、ちくしょぅ……」
掠れていくような語尾で中年は空になったグラスを口に傾けた。そこで初めて空になったことを思い出して項垂れていた。
水子は高三にもなれば彼氏の一人や二人くらいは居るだろうとも考えたが、自分の学生時代を思い出して上手く言葉を見つけられなかった。もとより水子本人はそんなことで愚痴る性質でもなく、自分の父親も中年のように言っていたかとも思うと笑えてくる。
慰める言葉を考えるのもそっちのけに、笑ってる場合ではなかったことを思い出したのは中年の大げさな嗚咽が始まってからだった。
案の定面倒な方向へともつれ込みそうな展開に頭を悩ませる。
水子は誤魔化しついでに強引に話題をねじ戻した。
「そ、それならおじさまっ。ここ最近になってボトムスの名前を聞くようになった理由は何か分からないかしら?」
無理のある作り笑顔を浮かべつつ、およそ水子の思う上品な女性の仕草なんかも振る舞いつつ。
中年は一呼吸置いてようやく顔を上げ、水子の分かりやすい表情に一瞥を下し声をひり出す。
容姿に徳のある分、完全に酔い切った思考回路には十分に効果的だった。
「あー? ……それはな、最近ボトムスの名前を騙る連中が居るらしいんだよ。喧嘩に勝ったら、わざわざボトムスって名乗って立ち去るみてえだ」
「なるほどね……それなら嫌でも名前は耳に付く、か……」
概要をメモに取りながら呟く。
中年からの情報は彼の娘を介すだけあって噂程度のものではあるが、ボトムスが斎藤に最近と言わせる理由は何となく理解する。そういうことなら自ずと名前は広がるだろう。
しかし、水子はそこに不可解な印象を受けた。
わざわざ名乗る必要はあるのか、最近になって活動を活発にする理由は何故か。
あるいは関係のない誰かが意図的に名を騙ってる可能性もある。
また、それも理由には思い至らなかった。
そもそも名前を広めることに意味はないのかもしれない。
喧嘩の街と評されるこの神倉市で、愉悦のためにヘイトを集める手段として手っ取り早い方法だ。
誰でも簡単に入会できるという、中年の娘のような一般人とは別の認識に当たる人物が、最強を手にするべく名乗っているとも考えれば自然である。
だがそれは、それこそ愉悦を求める者とは別の一般人を巻き込む可能性は否定できない。
とにかく、千本桜家や神倉西高と並ぶ存在として認識を変える必要がありそうだと、水子はメモ帳にある件の名を円で囲む。
水子は改まって中年に感謝の礼を向けた。
おだておだてられる立場とは別に、取材におけるジャーナリストの端くれとして、正式に頭を下げた。
これだけの話を引き出せれば十分に取材としての価値があると思ったのだ。
ジャーナリストとして、ボトムスという組織を頭の片隅に叩き込む必要を教えられた。
最初は話の流れから生まれた取り留めのない些細な情報である。
きっかけはどうであれ、水子の中でも一つの手がかりになるまで膨らんだのであれば、そこに敬意を払わないわけにはいかない。ある意味では小さなことでも聞き逃せないジャーナリストの教訓さえも教えられたようなものだ。
水子は先ほどまでのあざといキャラ作りも忘れ深めに頭を下げる。
下げた頭では気分を良くして嫌らしくニタつく中年の表情など伺い知るところではない。
美人におだてられれば調子に乗り、また、美人に頭を下げられれば付け上がるのも男という生き物だ。
あるいは、彼だけの特性という可能性は否めなかった。
「情報料はおっぱいぱふぱふでいいのよ?」
中年の話を真摯に受け止めた水子を馬鹿にするように、鼻の下を伸ばしながら茶々を入れる。
スケベ親父そのままに、中空で何某を何某かするかのようなワキワキと開閉する卑猥な手つきは素直に不快だった。
調子に乗せすぎた酔っぱらいの末路に、度量を超えてしまったかと後悔しながら、水子は猫撫で声をやめて凄みのある声色で言い放った。
「私が良くないのよ」
「店内でのセクハラは困りますよ、桐谷さん」
斎藤からの援護射撃もありつつ、中年を完全アウェーへと追いやる。
少なからず情報への感謝はあれど、何某をぱふぱふさせてやる義理は無ければ、当然斎藤も店内でセクハラさせるわけにもいかない。
桐谷と、名を呼んで諭すだけあり顔馴染の常連でもあるのか、刑務所入りで見す見す客足を減らすことは店の店主としてもよろしくはないだろう。
ケッ、と吐き捨てていじける中年の姿など、相当酔わせてでもいないと中々拝めるものではない。
「へいへい。お嬢さんにはぱふぱふするようなおっぱいは無いですもんね」
「うるさいっ」
「そんな硬えこと言わねえでよお、硬えのはおっぱいだけにしとけってかぁ!? タハァーッ!」
水子の講義も無視しながら、桐谷は額にぺしっと手のひらをあてがって腹を抱えて大層に笑い出す。大喜利にしても寒すぎるノリに着いて行けず、乾いた笑いすら出ずに笑い声が収まるまで待ち続けるしかない。
柔いから、なんてコンプレックス丸見えのツッコミに意味があるはずも無く、相手取るだけ無駄だと考えるまでにそれほどの時間を要する必要は無かった。
メモ帳をまとめる横目に、笑い声の息継ぎを聞く度に募るやり場のない苛立ちは何とか噛み殺し、本人が満足するまで一通り笑わせながら放置する。
やがて収まった笑い声の代わりに呼吸を整える深呼吸も終え、桐谷はゆっくりと席を立った。
千鳥足で歩き出す様子は今にも転げそうで危なっかしく見える。
「おじさまはもう帰りますよ~。あまり遅くまで飲んでると女房に怒られっちゃうもん」
時間を把握できているようにも見えないが、桐谷は腕時計に目を落としてカウンターの横を歩きながらそこら中に身体をぶつけていく。
はるちゃん会計、とだけ意気揚々と声を荒げ、斎藤とやり取りした後にそれっきり店を立ち去った。
結果的に桐谷が居なくなったことで作業も捗りそうなものだが、水子の言いようも無い不満は完全に行き場を失う。
何やかんやと得た情報も大きいだけに、それはそれで納得する他になかった。
「えーと……だ、大丈夫。俺の目にはちゃんと魅力的に映ってるから」
「そんなフォローいらないわよ!」
不機嫌そうな水子を念のためになだめてみる斎藤。
予想通り、その気性は荒かった。