第09話 「白石水子の出会い04」
森崎の心地良い相槌により水子は気持ちよく舌を回した。
語るも情けないような、しかし、フリージャーナリストを目指しているという夢を森崎という品格を備えた女性に聞いてもらえるだけで、自ずと雪崩のように舌が奮った。
大概、馬鹿にされたり冗談のように扱われてきた水子の夢を、森崎は関心深く聞いてくれている。
深くは知り合っていない短い仲にして、水子にとって完璧の権化とも言わしめる森崎が頷いてくれるだけで自信を持てる。
フリージャーナリストを目指しているなんて馬鹿にされようなものを、この街に居るという事実だけで説得力を要していた。そのおかげでややこしい曲解も無く、水子の舌の回りをより滑らかにさせている。
「――それにしても凄いじゃないフリージャーナリストなんて。私なんかよりよっぽど立派よ」
「舞さんより立派なんてとんでもない! それに、変なやつには追っかけられるし、まだ目指しているだけですから」
「まあ、水子はとっても魅力的な女の子だから追っかけられちゃうのも分かるわね。目標を持っているだけでも凄いことよ」
「舞さんにそう言ってもらえるだけでありがたいですけど、やっぱり舞さんには敵いませんよ」
水子にとってフリージャーナリストを目標としているように、憧れの女性である森崎から正面切って真っ直ぐに言われると照れてしまうものがある。
俯き加減に、ニタついた顔を隠すように水子ははにかんだような笑顔を浮かべている。
森崎からしてみれば快活な印象を持っていたギャップで余計に可愛らしく見えていることなど、水子は気付いていない。謙遜というよりも、森崎を前にして豪語できない及び腰が自然とそうさせているのだ。
水子はあまり誰にも気圧されるタイプでもないのだが、森崎の前にはちょっとした貴族でも相手取るような緊張感がある。
壊れやすい玩具で遊ぶような、というのは勝手なイメージだ。実際は、強かな佇まいに水子も憧れを隠しきれず、そこで変に慎重になってしまうだけだった。
面接を受けるような圧迫感ほどではないだけに、水子も愉しげではあった。
水子は時間と取材のことも忘れて談笑を続ける。
「ジャーナリストか……こんな変わった街なんて他にないものね。取材するなら面白そう」
「そうですねぇ。私もまだこの街に来て二日目だけど、あっちこっち振り回されてばかりです。何を聞いても新鮮だし、信じられないことだらけで」
水子がジャーナリストの立場として聞いた話も、その目で見た事実も、上辺ほどの知識にも拘らず何れも常識の範疇を超えている。
それをこうして第三者と共有することで再確認し、水子はここにきてようやく肝心の目的に思い至った。
「そうだ! 舞さんにも一つ聞いてみていいですか?」
「んー。私もこの街の人間ではないからあまり詳しいことは分からないけど、それでいいなら」
見るからに、と言っては語弊があるのかもしれないが、この街でさえも浮いて見させる森崎の容姿だけでは少なくとも日本国の出身とは思わせない。流暢に扱う日本語を聞いて初めてハーフだと認識できる、そんな森崎がこの街の出身ではないことは大きな違和感もなく受け入れられた。
きっとそうなのだろうと承知の上で、水子は念のため最も気になるところの名を尋ねる。
否、あの高笑いを思い出して、更に奥へと胸にしまった言葉を飲み込んでいるのは、森崎に嫌われたくない一心からだった。
「そうなんですね。じゃあ、『西京鋼平』って知ってます?」
「西京君? 知ってると言えば、知ってるけど……」
「知ってるんですか!?」
「え、ええ。ううん……いえ、ごめんなさい。多分、水子が欲しがるほどの情報ではないかもしれないわ」
森崎の誤解ともとれる口元の動きは、曖昧な反応だった。というよりも、水子の熱意に対して持ち得る情報の量に自分で信用を保てないのだろう。
どんな些細な情報でもいい。あるいは、森崎の口から初めて西京鋼平の名を聞くことで、水子の中に証明されるものがあるかもしれない。
別の角度から二つ以上の見解が耳に入って初めて認めらるような、西京鋼平という超常の存在を、ようやく確信できる。
水子の追いかける真なる目標としているところの、『不死者』。ちっぽけなきっかけで広まった都市伝説の、それとは別に、それに匹敵するほど、西京鋼平という存在は水子の中で漠然たる、もはや概念だ。
水子に彼の名を届けた者によるただの作り話という線も未だに捨てきれなかった。森崎の口からその名を聞くことでようやく一つ安心すら覚える。
それは単に水子が森崎のことを過信しすぎているだけかもしれないが。
「えっとね、私の……知り合いがね、彼のことをよく知ってるみたいで、話をしたことがあるだけなの。ホラ、何か凄い逸話をいっぱい持ってる人でしょう? それで私はその話を聞いていただけなんだけど、西京鋼平は拳銃で撃たれたって倒れやしないんだ、って」
「ム。また並外れた伝説を……その舞さんの知り合いの方って、どれくらい、西京鋼平のことを知ってますか?」
また耳を滑らせてしまうような伝説に水子は難色を示し、慌ててメモ帳を取り出す。
聞けば聞くほど都市伝説に近づいていく情報は、水子の中で無理に結び付けないことで、西京鋼平という存在を人間として強引に認識するしかない。西京鋼平と『不死者』を無闇に結び付ける固執した考えは盲点を生む。
それよりも、知り合いという、確固たる証拠を聞き逃すことはできなかった。
水子としてはこの街において最強たる西京の話題だけあり、割とポピュラーな質問のつもりではあったが、森崎は明らかに憚られる険相を浮かべ、口を重くしていた。
「あー……西京鋼平マニアってくらい、知ってるわね……身長体重から、顔と、年齢、住所、家族構成まで、知ってるみたい。意外と着痩せするタイプだって、言ってたわ……」
「ええ……何か、凄いですね……」
「そこまで行くともう、感心も飛び越えて嫉妬するわよね……」
稚拙な感想しか出てこないような、何故そこまでと言いたくなるほどの情報過多である。それを聞いたところで当人でもない森崎が知るはずもないだろう。
森崎にすらやっかませるほどの、想像の中では親密性を極めている。着痩せするする云々は、つまりは、実際に中身を見ていなければ分かるものではない。身長体重や年齢においても想像付けるくらいなら容易いことかもしれないが、森崎の口ぶりを聞くに正確な数字さえも持ち得ていそうな、そんな印象だ。
端的に言えば、水子は引いた。
とにかく。
貴重な情報源を手放すわけにはいかないのがジャーナリストの勤めだった。
「一応、一つずつ聞いてみてもいいです?」
「えっと、どうだったかしら。興味がなかったというより、ね……? もうあまり覚えてないのだけれど、たしか年齢は私の一個下の二十二歳で――」
森崎は胸中を察してくれとばかりに、詳しすぎるその知り合いとやらへの悪態を含めて水子に同意を求めながら、記憶を探り探りに話してくれる。
次に、身長は百八十センチよりも大きいと聞いた記憶があると切り出して、着痩せするくらいだからきっと筋肉質なのだろうと予測を付けていた。
その人が言うには、あくびが出そうな田舎くさい顔、だそうだ。
水子の中で漠然とした概念が、一つの想像に固まってくる。良かった、と安堵するのは流石に無礼が過ぎるだろうか。ちゃんと人間で良かった。
水子の想像が如何様かはともかく、一つずつメモ帳に書き留めつつ、二十二歳なら同い年なのかと、その一つ上という森崎へと結びつく情報にも関心を呈する。人間離れした人間が、自分と同じ年というのは何か気持ち悪いものがあった。
話を聞いた限りの率直な印象で言えば、長身で細身だが骨格のしっかりした大柄な若者、といったところか。街中でも割と目立ちそうな体躯だ。
詳しすぎる情報に呆れている興味の薄い胸中に、無理やりねじ込まれたと思うと頭が下がる。それだけに住所や家族構成までは流石に覚えていないらしいが、水子には他とない貴重な情報だった。
外見的な印象があれば格段に探しやすくなるだろう。
とにもかくにも、不確定だったはずの西京鋼平の存在に一歩ずつ着実に近づいていっている実感が、水子のモチベーションを満たしている。
都市伝説と笑い飛ばされた『不死者』にも、このままの調子で事を運べばいずれ行き着くのではないか、と。思い上がりにしても、なまじ上手くいってるという実感に水子は味を占めている。
だからこそ、今一度気を引き締めなければと思うのは、白石水子が白石水子たる矜持なのだ。自分の性格を理解し、それが奢りにはならない強い意志を水子は持っている。
「御嬢」
不意に水子の背後から重みのある低い声が聞こえた。あの黒服の声だ。
ただの一言に凄みのある自覚はないのか、唐突に背後からという条件も相まって、水子は驚嘆して変な声を上げる。店の出入り口側に対して背中を向けていたのが悪かった。たまたま場の流れでその席に座ったことを恨んだとて、何も報われはしない。
女子会にしては話の内容が場の雰囲気から逸脱しているが、西京鋼平話を弾ませていた拍子のことだった。
「あら、遅かったじゃない」
そう言って細い腕に付けられた細い腕時計に目を落とす森崎につられ、水子も店に備え付けの壁掛け時計へと目を向ける。小一時間も近く話し込んでいたのかと、そこでようやく水子は自覚した。
森崎を呼んでいるであろう短い呼称以外で初めて黒服の声を聞く。
「はい。あの少年を気絶させた後、妙に目立ってしまったので落ち着くまで身を隠していたのと、少年を寝かせてやれるベンチを探すのに手こずりました」
「そう。この街なら放っておいても誰も気にしないのに、あなた恥ずかしがり屋さんだものね」
件の男はあっけなく負けたらしい。
黒眼鏡の奥では何を考えているのか、無表情に徹した黒服は森崎の言葉に頭を下げたっきり口を閉ざした。
恥ずかしがり屋さんとか、そういう次元とは別の感性に水子には見える。
意志で個性を殺しているような、そんな浮世離れした佇まいだ。
「ごめんなさいね水子、時間だわ。もっとお話ししていたいのだけれど、私この後ちょっと用事があるの」
「あっ、いえ、貴重な情報ありがとうございました。もしよかったらまたお話してください。今度は取材とか抜きで!」
「そうね。ぜひ。私、水子のこと好きになったわ」
「私も舞さんのこと大好きです!」
愛の囁き合いにしたって品格の差が如実に表れている。もっとも、森崎が水子の買っている部分とはそういう実直なところだとは、水子に自覚はないだろう。
堪らずといった具合に綻びを零し、森崎は借りるわね、とだけ言って流れるように水子の手からメモ帳とペンを取り上げた。大事な商売道具だというのに抵抗も無く、また、抵抗の必要も無く、さらっと森崎が一筆加えては水子の手元に戻ってくる。
「それ、私の連絡先。困ったときは相談してね。いつでも水子の力になるわ」
あまりの華麗な流れにボーっと受け取った水子がそこに記された数字列の意味を認識したのは、ワンテンポ遅れて森崎が席を立とうとした時である。
初対面のこんな人間に携帯番号まで渡してしまうのかと、森崎に気に入られているという実感が遅れて脳内に入り込んでくる。
否、連絡先を交換しなければこんな街で、よもや三日後には街を出ようという水子がまたお話なんてことができるはずもないのだが、実感が真っ先に喜びを伝えてくるのだ。
次に水子の胸中を埋めたのは謝意でもなく、流れるような所作への感銘だった。男がナンパの手口で同じやり方をしてきてもきざったらしいだけの、あるいは森崎が相手だからこそすぐにでも連絡を入れたくなってしまうような、小気味の良い一連の流れだ。
またね、とだけ言い残し優雅に手を振り立ち去って、さりげなく会計を済まそうとするところまで含めて、全てにおいて隙が無い。
勿論、森崎が会計に立ち会うまでに流石の水子も現実を見る。
「待ってください舞さん。お礼じゃないですけど、ここは私が持ちますよ」
「じゃあ、お言葉に甘えようかしら」
ひとしきり考える素振りを見せてから、相手を立てることも忘れない精神までひっくるめ、水子の焦がれは留まるところを忘れていた。
今度こそ一旦お別れになるのかと、次に会える日もいつのことか分からない別れに寂しさ交じりに見送る背中は、華奢で女性らしい身体つき。その半歩後ろに付き従う大男との比較で余計にか細く見える。
華奢なその身体は店を後にする直前に突然立ち止まったかと思うと、踵を返して提案した。
「……知り合いのことだけど、明日でも会ってみる?」
水子は考えるよりも早く頷いていた。