04 二通目
親愛なる蒼姫へ
貴女はきっとお怒りになるのだろう。貴女が寄せた信頼を、私がこのような形で裏切ったのだから。
だが、私にはもう耐えられそうになかったのだ。貴女が彼に向ける視線も、貴女から寄せられる、私が求めるものとは別の好意を向けられることも、なにもかも。
そしてなにより、再び、想い人を失ってしまう恐怖に。
私が恐ろしいなどと、それこそ三流喜劇のようなくだらないものであると思われるだろうが、哀しいことにそれも事実。貴女が私の姿を見てくれないことよりも、何よりも、私の手の届かない場所に向かってしまうことが怖いのだ。
嗚呼、貴女が望むものなら全て与えよう。富も名誉も、貴女が望むのならば国ですら貴女のものにしてみせよう。
だが、どうか。我が愛しき蒼の姫よ。人在らざる海の末姫よ。
海に帰りたいとだけは言わないでおくれ。
泡になって消えてしまうなど、私が許せるはずもないのだから。
そして、どうか。我が愛しき蒼の姫よ。人在らざる海の末姫よ。
王子に会いたいとは言わないでおくれ。
貴女の口から彼の名が紡がれるたび、私の心は張り裂けんばかりに苦しむのだ。その口を塞いでしまいたくなる衝動を抑えるのに、必死なのだ。
嗚呼、我が愛しき蒼の姫。
貴女がここから消えてしまわないよう、貴女を繋ぐ鎖を与えよう。
もうすぐ、私からの贈り物が届くはず―…
さぁ、楽しみにしていておくれ。
王子を刺したのはロッドバルド。
王子はシャーロックのことで、ロッドバルドは悪魔。
ねぇ、どうしてこうなったの? どうして、こんなことになったの?
あたしが人間になんかならなかったら、シャーロックは悪魔に刺されることなんかなかった?
ジークもオディールもいなくなった部屋で、一人。ぼんやりとベッドに腰掛けていた。
「海も、ない」
窓の外から、海が見えない。近くに、海がどこにもない。
「シャーロックも、いない」
あたしが大好きだった人も、いなくなった。どこにも、いない。
「あたしが帰る場所は、どこにも、ない」
あたしがいたいと思った居場所はもう、どこにもない。
シャーロックに会うために捨てた海も。
会いたいと願っていたシャーロックも。
あたしの大好きなものは、どこにも、ない。
ない、なんて。思いたくも無いけれど。
切なくて、悲しくて、苦しくて。
恋をしているときよりも、数倍苦しい。大事なものがなくなってしまうことが苦しい。
この悲しみを歌声にすれば、きっと少しは気分が晴れるのかもしれないと思ったけれど。
……あたしは、歌えない。
魔女に差し出してしまったんだもの。あたしの歌を。人魚の魔法を。
「……ねぇ、ちょっといい?」
「……オディール?」
「そうよ」
控えめに叩かれた扉に、掛けられた声。
砂糖菓子のような、甘い彼女。ロッドバルドの娘だって言う、オディール。
拗ねたように唇を尖らせて、あたしの隣にぽすんと座った。
「……あのね、アタシなんかが言えるようなことじゃ、ないんだけどさ」
「何かしら?」
「ロッドバルド、嫌わないであげて」
何を言い出すのかと思えば、オディールはじっと床を見つめながらぽつりとそんなことを言い出した。
「そりゃ、アンタにとっては愛してた人を殺した相手だから、難しいとは思うけど。て言うか、アタシもロッドバルドにそんな感じのことされたから、こんなこと言う筋合いないんだけど」
「オディールも? でも、あなたはロッドバルドの娘でしょう?」
「実の娘じゃないわ。アタシはあいつに生み出されたから、そう名乗っているだけ」
本当は、ただの身代わり人形だったんだもの。
そう続けたオディールは、自嘲気味に笑った。
身代わり人形だって、どういうこと? だって、どこからどう見たって、彼女はあたしたちと同じじゃない。
「ロッドバルドは昔、白く美しいお姫様に恋をしました。それでも、お姫様は一向に振り向いてはくれません」
すっと前を向いて、沈んでいた声を張り上げた。
「それならばと、彼女を白鳥にして自分の手元においておきましたが、彼女の心は離れていくばかり。だからロッドバルドは、彼女にそっくりの娘を作りだしたのです」
「……それが、あなたなの?」
「えぇ、そうよ。アタシはオデットと色違いに作られたの。考えることも、好きになる相手も、何もかも一緒。それでも別の人格だから、慰めにもならないって気付いたみたいだけど」
本当は、このピンク色の髪も黒だったのよ?
そう笑い飛ばしてはいるけれど、その声もやがて小さくなって、消えた。
明るい色したオディールが、暗い顔をしているだけで色もかすんで見える気がした。そっと肩を叩いて、落ち込まないでって。そう伝えたくなったわ。
「お願いよ、第二のアタシを作り出さないで」
ジークといたときとは正反対の、弱々しい声。搾り出すような、祈るような、そんな、溶けて消えてしまいそうな、声。
「アンタが消えてしまわないように、こうしているんだから。アンタがアイツを拒絶したら、きっとアイツはまたアタシみたいな存在を作り出すに決まってる」
「でも……」
「アタシはっ!」
ロッドバルドは、シャーロックを刺したのよ?
二度と、シャーロックのことを見れなくなったの。シャーロックの幸せを願うことですら、適わなくなったの。
そんな相手を嫌いにならないで?
難しいわ、と続けようとした言葉は、彼女の強い声に遮られた。
「繰り返したくないの。ジークに会うまでの数百年を、他の誰かにさせたくないの」
だからお願いよ。
か細い声で、震える手であたしの手を握りしめて、オディールはそう言ってきた。
あたしはなんて答えればいいのか分からなくて、オディールの震える手を握りしめることですらできないわ。
だって、あたしは……
「オディール! オディールここか! 姫、失礼致します!」
開こうとした口は、慌てたようにして入ってきたジークの声に閉ざされた。
どうしたのかしら、そんなに慌てて。
「何よ、やかましいわね。レディの部屋に入るときくらいもっと」
「大変だ!」
ジークは目を大きく見開いて、廊下の方を指差した。
「子どもが押し寄せてきた!」
「……は?」




