09 人間
ぼうと光った果実が一人の女の姿へと形を変える。姿を現した魔女は、形の良い眉をピンと跳ねた。
「そこにいるのは、婚儀を控えた王太子殿下かしら? ……弟の方もだけど、野性味があってコレクション対象にはならないわね」
「お前か、馬鹿げた呪いを掛けたのは」
王太子が、前触れもなく光弾を魔女へと放った。
魔女は慌てるでもなく、虫でも払うかのように光弾を叩き落とす。王太子の手中で、光弾が次々と作り出されては放たれる。
「ねぇ、何がしたのかしら?」
呆れたように大きくため息をついた魔女が、小さく赤い爪に唇を押し付けた。チュッ、とリップ音が響く。
同時に、何発も放たれていた光弾が一斉に霧散した。空気に溶け込むように消えてしまったのだ。
魔女がゆっくりと、再び唇に指を近づける。
その動作を認識したと同時にアンバーが動いた。その上背がある長身で、王太子を隠すように前へと出る。
「殿下」
「身内に呪いを掛けた相手が目の前にいるのに、何もせずにいろと言うのかっ?」
「殿下っ!」
「賢い選択だと思うわよ。たかが魔法が使えるだけの男が、魔女に適うはずがないじゃない」
くすりと、魔女が嘲笑した。
「そうねぇ。魔女を倒したければ、悪魔でも連れてくることね」
ぎりり、と強く唇を噛み締めた王太子は、強く握った拳を強引に下ろした。釈然としないようすを隠しきれていないが、それでも王太子を止めらてたことにアンバーは大きくアンドの息をついた。
「……あぁ、“久しぶり”ねグレイ」
釈然としない様子の王太子を一瞥し、林檎の魔女はゆっくりとグレイに視線を合わせた。
無感情にも思える冷たい目。
そんな目を向けられても仕方がないことをしたのは分かっている。分かってはいたが、実際にそんな目で見られるとじくりと胸が痛んだ。
「無事で、何よりだわ……義母さん」
「どの口がそんなことを言うのかしら? そんなことより、私の淡褐色は元気にしている?」
「ゼルは義母さんのものじゃないわ」
微笑を浮かべているも、目が全く笑っていない。
今すぐ目を逸らしてしまいたいが、踏みとどまる。
この人とのことには、ちゃんとケリをつけると決めたのだ。
「魔女だからと言って、何をしても良いわけじゃないわ」
「私の淡褐色に関わるなといいたいのかしら?」
『あいにくだけど、それらの所有権はあたしにあるわ。あんたのものじゃないわよ』
「毎回人のモノを勝手に横取りしてる、あなたに言われたくないわ」
私たちはモノじゃない。そう主張したくとも、彼女たちにそれが通用するとは思えなかった。
ちらりと横目をやれば、王太子は再び拳に光を集めており、その前で庇うように抜き身の剣を構えたアンバーが立っている。
王太子の手のなかにある魔具からゆらりと映る紫色の魔女に、二人など眼中にないかのように林檎の魔女は射抜くような視線を向けた。
「本当に、余計なことばかりしてくれるのね。せっかく掛けた呪いを解いたりして」
「余計なことは、貴様がしているだけであろう?」
「あら、最善策よ。感謝されてもされたりないくらいだわ」
「魔女のする最善策は、まともな策ではない」
「ヴァイオレットと一緒にされるのは不愉快だわ」
『あんたに言われたくないわよ』
甘酸っぱい薫りが漂う室内は、対照的にピリピリとした空気が張り詰めていた。多勢に無勢と言うべきか、太刀打ちすべき相手はただ一人だけなのに、その相手が巨大すぎるように感じたのはグレイだけだっただろうか。
不意に、林檎の魔女が笑った。
「ねぇグレイ、あなたは特に私に感謝してくれても良いのよ」
「……それは、何に対して?」
「私が戦争を止めなかったら、私の淡褐色は徴兵されてたから」
「えっ?」
今兄が戦場を知らずに生きていられるのは、彼女のおかげとでもいいたいのだろうか?
だから、感謝しろと?
林檎の魔女はそう言いたいのだろうか……!?
グレイには、理解できなかった。否、理解することを頭が拒否していた。
「私の淡褐色を戦場なんかに行かせられるはずないじゃない。だから、止めてあげたのよ」
戦争を。たくさんの命が奪われるその行為を、たったそれだけの理由で終わらせた。
どんなに戦争が理不尽で、無情で、苦しいものだとしてあらがえない力に翻弄される人々がいても、彼女には関係ないのだ。
彼女の気分一つ。
魔女にはそれだけの力がある。
だから力を駆使した。それだけのことなのだ。
「軍の実力者で、権力だって大きいそこの男を使えなくすれば、二度は起こらないでしょ?」
「たかだかそんな理由で、か?」
「そんな理由? 重要な理由よ」
だからアンバーに呪いを掛けた。
戦争なんて起こらないように。徴兵されないように。
彼女の大切な、美しいモノを守るために。
たったそれだけのこととでも言うような林檎の魔女を前に、王太子は光を消した。
「呪いなどなくとも、戦争は起こさない」
「どうかしら? 私たちと違って人間は嘘を吐くわ」
「人間だからな。嘘にならないよう努力をするまでだ」
堂々と言い切る王太子に、瞳を細くして林檎の魔女は探るように顔を向けた。誰一人として動かない。
「私とて王族だ。国民を他国の脅威にさらされぬよう務める役目がある。降りかかってきた火の粉を払うために、争いごとに応じることもあるだろう。だが、こちらから手を出すのは最終手段。それができずとして、何が王族だと言える? 力に溺れる人間ほど、すぐに身を滅ぼすだけだというのに」
「でも、使える力があれば、手を伸ばしたくなるのが人間でしょう?」
「手を伸ばさぬよう自戒するのも人間だ」
互いの真意を探り会うような、張り詰めた沈黙が落ちる。
しばらくして、林檎の魔女が己の赤い爪にリップ音を立てて口付けた。同時に、甘酸っぱい香りを放つ粒子が剣を構えていたアンバーを包み込む。
「っ!?」
「信じられるのは、半分だけかしらね?」
琥珀色の瞳を大きく見開いたアンバーの姿が、粒子に包まれて形を変える。軍を統べるものらしいしっかりと筋肉のついた人間の身体から、四足歩行で小さな体へと変貌を遂げた。
グレイからしてみれば、こちらの姿の方が見慣れているのだが、本来の姿ではない。
「アンバー!?」
「案ずるに及びません」
「半分よ。確信できるようになったら呪いは解ける」
それがいつになるかは分からないけれど、それが確かな事実よ、と林檎の魔女は二人に向かって言うと、用は済んだとばかりにグレイの方へと視線を向けた。
びくりと肩が震えた。意味もなく息をつめて、灰色の瞳向けてその視線を受けとめる。
「誰がなんと言おうとも、淡褐色は私のだわ」
「ゼルは、誰のモノでもないわ」
「頭が固いわね、グレイ。冷静で、身勝手で……魔力さえあれば魔女にでもなれるわよ、あなた」
「死んでも願い下げだわ。私は義母さんと同じにはならない」
互いに譲らない。譲る気もない。
真っ正面でぶつかった視線は、互いの意志を主張するかのように逸らされることはなかった。
先に折れたほうが負けとでも言うように、瞳に強く力を込める。
『……グレイ、退きなさい』
「嫌よ」
雇い主の言葉でも聞けないと、グレイは林檎の魔女から目を逸らさないで即答した。
『ゼルは渡さないわよ、今はあたしの所有物なんだもの。手放す気はないわ』
「あなたって、本当に嫌な女よね。泥棒猫とでも言ったほうがいいのかしら?」
『笑えないわよ、猫の呪いを掛けたあんたに言われたって』
王太子の足元で、アンバーが不機嫌そうに瞳を細めた。
ヴァイオレットの方に逸らされたとしても、グレイは黙って林檎の魔女を見据えている。
『あんたも、今は本調子じゃないんでしょ?』
「……その原因を作った本人が何を言うの?」
ぴくりと、グレイの肩が震えた。
林檎の魔女は否定をしなかった。魔女は嘘を吐けないから、肯定もしない。だが本調子ではないと言う言葉に否定する言葉を返していない。
やはり、ただ無事ではすまなかったのだ。グレイが魔力の源を壊したと言うことは、少なからず林檎の魔女に傷を負わせたことに違いはない。
グレイが僅かに顔をしかめたことに気付いたヴァイオレットは、不安定な姿ではあったが指をならした。
ぱちん、と音が聞こえたかと思えば林檎の魔女の目の前に、一枚の鏡が現われた。
楕円形で、金の飾り淵がやけに立派に見えるそれは“真実の鏡”。林檎の魔女の持ち物だったそれを、ヴァイオレットは持ち主に返した。
『預かっておいてあげたわよ』
「よくもそんなことをぬけぬけと言えたものね。これで私の淡褐色を諦めろとでも言うの?冗談じゃないわ」
それでも一抱えもある鏡を大事そうに抱える林檎の魔女を見て、ヴァイオレットは失笑をもらした。
『今回は全て譲歩しなさいよ、ってことよ』
「私に命令する気?」
『命令じゃないわ、提案よ。だって、あんた呪いの効力を半分にしたくらいだし。鏡に免じて今回は片方諦めたらどう?』
あんたたちだって、黙ってるってことは異議は無いんでしょ?
そう問い掛けてくるヴァイオレットに、難しい顔をしながらも王太子は頷いた。
「戦争など、我が国には必要ないからな。呪いも直ぐに解ける」
「殿下がそう仰せならば、それに従うのみです」
『だそうよ?』
それであんたはどうするの? と視線で林檎の魔女に問い掛ける。
紫色の瞳を向けられて、不機嫌そうに眉をひそめていた林檎の魔女だったが、しばらくして小さく息を吐いた。
「……分かったわ。今回は、あなたの提案にのってあげる」
『賢明な判断ね』
「でも忘れないで。淡褐色は私のよ」
そう断言して、林檎の魔女は己の赤い爪にリップ音を立てて口付けた。現われたときと同じように、濃厚な蜜の薫りが部屋いっぱいに広がり、目に鮮やかな赤い果実が部屋の中央に出現する。
真実の鏡を大事そうに抱えて、果実へと近付いていた林檎の魔女は、ふと歩みを止めた。
「グレイ」
ハッと顔を上げる。
「あなたはいつだって後悔する選択しかしていないのね」
「っ!?」
「せいぜいそのまま」
―…後悔すればいいわ。
グレイにそう言い残し、林檎の魔女は赤い果実に溶け込むようにして消えていった。消えたと同時に、赤い果実も爽やかな酸味ある薫りを放って無散する。
謁見室には何事もなかったかのように沈黙が落ちた。
「……どいつもこいつも、一筋縄ではいかないな、魔女は」
『だって仕方ないじゃない、魔女だもの』
深く息を吐いた王太子の言葉に、さらりと返したヴァイオレットも、どこか安堵したような雰囲気を隠しきれていない。
不意にアンバーが扉の方を向いてぴくりと、耳を動かした。
「殿下、人が……兵が来ます」
「これだけ派手に魔法使われたら来るのは当然だろう」
むしろ遅い、と言う王太子の表情はすでに引き締まっていた。
面倒臭そうに舌打ちしたヴァイオレットの姿が徐々に薄れていく。
「グレイ」
茫然と佇むグレイの肩にしがみつくようにして飛び掛かってきたアンバーを思わず抱き留めると、ぺしっとその肉球で頬を叩かれた。
「しっかりしろ、惚けている場合ではないぞ」
「……あ」
そうだ、このままここにいてはいけない。どこか冷静な自分がそう諭す。
ヴァイオレットから受け取った魔具を取り出して、握る。
兵が来る前に、ここから逃げ出さなくては。
「アンバー!」
「はっ!」
「それが解けるまで療養休暇だ。さすがに猫に招待状は送れないからな」
扉に手を掛けながら振り替える王太子の言葉に、アンバーは琥珀色の瞳を細めて頷いた。
了解致しました、との声が王太子の元に届くか届かないかの瞬間、視界がブレる。
帰るのだ。あの、ふざけたような出で立ちのお菓子の家に。




