07 戒め
控えめにノックされた扉に、ピタリと走り書きをしていた手が止まった。書類上に踊る文字を目で追っていた若き王太子は、ゆっくりと視線を上げる。
本日はもう謁見者が訪れる予定はないはずだが……?
先ほど退室した軍事大臣だろうか、と特に気にもせず入室を促した。
「失礼します」
「……待て」
聞こえてきたのは軍事大臣のそれとは異なる女の声。一介の女官がここまで上ってくることはまずない。
ならば彼女は何者だろうか、と不審に思い扉の外で大人しく待つ女官の気配を探る。
不思議なくらい落ち着いている彼女の側から知った気配が二つ。
待ち望んでいたものと、あまり関わりたくないもの。
しばらく考えを巡らせていた王太子だったが、一つ息をついた後入室を許可した。
「……入れ」
「失礼、します」
どこか緊張した面持ちの女官はまだ年若く、ライトブラウンの髪をきっちりとまとめて灰色の瞳で真っすぐにこちらを見据えてくる者であった。ただの女官にしてはやけに肝が座っていると感じたが、まぁそれはいいとする。
左腕に縛り付けている三本のベルトがキリリとキツくなったように感じて、思わずベルトの上に右手をかざした。
「何用だ?」
「大変恐縮ではございますが、御前での発言許可を頂きたく」
「発言を許す」
「恐れ多くも、謁見叶いましたことを感謝致します」
ゆっくりと、淑女の礼をする。
膝を折り曲げて、スカートをゆっくりと広げて。
少しばかりよろめいたのは、慣れていないからだろう。優雅さの欠片もない、そう、まるでとってつけたような儀礼言葉に態度。あからさまに怪しい。
どこかの間者だろうか? それにしては、落ち着きすぎている。
静かに瞳を坐らせて、彼女を見下ろした。
「王太子殿下におかれましては、このたびのご成婚、誠におめ」
「くだらない前置きはどうでもいい。本題を簡潔に言え」
「では、僭越ながら申し上げますが……」
ゆっくりと見上げられる灰色の瞳。何を考えているのか、全く読めない色。
どうしてか、その瞳の色に飲み込まれるような錯覚に陥りそうになる。
だが、彼女から紡がれた言葉は、そんな錯覚ですら吹き飛ばしてしまいそうなほど、衝撃的だった。
「王太子殿下の元に、第二皇子閣下をお連れ致しました」
それは、行方を探らせていた弟のことで。
戦後姿を消してしまった琥珀騎馬隊隊長である彼のことで。
今、一番その身を案じていた相手のことで。
動揺を隠せないまま、その名を呼んだ。
「……アンバー、いるのか?」
強ばった喉から、震える声を絞りだす。
待っていた。彼が帰ってくることを。
妙な呪いを掛けられたと報告を受けたが、その後の経緯がまったく不明。消息すら危うくなった第二王子の帰りを待っていたのだ。
王太子の自分に代わり、戦場へと向かった彼に自分は誓った。
“無事に帰ってくるまで、自分の左腕を鉄のベルトで戒めておこう。左腕になれるのはお前だけだから、他の誰にも渡さないように”
「お前がいるのは分かっているし、呪いについても報告を受けている。だから大人しく姿を見せろ」
「差し出がましい真似を致しますが……閣下は王太子殿下の前に既にいらっしゃいます」
「何……っ!?」
バッと女官に視線を合わせると、その瞬間バチン! と鉄のベルトがはち切れた。肘に近い一本が、“帰ってきた”と認めて戒めを解いたと言うことなのだろうか?
だが、アンバーの姿はまだ確認していない。
……いや。
「まさかとは思うが、それか?」
女官の足元で、こちらに背中を向けてちょこんと座っている赤銅色の毛並みの、猫。自分がよく知る弟の髪の色と同じだ。
呪いを掛けられたと報告を受けたが、何の呪いかは知らなかった。
誰も消息を掴めないはずだ、猫の姿など誰も気には止めないのだから。
「アンバー。お前は本当に俺が知る弟か?」
「……」
「鳴き声でもいい、返事くらいはしろ」
少し苛立った声で命じれば、深くため息をつくかのようにぺたんと耳を倒し、振り替えることはせずに人間の言葉で返事をした。
「ただいま、帰還致しました我が王太子殿下」
バチン! と、二本目のベルトがはち切れた。
戦場に行く前の声と全く同じだ。姿は変われど、他の変化はないということなのだろうか。
そのことにひどく安心している自分がいたことに気付いて、慌てて気を引き締めた。
だが、それならば何故最後の一本は解けないのだろうか。やはり“無事な姿”ではないと言うことが引っ掛かっているのだとしたら、呪いを解かねばならないのかもしれない。
「呪い、か……」
解けるだろうか? どこのどいつが掛けた呪いかは分からないが、その呪いを調べ、逆の順番で魔法を解いていけば解呪できるかもしれない。
自分とて魔を扱う者だ。
できないはずがない、と自分を鼓舞し、じっと弟である猫を見つめていた、そんな時だった。
『あんたみたいな若造が解けるようなもんじゃないわよ』
「!?」
ハッと声がした方へと顔を向けた。
同じように驚いた様子の女官が取り出したものを見て、顔をしかめた。
魔具だ。できれば二度と関わりたくなかった者の。
編み込まれた水晶からゆらりと幻が生まれる。ぼんやりと、その姿が形作られる。苦虫を噛み締めながら、その名を呟いた。
「紫色の魔女か……」




