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悪徳令嬢には冷徹公爵がお似合いだと言われましたが、無表情公爵の内心は限界でした

作者: 金林明莉
掲載日:2026/07/28

 王立学院卒業記念舞踏会。


 王都でもっとも華やかな一夜を彩る大広間には、色鮮やかなドレスと礼装が咲き誇り、若き貴族たちの笑い声が絶え間なく響いていた。

 卒業という節目を祝い、新たな門出を迎える者たちの表情は希望に満ちている。


 その輪から少し離れた窓辺に、一人の令嬢が静かに立っていた。


 セレナ・アシュフォード。


 王太子エドワードの婚約者であり、次代の王妃となるべく幼い頃から教育を受けてきた侯爵令嬢である。


 黄金を細く紡いだような長い髪。

 澄み切った湖を思わせる青い瞳。

 その美しさは社交界でも広く知られていた。


 それでも「氷の令嬢」と陰で囁かれることが少なくなかった。


 理由は単純だ。

 笑わないから。

 正確には、人前でうまく笑えない。


 大勢の視線を浴びると緊張し、表情が固くなってしまうのだ。


 王太子妃教育が始まってからは、その傾向はさらに強くなった。


 失敗は許されない。

 間違えてはいけない。

 王家に恥をかかせてはいけない。


 そう自分へ言い聞かせ続けた結果、自然な笑顔はいつしか人前から消えていた。


「セレナ」


 低い声に振り返る。


 そこには婚約者であるエドワードが立っていた。

 王太子らしく整った顔立ちに、豪奢な礼装。

 その姿だけ見れば、誰もが理想の王子だと思うだろう。


「殿下」


「……今日もその顔か」


 ため息混じりの声だった。


「卒業の日だというのに、本当に愛想がない」


「申し訳ございません」


 セレナは小さく頭を下げた。


「緊張してしまって……」


「またそれか」


 エドワードは眉をひそめた。


「何年同じ言い訳を聞けばいい?」

「王妃になる者が、人前で笑えないなど話にならない」


 返す言葉はなかった。


 何度説明しても、この人は理解してくれない。

 笑いたくないのではない。

 笑えないのだ。


 それでも努力はしてきた。


 鏡の前で何度も練習し、侍女にも助けてもらった。

 だが、人前へ立つと身体が強張ってしまう。


 それをエドワードは「努力不足」と切り捨てた。


「殿下」


 鈴を転がすような可憐な声が響く。


「こちらにいらしたのですね」


 振り向いたエドワードの表情が、一瞬で緩んだ。


「リリアーナ」


 伯爵令嬢リリアーナ・ベルモント。

 柔らかな桃色の髪を揺らしながら、小走りに近寄ってくる。

 誰にでも分け隔てなく笑いかける彼女は、学院でも人気者だった。


「卒業、おめでとうございます」


「ありがとう」


 エドワードは嬉しそうに微笑む。

 先ほどまでの不機嫌さが嘘のようだった。


「セレナ様も、おめでとうございます」


 リリアーナも笑顔を向ける。


「ありがとうございます」


 セレナも丁寧に返した。

 しかし表情はやはり硬い。


 その様子を見て、リリアーナは胸の内でくすりと笑う。


(見た目が良いからって)

(笑えないだけで損をしてる)


 そして思う。


(だから利用しやすい)


 少し優しくすれば警戒しない。

 少し泣けば周囲は味方になる。

 真面目な人ほど、自分の嘘を疑わない。


 リリアーナは目を伏せ、悲しげな笑みを浮かべた。


 その表情を見たエドワードが心配そうに尋ねる。


「どうした?」


「……いえ」


 首を横に振る。


「今日は皆様の門出の日ですから」

「私なんかのことで空気を悪くしたくありません」


 声は震え、今にも泣き出しそうだった。


 エドワードの眉がぴくりと動く。


「またセレナに何かされたのか?」


「殿下……」


 リリアーナは困ったように目を伏せるだけで答えない。

 それが何より雄弁だった。


 エドワードの中で、疑いは確信へ変わっていく。


 一方でセレナは訳が分からなかった。


 何かされた?

 そんな覚えはない。


「殿下、誤解です」


「リリアーナ様とは——」


「もういい」


 冷たい声だった。


「お前の言い訳は聞き飽きた」


 セレナは唇を噛む。


 まただ。

 最初から話を聞くつもりがない。


 その時だった。


 楽団の演奏が止まり、大広間に静寂が広がる。


 エドワードがゆっくりと壇上へ歩み出た。

 王太子が中央へ立ったことで、貴族たちの視線が一斉に集まる。


 誰もが卒業を祝う挨拶でも始まるのだろうと思っていた。


 しかし——。


「諸君!」


 よく通る声が広間へ響く。


「今日は皆に聞いてもらいたいことがある!」


 ざわめきが収まる。


 エドワードはゆっくりとセレナを指差した。


「セレナ・アシュフォード!」


 広間の空気が張り詰める。


「俺は今この場で、お前との婚約を破棄する!」


 ——その一言で、祝宴は終わりを告げた。


     ◇


 静まり返った大広間に、どよめきが広がった。


「婚約破棄……?」

「殿下が、あのセレナ様を?」


 貴族たちは顔を見合わせる。


 セレナは壇上のエドワードを見つめたまま、小さく息を吸った。


 驚きはした。

 しかし、取り乱すわけにはいかない。


 アシュフォード侯爵家の令嬢として、最後まで礼節だけは失ってはならない。


「理由を、お聞かせいただけますでしょうか」


 凛とした声が広間に響く。


 その態度が気に入らなかったのか、エドワードは鼻で笑った。


「まだ白を切るつもりか」


 彼は隣に控えていたリリアーナへ手を差し伸べる。


「こちらへ」


 リリアーナはおずおずと歩み寄り、その手を取った。


 その細い肩をエドワードが抱き寄せると、会場から息を呑む音が漏れる。


「皆に真実を話してやれ」


「……殿下」


「もう一人で耐えなくていい」


 優しく促され、リリアーナは震える声で口を開いた。


「……セレナ様は、以前から私を嫌っておられました」


 会場の視線が一斉に集まる。


「母の形見だった刺繍入りのハンカチを……目の前で裂かれました」


 涙が一粒、頬を伝った。


「庭園では突き飛ばされて……」


 ドレスの裾を少し持ち上げる。

 足首には白い包帯が巻かれていた。


「侍女も見ています……」


 一人の若い侍女が前へ進み出る。


「わ、私も見ました……」


 震えながら頭を下げる姿は、見る者の同情を誘った。


 リリアーナは胸元から白いハンカチを取り出す。

 美しい花の刺繍が施され、その中央は無残に裂けていた。


「これが……その時のものです」


 広間がざわつく。


「酷い……」

「本当にセレナ様が?」

「証拠まで……」


 空気は一気にリリアーナへ傾いていく。


 セレナは静かに首を振った。


「そのような事実はございません」


 真っ直ぐリリアーナを見る。


「私は、その方のハンカチに触れたこともありません」

「庭園で突き飛ばしたこともありませんし、証人もお呼びすることもできます」


 その瞬間だった。


「黙れ!」


 エドワードの怒声が響く。


「加害者は皆そう言う!」


 広間が静まり返る。


 エドワードはセレナを睨みつけた。


「証人だと?」

「都合のいい証人でも連れてくるのだろう!」


「殿下」


 国王の側近の一人が口を開く。


「まずは双方のお話を——」


「必要ない!」


 エドワードは遮った。


「リリアーナは泣いている!」

「それが何よりの証拠だ!」


 その言葉に、多くの貴族が戸惑った。


 証拠よりも、涙。

 理屈では理解できない。


 それでも王太子へ反論できる者はいない。


 エドワードは満足そうに周囲を見回した。


「見ろ」

「誰も反論しない」

「つまり私が正しいということだ」


 一方、リリアーナは俯いたまま、小さく口元を緩める。


(これでいい)

(人は涙に弱い)

(事実なんて見ようとしない)

(泣いている人を助けたい)

(それだけ)

(だから私は負けない)


 セレナは、その笑みを見ることはできなかった。

 ただ、胸の奥に冷たい違和感だけが残る。


 リリアーナは泣いている。

 なのに、なぜだろう。

 その涙が、とても遠いものに感じられた。


 その時だった。


「……陛下のお成りです」


 近衛騎士の声が響く。


 国王が重臣たちを従えて姿を現した。

 険しい表情で広間を見渡す。


「これは、何事だ」


 エドワードは一歩前へ出る。


「父上!」


「ちょうど良いところへ!」


「私は悪徳令嬢セレナとの婚約を破棄し、リリアーナを新たな婚約者に迎えることを決めました!」


 「悪徳令嬢」という言葉に、貴族たちはざわめいた。

そのような呼び名は、これまで誰一人として口にしたことがなかったからだ。


 国王はゆっくりと視線を巡らせた。


 涙を流すリリアーナ。

 青ざめたセレナ。

 裂かれたハンカチ。

 包帯。

 重苦しい空気。


 そして静かに口を開く。


「……調査はしたのか」


「必要ありません」


 エドワードは胸を張る。


「私は彼女を信じています」


「信じる?」


「はい!」

「泣いている者が嘘をつくはずがありません!」


 国王は深く息を吐いた。


「証拠ではなく、涙を信じるというのか」


「当然です!」

「それが正義です!」


 その一言に、大広間はさらに静まり返る。


 国王は目を閉じ、小さく首を振った。


「……今日は、ここで結論は出さん」


「父上!」


「双方の言い分を調査する」

「それまで婚約破棄も、新たな婚約も認めぬ」


 エドワードは納得できない様子だったが、国王の決定を覆すことはできない。


 すると、国王の視線が会場の奥で静かに立つ一人の青年へ向いた。


「ブラッドフォード公爵」


 黒い礼装に身を包んだ青年が、一歩前へ出る。

 名は、カイゼル・ブラッドフォード。


「はっ」


 低く落ち着いた声だけで、場の空気が引き締まる。


「調査が終わるまで、セレナ嬢にはブラッドフォード公爵家へ身を寄せてもらう」


 一瞬、広間がざわつく。


 エドワードは口元を歪めた。


「なるほど」

「悪徳令嬢には冷徹公爵がお似合いだ」


「王太子に捨てられた令嬢など、お前くらいしか引き取り手はあるまい」


 嘲笑が響く。


 だが。


(私がお預かりする……?)

(毎日、お会いできる……?)


 カイゼルの思考は、そこだけで止まっていた。


(それは……つまり)


 三年前。

 王城の庭園。

 花へ微笑みかける一人の少女。


 あの日から、一度も忘れられなかった笑顔。


(落ち着け)

(期待するな)

(……いや)

(少しだけなら、期待してもいいだろうか)


 無表情のまま、内心だけが大混乱に陥っていた。


 その姿を見た誰もが、


「やはり冷徹公爵は何も感じていない」


 そう思い込んでいた。


 ただ一人、本人だけを除いて。


     ◇


 卒業舞踏会の翌日。


 王城・謁見の間。


 磨き上げられた白大理石の床には、色鮮やかなステンドグラスから差し込む光が揺れていた。


 国王の玉座を中心に、王妃、重臣、騎士団長、アシュフォード侯爵家、ブラッドフォード公爵家の当主らが居並び、その後方には侍従や近衛騎士が控えている。


 そして、婚約破棄の当事者であるエドワード、セレナ、リリアーナが静かに並んでいる。


 王城中が、この謁見の行方を固唾を呑んで待っていた。


 重苦しい沈黙を破ったのは国王だった。


「まずは謝罪しよう」


 玉座から立ち上がる。


 その姿に重臣たちも驚く。


「父親としてではない」


「この国を預かる王として謝罪する」


 国王は深々と頭を下げた。


「十分な調査も行う前に、このような騒動を起こしたことを詫びる。」


 アシュフォード侯爵も頭を下げる。


「陛下、そのようなお姿を……」


「いや。」


 国王は静かに首を振った。


「王家が原因で起きたことだ」


「詫びねばならぬ」


 その場にいた誰もが国王の誠実さを感じていた。


 しかし、一人だけ違った。


「謝罪など必要ありません」


 エドワードだった。


「私は間違ったことはしておりません」


 国王は息子を見る。


「まだそう言うか」


「当然です」

「リリアーナは傷付いていました」

「私は彼女を救っただけです」


「証拠は」


「必要ありません」


 重臣たちの眉が動く。


「なぜだ」


「私が信じているからです」


 謁見の間が静まり返る。


 国王は静かに問い返す。


「お前は王になる者だ」

「信じることと裁くことの違いは分かるな」


「同じです。」


 エドワードは即答した。


「泣いている者を信じる。」

「それが王です。」


 国王は目を閉じる。


 重臣たちも言葉を失った。


 その価値観はあまりにも危うい。


 証拠より感情。

 事実より印象。


 それでは国は治められない。


 だがエドワード本人だけは、そのことに気付いていなかった。


「……よかろう」


 国王は視線をリリアーナへ向ける。


「ベルモント嬢」


「はい……」


「舞踏会で示した証拠を、もう一度見せてもらえるか。」


 リリアーナは頷く。


 胸元から白いハンカチを取り出した。

 中央が裂け、美しい花の刺繍が施されている。


「こちらです……」

「母の形見です。」


 続いて足元を見せる。


「この怪我も……」


 白い包帯。


 そして若い侍女が前へ進み出る。


「わ、私も拝見しました。」

「セレナ様が怒っておられて……」


 その場は再び重苦しい空気が流れる。


 舞踏会と同じ証言だった。


 国王は静かに頷く。


「ブラッドフォード公爵」


「はい」


「何かあるか」


 カイゼルが一歩前へ出た。


「ございます」


 エドワードが鼻で笑う。


「また理屈か」

「泣いている人間より証拠を信じるつもりか」


 カイゼルは否定も肯定もしなかった。


「私は、本日ここで真偽を決めるつもりはございません」


 その言葉に、重臣たちは目を丸くする。


「では何をする」


 国王が尋ねる。


 カイゼルは静かに答えた。


「確認だけです」


 リリアーナを見る。


「ベルモント嬢」


「はい……。」


「お母上の形見だと仰いましたね」


「はい」


「刺繍は、お母上がお作りになったものですか」


「……そうです!」


 一瞬だけ間があった。

 しかし誰も気付かない。


 カイゼルだけは、その僅かな沈黙を見逃さなかった。


「なるほど」


 それ以上は追及しない。


「次に」


「このハンカチは、いつ裂かれましたか」


「十日ほど前だったと思います」


「場所は」


「学院の庭園です」


「その場には誰がおりましたか」


「私と……。」


 一瞬止まる。


「侍女です」


「他には」


「……おりません」


「承知しました」


 淡々と頷く。


 エドワードは腕を組んで笑う。


「何だ」

「その程度か」


「結局、彼女は答えただけではないか」


 カイゼルは何も言わない。


 再び質問を続ける。


「包帯を巻かれたのは、いつですか」


「その日の夜です」


「誰が?」


「侍女です」


「医師の診察は?」


「……必要ありませんでした」


「そうですか」


 短く返す。


 それだけだった。


 重臣や騎士たちも、まだ意図が分からない。


 しかし国王だけは、静かにカイゼルを見つめていた。


(論破するつもりではない)

(何か意図がある)

(あえて本人の口から語らせている……?)

(何を狙っている)


 そして最後に。


 カイゼルはハンカチを手に取った。

 静かに刺繍を見つめる。


 花、葉、糸。

 縫い方。


 その視線が、一点で止まった。


(……これは)


 ほんの僅かに眉が動く。

 だが何も言わない。

 ハンカチを返しただけだった。


 リリアーナは胸を撫で下ろす。


(危なかった)

(一瞬、何か気付かれたかと思った)


 しかしカイゼルは何も追及しない。

 それどころか次の質問もない。


 エドワードは勝ち誇ったように笑った。


「ほら見ろ」

「結局、公爵でも何も証明できない」


 カイゼルは静かに一礼した。


「以上です」


 その言葉に、謁見の間は再び静まり返った。


 誰もが思う。

 ――なぜ、これだけなのだろう。


 その疑問だけを残したまま、謁見は次の局面へ進もうとしていた。


 カイゼルが一歩下がると、謁見の間は奇妙な静けさに包まれた。


 誰もが同じことを考えていた。

 ――終わりなのか。


 公爵自ら前へ出たにもかかわらず、問いかけたのは事実を確認するような質問ばかり。


 決定的な反論もなければ、リリアーナを追い詰める言葉もなかった。


 エドワードは勝ち誇ったように笑う。


「父上」

「結局、公爵でも何も見つけられなかったではありませんか」


 国王は答えない。


 代わりに、静かにカイゼルを見つめる。

 彼は決して無意味な行動をする男ではない。


 何か意図があるはずだ。

 だが、それを今この場で語るつもりはないらしい。


 その沈黙を破ったのは、リリアーナだった。


「……もう、十分です」


 震える声が響く。

 顔を上げると、大粒の涙が次々と頬を伝っていた。


「これ以上……思い出したくありません……」


 小さな肩が震える。


「母の形見を見るたび、あの日のことを思い出すんです……」


 ハンカチを胸に抱き締める姿は、誰の目にも痛々しかった。


「どうして……」

「どうして私が、こんな思いをしなければならないのでしょう……」


 嗚咽が漏れる。

 謁見の間の空気が揺らいだ。


 重臣の中にも、思わず目を伏せる者がいる。

 騎士団長は拳を握り締めていた。


 感情は理性より速く人の心を動かす。

 それを、リリアーナはよく知っていた。


 エドワードは彼女の肩を抱く。


「もう話さなくていい」

「誰も、お前を責めたりしない」


 そして国王へ向き直る。


「父上」

「まだ調査が必要ですか」


「彼女がこれほど苦しんでいるのに」


 国王は静かに息を吐く。


「だからこそ、必要だ」


「……え?」


「涙は苦しみを示すことはあっても、事実を証明するものではない」


 その一言に、エドワードの表情が険しくなる。


「では父上は、リリアーナが嘘をついていると?」


「そのようなことは言っておらぬ」


「だが、泣いているから真実だとも言わぬ」


「王は、誰かを信じたいという気持ちだけで裁いてはならん」


 エドワードは拳を握り締めた。


「私は納得できません」


「それでも構わぬ」


 国王の声は静かだった。

 だが、その静けさには王としての重みがあった。


「アシュフォード侯爵令嬢」


「……はい」


 セレナは一歩前へ出る。


「そなたは何か言いたいことはあるか」


 少しだけ沈黙が流れる。


 誰もが彼女の言葉を待った。


「私は」


 セレナはまっすぐ前を見据えた。


「申し上げたことがすべてでございます」

「私はリリアーナ様へ危害を加えておりません」


「それ以上でも、それ以下でもございません」


 余計な言葉はなかった。

 泣きもしない。

 声を荒らげもしない。

 ただ、事実だけを口にする。


 その姿を見て、リリアーナは心の中でほくそ笑む。


(だから負けるのよ)

(もっと泣けばいいのに)

(もっと怒ればいいのに)

(そんな無表情じゃ、誰も味方にならない)


 しかし、その考えとは裏腹に、一人だけ彼女を見つめ続ける男がいた。


 カイゼルだった。


 赤い瞳は静かだった。

 まるで感情を映さない湖面のように。

 だが、その視線はハンカチから一度も離れていない。


 国王だけが、その理由を理解していた。


(ブラッドフォード公爵は、何かに気づいたのか?)

(だが証拠が足りぬ)

(今ここで追及すれば言い逃れされる)

(だからこそ、動かなかったのか)


 国王はゆっくりと立ち上がる。


「本件については、本日結論を出さぬ」


 場がざわつく。


「ハンカチの由来」

「負傷の経緯」

「侍女の証言」


「すべて改めて調査するため、王城直属の調査官へ命じる」


 リリアーナの指先がぴくりと震えた。


 ほんの一瞬だけ。

 それを見逃さなかった者が二人いる。


 カイゼルと、国王だった。


「調査が終わるまで」


 国王は続ける。


「本日より正式にセレナ嬢はブラッドフォード公爵家預かりとする。」

「双方の家へ不要な圧力が及ばぬようにするためだ」


 アシュフォード侯爵は深く頭を下げた。


「陛下のお心遣い、感謝いたします」


 カイゼルも静かに一礼する。


「謹んでお預かりいたします」


 その声音は変わらない。

 冷静で、感情が読めない。


 だからこそ、エドワードは鼻で笑った。


「好きにするといい」

「公爵家で肩身の狭い思いでもすることだ」


 誰も笑わなかった。


 ただ、カイゼルだけが胸の内で固まっていた。


(……お預かりする)

(陛下がお決めになった以上、必ずお守りする)

(それだけだ)


 そう自分に言い聞かせる。


 けれど脳裏には、三年前の庭園で見た笑顔が浮かんでいた。


(今は、まず名誉を取り戻すことが先だ)


 無表情のまま、心の中だけが忙しかった。


 一方、セレナはそんな内心など知る由もない。


 ただ、公爵家へ身を寄せることになった現実に、小さく頭を下げた。


「……ご迷惑をおかけいたします」


「お気になさらず」


 短い返事。


 それだけだった。

 けれど、その声は不思議と冷たくは聞こえなかった。


 こうして、真実を暴くための時間が動き始める。


 まだ誰も知らない。

 たった一枚の裂かれたハンカチが、やがてすべての嘘を暴くことになるとは。


     ◇


 王城を出た馬車は、石畳を静かに進んでいた。

 窓の外には、夕暮れに染まる王都の街並みが流れていく。

 行き交う人々の声は聞こえるものの、馬車の中は静まり返っていた。


 セレナは膝の上で手を重ね、小さく息を吐く。


 婚約破棄から、まだ一日。

 たった一日で、世界は一変してしまった。


 王太子妃となる未来は消え、身に覚えのない疑いをかけられ、公爵家で身を預けられる立場となった。


 夢を見ているような気さえする。


 向かいに座るカイゼルは、窓の外へ視線を向けたまま一言も話さない。


 整った横顔は彫像のようで、表情の変化はほとんどない。

 王都で「冷徹公爵」と呼ばれる理由がよく分かる。


(ご迷惑をおかけしてしまっているわ……)


 王命とはいえ、突然一人の令嬢を預かることになったのだ。


 本来なら断りたいと思っていても、おかしくはない。

 そう考えると胸が痛んだ。


「……あの」


 思い切って声を掛ける。


 カイゼルは静かに視線を向けた。


「このたびは、ご迷惑をお掛けいたします」


 深く頭を下げる。


「ご迷惑ではありません」


 返ってきたのは短い一言だった。

 それだけ。


 会話は終わるかと思われた。

 しかし、少し間を置いてカイゼルが続ける。


「陛下からのご命令です」


「……はい」


「ですが」


 ほんの僅かに言葉を選ぶ。


「当家では、お客様としてお迎えいたします」


 セレナは目を瞬かせた。

 保護対象ではなく、お客様。


 その一言が胸に温かく染み込む。


「ありがとうございます」


 自然と頭が下がった。


 カイゼルは小さく頷くと、それ以上は何も言わなかった。


 だが――。


(よかった)

(ちゃんと伝わった)

(いや、もっと気の利いたことを言うべきだったのでは)

(『安心してください』とか)

(……いや、それは馴れ馴れしい)

(急に距離を詰める男だと思われたらどうする)


 表情一つ変えず、心の中だけが忙しい。

 セレナはそんな葛藤を知る由もない。


 馬車はやがて、高い鉄門の前で止まった。


 ブラッドフォード公爵邸。

 王都でも指折りの名門にふさわしい壮麗な屋敷だった。


 左右対称に整えられた庭園。

 白い石造りの外壁。

 手入れの行き届いた芝生。


 派手さはない。

 だが、一つひとつが洗練されている。


 門がゆっくりと開くと、使用人たちが一列に並び、一斉に頭を下げた。


「お帰りなさいませ、公爵様」


 その先頭に立っていた青年が、一歩前へ出る。

 柔らかな茶色の髪に、人懐っこい笑み。


 年齢は二十代半ばほどだろうか。


「お帰りなさいませ……おや?」


 青年はセレナを見ると、目を丸くした。


「こちらが、お客様ですか」


「レオン」


 カイゼルが静かに呼ぶ。


「紹介する」


「セレナ・アシュフォード嬢だ」

「調査が終わるまで滞在される」


 レオンはすぐに深く一礼した。


「ようこそお越しくださいました、セレナ様」

「執事長を務めております、レオンと申します」


 柔らかな笑顔に、セレナの緊張が少し和らぐ。


「よろしくお願いいたします。」


 その様子を見届けると、カイゼルはレオンへ小さく告げた。


「客室をすでに整えております」

「お茶の準備も」


 レオンは一瞬だけカイゼルを見る。

 そして、にやりと笑みを浮かべた。


「旦那様」


「何だ」


「蜂蜜のお菓子も、お出しいたしましょうか?」


 一瞬だけ。

 ほんの一瞬だけ、カイゼルの肩がぴくりと動いた。


「…………」


「旦那様?」


「……任せる」


 それだけ言って屋敷へ入っていく。


 レオンはその背中を見送りながら、小さく笑った。


(やっぱり)

(朝、市場で最後の一箱を買い占めておいて正解でしたね)

(旦那様、自分で用意したことは絶対に言わないでしょうし)


 そんな執事の内心を知らず、セレナは不思議そうに首を傾げる。


「蜂蜜のお菓子……ですか?」


「ええ」


 レオンはにこやかに答える。


「当家では、お客様をお迎えした日は、甘いお菓子でもてなす習わしがございます」


 もちろん、半分ほどは嘘だった。


 正しくは――。


 旦那様が昨日の夜、『女性は甘いものがお好きだろうか』と真剣に悩み続けた結果である。


 それを知る者は、屋敷の中でもレオンただ一人だった。


 そして当の本人は、何食わぬ顔で廊下を歩いている。

 その耳が、ほんの少しだけ赤くなっていることにも気づかずに。


     ◇


 客室へ案内されたセレナは、思わず息をのんだ。


 淡いクリーム色で統一された室内は、華美ではない。

 それでも、窓辺には季節の花が飾られ、レースのカーテンは午後の光を柔らかく受け止めている。


 どれも客人のために急ごしらえで並べたものではない。


 普段から人が心地よく過ごせるよう、丁寧に整えられていることが伝わってきた。


「お気に召していただけましたでしょうか」


 レオンが穏やかに尋ねる。


「……とても素敵なお部屋です」


 セレナは微笑もうとした。

 けれど、緊張からか口元は少しだけ固くなる。


 それでもレオンは気づかないふりをして、嬉しそうに頷いた。


「それは何よりです」


 ほどなくして運ばれてきた紅茶と、小さな焼き菓子。

 黄金色の蜂蜜がほのかに香る、可愛らしい花形のクッキーだった。


「まあ……」


 一口かじる。

 優しい甘さが口いっぱいに広がり、自然と肩の力が抜けた。


「美味しい……」


「お気に召したようで安心しました」


 レオンは笑顔のまま答える。


「実は――」


 そこまで言って、言葉を飲み込んだ。


「いえ、当家の料理長の自慢の一品なのです」


 危うく「旦那様が選ばれた」と言いかけてしまった。


 廊下の向こうでは、仕事があると言って席を外したはずのカイゼルが、聞き耳を立てているなどとは口が裂けても言えない。


(……美味しい、と仰った)


 廊下の壁にもたれたカイゼルは、心の中で静かに拳を握る。


(よかった)

(選んだ甲斐があった)

(いや、私は選んだだけだ)

(菓子職人の腕が良いのであって……)


 冷静を装う思考とは裏腹に、胸の奥は少しだけ温かかった。


 夕暮れが近づき、セレナは屋敷の中を案内してもらうことになった。


「ご不便がないよう、最低限ご案内いたします」


 カイゼルが先を歩く。


 廊下は静かで、足音だけが規則正しく響く。

 書庫や応接室などを案内される。

 屋敷はどこも整然としていて、不思議と落ち着く空間だった。


「こちらは……?」


 一つの部屋の前でセレナが足を止めた。


 扉が少しだけ開いている。

 中には木枠に張られた布、色とりどりの刺繍糸、作りかけの刺繍。


「刺繍のお部屋、ですか?」


 カイゼルは一瞬だけ動きを止めた。


「……ああ」


「趣味でしょうか?」


「趣味、というほどではありません」


 少しだけ視線を逸らす。


「……落ち着くので」


 それだけ答えた。


 セレナは部屋へ目を向ける。

 棚には完成した作品が並んでいる。


 どれも植物や花をモチーフにしたものばかりだった。


 野ばら。

 藤。

 鈴蘭。


 季節ごとの花々が、一本一本丁寧に縫い上げられている。


「……素敵」


 思わず声が漏れる。


「こんなに繊細な刺繍、初めて拝見しました」


 その言葉に、カイゼルの胸がどくりと鳴る。


「ありがとうございます」


 短く返すのが精一杯だった。


「花がお好きなのですか?」


 セレナが作品を見つめたまま尋ねる。


 カイゼルは少しだけ考え、


「……昔から好きです」


 そう答えた。


 本当は違う。

 好きになったのは、三年前。

 花壇の前で柔らかく笑う、一人の少女を見てからだった。


 だが、その想いを今はまだ口にできない。


     ◇


 案内が終わり、客室の前まで戻ってくる。


「本日は、お疲れでしょう」


「ゆっくりお休みください」


「はい」


 セレナは深く頭を下げた。


「本日は、本当にありがとうございました」


「いいえ」


 短いやり取り。


 それでも、馬車の中より少しだけ空気は柔らかい。

 セレナは扉を開けかけ――ふと振り返った。


「あの」


 カイゼルが立ち止まる。


「もし、ご迷惑でなければ」


 少しだけ恥ずかしそうに目を伏せ、


「また、お話ししていただけますか?」


 その一言に。

 カイゼルの思考は完全に止まった。


(……今)

(また、と仰ったか)

(つまり、今日だけではなく)


(明日も)

(話してもよい、と……)


 表情は一切変わらない。

 だが内心では。


(落ち着け)

(深呼吸だ)


(返事を)

(返事をしなければ)


「……喜んで」


 ようやく絞り出した一言だった。


 セレナは小さく微笑んだ。

 ほんの少しだけ。


 けれど、その笑みは三年前、庭園で見たものとよく似ていた。


 扉が閉まる。

 廊下に一人残されたカイゼルは、その場から動かなかった。


 静かに見守っていたレオンが、そっと近づく。


「旦那様」


「……何だ」


「お顔が少し赤いようですが」


「気のせいだ」


「左手が震えております」


「気のせいだ」


「今夜は蜂蜜のお菓子を追加でご用意いたしましょうか」


 カイゼルは数秒黙り込み、


「……頼む」


 とだけ答えた。


 レオンは吹き出しそうになるのを必死でこらえながら一礼する。


(旦那様も、ようやく春がきますかね?)

(これは先が楽しみです)


 屋敷の外では、夕暮れの庭に夏の風が吹き抜けていた。


     ◇


 ブラッドフォード公爵家へセレナが身を寄せてから二週間。


 王城では、水面下で静かに調査が進められていた。


「こちらが例のハンカチです」


 王城直属調査官は、白い布を机へ広げた。


 向かいに座る初老の女性は、眼鏡を掛け直しながら刺繍を見つめる。

 王都でも指折りの刺繍職人だった。


「……なるほど」


 彼女は迷うことなく頷く。


「これは手刺繍ではありません」


 調査官が顔を上げる。


「違うのですか」


「ええ」


 細い指先が花の模様をなぞる。


「この縫い方は、王都南区にある工房『フルール』の特徴です」


「同じ図案を型紙にして量産しております」


「ですから──」


 彼女は断言した。


「お母様が一針ずつ縫われた刺繍ではございません」


 調査官は静かに書類へ書き込む。


『母の手刺繍ではない』


 一つ目。


 供述と矛盾。


     ◇


 翌日。


「この包帯ですか」


 王宮付き医師は記録簿をめくる。


「ベルモント嬢?」


「診察した覚えはありません」


「怪我人としての届け出もありません」


「舞踏会の十日前です」


「ありませんね」


 記録簿を閉じる。


「少なくとも王都の正規医療機関では治療記録はありません」


 調査官は再び書き込む。


『治療記録なし』


 二つ目。


     ◇


 三日後。


 ベルモント伯爵家。


「この侍女ですね」


 執事が雇用台帳を差し出す。


 調査官は日付を確認した。

 その瞬間、眉が動く。


「雇い入れは……」


「この日でございます」


 執事は日付を指差す。


「舞踏会で証言した事件の日より後に雇われてる……」


 調査官は無言になる。

 書類を閉じる。


『事件当日に勤務していない』


 三つ目。


     ◇


 王城へ戻った調査官は、静かに報告書を机へ置いた。


 国王。

 王妃。

 そしてカイゼル。


 三人だけの部屋だった。


「以上です」


「ご苦労だった」


 国王は報告書を開く。


 一枚。

 二枚。

 三枚。


 ページをめくるたび、部屋は静かになっていく。


「……予想以上だな」


 国王が呟く。


「供述と一致するものが、ほとんどない」


 王妃も小さく息をつく。


「では、セレナ嬢は……」


「まだ断定はできません」


 カイゼルが静かに言った。


「ですが」


「ベルモント嬢は、自ら証言を固定しております」


 国王が視線を向ける。


「そうだったな」


 謁見の日。


 カイゼルは一切反論しなかった。

 ただ質問だけを重ねた。


 母の刺繍。

 庭園。

 日にち。

 侍女。

 包帯。


 すべて本人の口から言わせた。


「今さら『勘違いでした』とは言い逃れできません」


 カイゼルの声は静かだった。


「供述が変われば、それ自体が新たな矛盾になります」


 国王はゆっくり頷く。


「だから何も言わなかったのか」


「はい」


「証拠が揃う前に追及すれば、言い逃れされます」

「ですが今なら」


 赤い瞳が静かに報告書へ落ちる。


「逃げ道はございません」


 その声に怒気はない。

 ただ、事実だけを積み重ねる冷静さがあった。


 王妃は報告書を閉じる。


「……お茶会は予定どおり行います」


 国王も頷いた。


「よい」


「ベルモント嬢は必ず来るだろう」


「そこで最後の確認を行う」


 その言葉を聞きながら、カイゼルは窓の外へ目を向けた。


 庭園には白い百合が咲いている。

 ふと、二週間前のことを思い出す。


『また、お話ししていただけますか?』


 あの穏やかな声。

 少しだけ笑った横顔。


 胸の奥が温かくなる。


(……もう少しだけ、お待ちください)

(必ず)

(あなたの名誉を取り戻します)


 その決意を口にすることはない。

 ただ静かに、一礼した。


 その頃。


 ベルモント伯爵家では、リリアーナが鏡の前で満足そうに微笑んでいた。


「王妃様のお茶会」

「これで全部終わるわ」


 侍女が髪を整える。


「おめでとうございます、お嬢様」

「王太子妃も目前ですね」


 リリアーナは楽しそうに笑った。


「ええ」

「最後に少しだけ可哀想な私を演じれば」


「皆、私を信じるもの」


 その笑みは、誰にも見せたことのないものだった。

 窓の外では、黒い雲がゆっくりと空を覆い始めていた。


 まるで、お茶会で待つ結末を暗示するように。


     ◇


 王妃主催のお茶会は、王城の離宮にある温室で開かれていた。


 ガラス張りの天井から柔らかな陽光が降り注ぎ、色とりどりの花々が甘い香りを漂わせる。


 本来なら、令嬢たちが穏やかな時間を過ごす社交の場。


 しかし今日だけは違っていた。


 集まった貴族たちは笑顔を浮かべながらも、視線は一人の少女へと向いている。


 リリアーナ・ベルモント。


 未来の王太子妃と噂される令嬢。


 そして、その向かいには静かに紅茶へ口をつけるセレナがいた。


 王妃は穏やかな笑みを絶やさない。

 けれど、その青い瞳は二人を静かに見守っていた。


「ベルモント嬢」


「はい、王妃様」


「最近はいかがお過ごしですか」


 リリアーナは困ったように微笑む。


「皆様によくしていただいております」


「ですが……」


 そこで言葉を詰まらせる。


「夜になると、あの日のことを思い出してしまうのです」


 ハンカチを胸へ抱き寄せる。


「母の形見を見るたびに……」


 声が震える。


「胸が苦しくなって……」


 周囲の令嬢たちが顔を見合わせた。


「お気の毒に……」

「まだ傷が癒えていないのね」


 リリアーナは小さく涙を拭う。

 その姿は、誰が見てもか弱い被害者だった。


 そして、視線をセレナへ向ける。


「セレナ様」


「……はい」


「どうして、あんなことをなさったのですか」


 温室が静まり返る。


 セレナはゆっくりと顔を上げた。


「その質問には、お答えできません」


「なぜですか?」


「私は、そのようなことをしておりませんから」


 リリアーナは悲しげに首を振る。


「まだ、お認めにならないのですね……」


「私が平民出身の母を持つから」

「昔から、見下しておられました」


 ざわり、と空気が揺れた。


「平民を……?」


「そんな」


 令嬢たちが息をのむ。


 リリアーナは続けた。


「それだけではありません」

「『余計なことを話したら、ベルモント家を社交界から追放する』と……」


 涙が頬を伝う。


「家族まで脅されました」


 王妃は静かに尋ねた。


「それは、いつのことですか」


「舞踏会の少し前です」


「場所は?」


「学院の中庭です」


 王妃はそれ以上何も言わない。

 ただ静かに紅茶を口へ運ぶ。


 セレナはリリアーナを見つめていた。

 怒りはなかった。

 ただ、悲しかった。


 どうしてそこまで嘘を重ねるのだろう。

 どうして、人を傷つけてまで欲しいものがあるのだろう。


 ふと、カイゼルの言葉がよみがえる。


「事実だけをお話しください」


 あの日の低く穏やかな声。


 セレナは静かに息を吸った。


「ベルモント様」


 初めて、自分から口を開く。


 リリアーナは勝ち誇った笑みを胸の奥へ隠した。


「何でしょう」


「一つだけ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」


「もちろんです」


 優しく頷く。


 セレナは穏やかな声で言った。


「謁見の日、陛下の前でお話しになりましたね。」


 リリアーナの表情が一瞬だけ止まる。


「……ええ。」


「母君の形見のハンカチだと」


「はい」


「お母様が刺繍をなさった、と」


「……はい」


「そして、それは学院の庭園で裂かれた、と」


「その通りです」


 セレナは静かに頷く。


「ありがとうございます」


 それだけだった。

 令嬢たちは首を傾げる。


「それだけ?」

「何がしたかったの?」


 リリアーナも内心で笑う。


(何も反論できないの。)

(やっぱりあなたは、お人好し)


 その時だった。


「国王陛下、ご到着にございます」


 侍従の声が響く。

 温室の扉が開く。


 国王がゆっくりと中へ入ってきた。


 その後ろには王城直属調査官。

 そして黒い礼装に身を包んだカイゼルが控えている。


 国王の手には、一冊の分厚い報告書があった。


 リリアーナの笑みが、初めて揺らぐ。


 カイゼルは彼女をまっすぐ見つめた。

 表情は変わらない。

 だが、その赤い瞳には確かな静けさが宿っていた。


 ――逃げ道は、もうない。


 その視線だけで十分だった。


     ◇


 温室を包んでいた穏やかな空気は、国王の姿が現れた瞬間に消え去った。


 誰一人として口を開かない。

 鳥のさえずりさえ、遠く感じられるほどの静寂だった。


 国王は王妃の隣に立つと、ゆっくりと報告書を机へ置く。


「皆の者」


 低く響く声に、その場にいた令嬢たちが一斉に頭を下げた。


「本日は、先日の婚約破棄に関する調査結果を伝える」


 リリアーナは笑みを崩さない。

 だが、カップを持つ指先には力が入っていた。


(落ち着いて)

(証拠なんてあるはずがない)

(泣けばいい)

(私は被害者なんだから)


 国王は報告書を開く。


「まず、ベルモント嬢」


「……はい」


「そなたは先日の謁見において、このハンカチは亡き母が刺繍した形見である、と証言した」


「はい」


 迷いなく答える。


 国王は一枚の書類を取り上げた。


「調査の結果、この刺繍は王都南区にある工房『フルール』の商品であることが判明した」


 温室がざわつく。


「工房……?」


「形見ではないの?」


 リリアーナは慌てて首を振る。


「ち、違います!」

「母は、その工房で習っていたんです!」


 国王は静かに首を振る。


「工房の職人全員へ確認した」

「そなたの母が弟子入りした記録はない」


 リリアーナの笑顔が少しだけ引きつる。


「で、でも……」


「さらに」


 国王は続けた。


「この図案は二年前から販売された既製品である」

「亡き母君がお亡くなりになったのは五年前だ」


 言葉が止まる。


 周囲から小さなどよめきが起こる。


「そんな……」

「では、その刺繍は……」


 リリアーナは唇を震わせた。


「勘違いです!」

「母が作ったと思っていました!」


「勘違い?」


 その時だった。


 静かな声が響く。


「失礼ながら」


 カイゼルだった。

 彼は一歩だけ前へ出る。


「謁見の日、私は確認いたしました」


 リリアーナを見る。


「『お母上がお作りになったものですか』と」


 その黒い瞳は揺るがない。


「あなたは、『そうです』とはっきりお答えになりました」


 リリアーナの顔から血の気が引いた。


 あの日の謁見にいた者たちも思い出す。

 確かに、そう答えていた。


「違……」


「勘違いではありません」


 カイゼルの声はどこまでも穏やかだった。


「あなたは確認のうえで断言されました」


 リリアーナは息を呑む。


 言い逃れができない。

 自分の言葉が、自分を追い詰めていた。


 国王は淡々と次の書類を開く。


「次に、包帯について」


「そなたは怪我を負い、その日の夜に侍女が手当てをしたと証言した」


「……はい。」


「王都の医療機関、および王宮付き医師に確認した」


「診療記録は存在しない」


「軽傷だったんです!」


 リリアーナは慌てて叫ぶ。


「病院へ行くほどではなくて……!」


「そうか」


 国王は頷く。


「では、侍女に手当てを受けたという証言になる」


 報告書を閉じる。


「その侍女は、舞踏会の八日前に雇われていた」


「事件が起きたのは、舞踏会の十日前であろう」


 静寂。


 誰も動かない。

 誰も声を発しない。


 リリアーナだけが、小さく首を振っていた。


「違う……」


「そんな……」

「そんなはず……」


 令嬢たちの視線が変わる。


 同情ではない。

 疑惑だった。


 リリアーナは必死に涙を流した。


「お願いです!信じてください!」

「私は嘘なんて……!」


「父上!」


 エドワードが一歩前へ出た。


「見てください!」

「リリアーナはこれほど泣いているではありませんか!」


「これ以上、彼女を傷つけるおつもりですか!」


「証拠などどうでもいい!彼女が苦しんでいる!」


「それが真実です!」


 国王は静かに息子を見つめた。

 その眼差しには怒りよりも、深い失望があった。


「エドワード」


「……何ですか」


「まだ分からぬか」


「何をです!」


「王は……」


 国王は静かに告げる。


「涙で裁いてはならぬ」


 そして、ゆっくりと言葉を続けた。


「だから、お前は王になれぬ」


 国王の言葉は、温室の空気を一変させた。


 エドワードは目を見開く。


「父上……今、何と」


 国王は静かに息を吐いた。


「人は誰しも誤る。王も例外ではない。だが、お前は己の誤りを正そうとしなかった」


「証拠を調べようともせず、セレナ嬢の弁明にも耳を貸さず、王家と侯爵家との正式な婚約を、お前一人の判断で破棄しようとした」


「それの何が悪いのですか!」

 エドワードが声を荒らげる。

「私は王太子です!婚約者を決める権利くらいあるでしょう!」


 国王は静かに首を振った。


「ない。婚約とは、お前一人の約束ではない。王家と侯爵家、双方が結んだ契約だ」

「それを独断で破棄しようとした時点で、お前は王家の信用を損なった」


「王とは、信じたい者を信じる者ではない。真実を見極め、法と証拠によって裁く者だ」


「泣いている者を救いたいという気持ちは尊い。だが、その感情だけで人を裁けば、無実の者を罪人にし、本当の罪人を王自ら守ることになる」


「お前に欠けているのは知恵ではない。王として最も大切な、公正さだ」


 その言葉に、エドワードは首を振った。


「違います!」


「リリアーナは泣いています!彼女が苦しんでいるのは事実です!」


「ならば、それだけで十分でしょう!」


 国王は静かに目を閉じた。

 もはや、何を言っても届かない。


 王としてではなく、一人の父として胸が痛んだ。


「……調査結果を最後まで読み上げる」


 国王は最後の報告書を開く。


「ベルモント嬢」

「そなたは、学院の庭園で事件が起き、その場に侍女がいたと証言した。」


 リリアーナは震えながら頷く。


「……はい」


「そして本日、このお茶会では『セレナ嬢から家族を潰すと脅された』とも証言した」


「……はい。」


 王城直属調査官。

 一人の男が前へ出る。


「調査の結果をご報告いたします」


 彼は一枚の書類を掲げた。


「学院の庭園は、授業時間中および放課後に定期巡回が行われております」


「当日の巡回記録、庭師の証言、警備騎士の報告を確認いたしました」


「セレナ・アシュフォード嬢とベルモント嬢が接触した事実、ならびに該当の時間帯に接触できたと裏付ける証拠は一切確認できませんでした」


 ざわり、と令嬢たちが息を呑む。


 調査官は淡々と続けた。


「また、ベルモント家からハンカチの件や負傷について正式な申し立てはなく、侍女や医師への診察記録、関係者への報告も確認できませんでした」


 リリアーナは一歩後ろへ下がった。


「ち……違います……」


 震える声で言い返す。


「怖くて……誰にも言えなかっただけです……」


 その瞬間、静かな声が響いた。


「ベルモント様」


 セレナだった。


 これまで一度も相手を責めなかった彼女が、初めて真っすぐリリアーナを見つめる。


「あなたは先ほど、『舞踏会の少し前に脅された』とおっしゃいました」


「はい……」


「ですが謁見の日には、そのようなお話は一切なさいませんでした」


 リリアーナの肩が震える。


「その時は……」


「怖くて言えなかった、と仰るのですか」


「……はい」


「では、お母様の形見であることや、侍女のお名前、怪我をした日時は、あれほど詳しくお話しになれたのに、その一番恐ろしかった出来事だけは、お忘れだったのでしょうか」


 穏やかな声だった。


 責める口調ではない。

 ただ、事実を確認しているだけだった。


 リリアーナは答えられない。

 沈黙が何より雄弁だった。


 セレナは深く息を吸う。


「私は、あなたを憎んではおりません」


 その言葉に、リリアーナが顔を上げる。


「ですが」


「どうして、そこまで私を傷つけようとなさったのですか」


 その問いに答えは返らない。

 代わりに、リリアーナは大粒の涙を流しながら叫んだ。


「だって……!」


 その声は震えていた。


「あなたは家柄が良かっただけじゃない!」

「笑いもしないのに、みんなあなたばかり褒めて!」


「私はどれだけ笑っても、どれだけ愛想よくしても、『平民の血が入っている』って陰で笑われた!」


 温室が静まり返る。


「お父様だって、私じゃなく家の評判ばかり気にしていた!」


「なのにあなたは、何もしなくても王太子妃になれる!」


 涙を流しながら、なお叫ぶ。


「だから少しくらい、私が幸せになったってよかったでしょう!」


「あなたから婚約者を奪えば、誰も私を蔑む人がいなくなると思ったの!」


 令嬢たちは言葉を失った。

 誰も予想していなかった。


 彼女は最後まで、「自分は悪くない」と信じていたのだ。


 国王は静かに告げる。


「ベルモント嬢」

「虚偽の証言、王家への欺瞞、証人の偽装」


「これらは決して軽い罪ではない」


「……いや」


 リリアーナは首を振る。


「私は悪くない」

「全部、セレナ様が悪い」


「私が泣いているんだから!」


 なおも涙に縋るその姿を見て、エドワードは彼女の前へ立った。


「父上!」

「彼女を責めるのはおやめください!」


「私は最後までリリアーナを信じます!」


 国王はゆっくりと頷いた。


「そうか」

「ならば、お前もその責任を負うがよい」


 静かに宣言する。


「王太子エドワード」


「本日をもって王太子の地位を剥奪する」

「王位継承権を失わせ、北方離宮にて謹慎を命ずる」


 エドワードは呆然と立ち尽くした。


「そんな……」

「私は……間違っていない……」


「ベルモント伯爵令嬢リリアーナ」

「国外追放を命ずる」


「以後、この国へ戻ることは許さぬ」


「嫌!」


 リリアーナは泣き崩れた。


「助けて、エドワード様!」


 エドワードは彼女の手を取る。


「心配するな」

「世界中がお前を敵に回しても、私はお前を信じる」


 二人は最後まで、自分たちが誤っているとは認めなかった。


 国王は背を向ける。

 もはや、語る言葉は残っていなかった。


 一方、セレナは静かに目を閉じる。

 勝ったという気持ちはなかった。


 ただ一つ。


 ようやく、自分の言葉を信じてもらえた。

 その安堵だけが胸に広がっていた。


 その隣へ、カイゼルが静かに歩み寄る。


「終わりました」


 短い一言。


 セレナは小さく頷く。


「……はい」


 そして初めて、心から微笑んだ。


 その笑顔を見た瞬間、カイゼルの時間は、三年前の庭園へと戻っていた。


     ◇


 事件が解決してから、季節は一つ巡った。


 王都の庭園には、春の花々が色鮮やかに咲き誇っている。

 ブラッドフォード公爵家の庭でも、柔らかな風に乗って花の香りが漂っていた。


 その花壇を眺めながら、セレナは小さく微笑む。


「今年も綺麗ですね」


「ええ」


 隣に立つカイゼルも静かに頷いた。


 初めて出会った頃とは違う。

 沈黙は気まずいものではなく、穏やかで心地よい時間になっていた。


「……実は、お話ししたいことがあります」


 珍しくカイゼルの方から切り出した。


 セレナは首を傾げる。


「何でしょう」


 カイゼルは花壇へ視線を向けたまま、小さく息をつく。


「あなたは覚えておられないかもしれません」

「三年前、王城の庭園でお会いしています」


 セレナは驚いて目を見開く。


「三年前……?」


「ええ」


 あの日。


 王城で開かれた園遊会。

 人混みに疲れ、一人で庭園へ出た少女がいた。


 花壇の前へしゃがみ込み、小さく咲く白い花へ優しく笑いかけていた。


『綺麗ね』

『今年も咲いてくれてありがとう』


 誰に聞かせるでもない、その言葉。


 その笑顔。


 風に揺れる金色の髪。


 ほんの数分の出来事だった。

 けれどカイゼルにとっては、その一瞬が忘れられなかった。


「私は……」


 彼はゆっくりと続ける。


「あの日から、あなたをお慕いしていました」


 セレナは静かに息をのんだ。


「ですが、お声を掛ける勇気はありませんでした」


「ただ遠くから、お幸せになってほしいと願っていました」


「だから婚約のお話を聞いた時も、祝福しようと思ったのです」


 少しだけ笑う。


「……できませんでしたが」


 その笑みは、どこか照れくさそうだった。


「花を縫えば、あの日の笑顔を思い出せる気がしたから」


「だから屋敷には花が多い」


「だから蜂蜜の焼き菓子を選んだ」


「だから――」


「あなたをお守りしたいと思ったのです」


 セレナは静かに耳を傾けていた。

 やがて、小さく笑う。


「思い出したかもしれません」


 カイゼルが顔を上げる。


「本当に……?」


「園遊会の日ですね」


「迷子の男の子を使用人のところまで送って、その帰りでした」


「花がとても綺麗で、少しだけ立ち止まったんです」


 カイゼルは目を丸くした。

 自分だけが覚えている思い出だと思っていた。


 けれど、彼女も同じ景色を覚えていてくれた。

 それだけで胸が熱くなる。


 セレナは穏やかに微笑む。


「まさか、あの時どなたかに見られていたなんて思いませんでした」


「見惚れていました」


 あまりにも自然に出た言葉だった。


 二人とも固まる。

 数秒の沈黙。


 レオンが遠くで顔を覆う。


(旦那様……!)

(ついに言いましたね……!)


 カイゼルは咳払いを一つした。


「……失礼しました」


「本音が出ました」


 セレナはくすりと笑う。


 事件以来、少しずつ笑顔が増えていた。

 その笑顔を見ていると、カイゼルまで頬が緩む。


「セレナ嬢」


「はい」


 彼は真っすぐ彼女を見つめた。


「私は、あなたを生涯お守りしたい」

「あなたが笑っていられる場所を、私がつくりたい」


「私と正式に婚約していただけませんか」


 春風が二人の間を通り抜ける。


 セレナは目を潤ませながら、小さく頷いた。


「……はい」


「実は」


 少し照れくさそうに笑う。


「私も、お話しする時間が少しずつ楽しみになっていました」

「最初は怖い方だと思っていたんです」


「ですが、本当は誰よりも優しい方でした」


 カイゼルは息をのみ、静かに微笑んだ。


「ありがとうございます」


「こちらこそ」


 そう言って、二人は同じ花壇へ目を向けた。


 あの日と同じように。

 花は変わらず、美しく咲いていた。


     ◇


 それから三年後。


 王城の大聖堂では、二人の結婚式が執り行われていた。


 純白のドレスに身を包んだセレナは、もう人前で強張ることはない。


 隣には、凛とした表情のカイゼル。


 誓いの言葉を交わし、祝福の拍手が響く。


 その様子を後方から見守るレオンは、小さく笑った。


「昔は『悪徳令嬢には冷徹公爵がお似合いだ』なんて好き勝手に言われていましたが」


 隣の執事が苦笑する。


「今では誰もそんなことは言いませんね」


 レオンは幸せそうに並ぶ二人を見つめた。


「ええ」

「だって、本当にお似合いなのですから」


 セレナがカイゼルを見上げる。

 カイゼルもまた、彼女を見つめ返す。


 二人は同時に笑った。


 あの日、誰にも理解されなかった少女の笑顔。

 その笑顔を守り続けると決めた青年。


 涙ではなく、真実が結んだ二人の未来だった。

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