Clear eye
私の人生は滅茶苦茶だった。私は今54才。
大好きな恋人の近くに住みたくて、息子が大学進学し、賃貸住宅を巣立って行ったのを機に大阪から上京した。
私は2度離婚をし、殆どをシングルで息子を育てたようなもの、否、息子に私は育てられたのだ。
私達母子は、福祉のお世話になり生活していた。福祉では、大学進学の費用は出されない。息子は自力で奨学金を得、自力で進学し、現在は関西でアルバイトを2つしながら授業料・家賃・生活費の全てを自分で捻出している。
親として頭が下がる。
私は息子を誇りに思うし、とても愛している。
私の母もまたシングルだった。
私が5才の頃、父が行方知れずとなった後から、母のそばには必ず恋人が居た。
その内の一人から私は6才の時に性的虐待を受けた。
一番に感じた事は(ママが可哀相)という思いだった。
その頃から私には幻覚・妄想症状が表れたが、私はのちに精神科へと通う28才頃まで、誰にもその恐怖を、不安を、悲しみを打ち明けた事はなかった。
無論、受けた性虐待についても、孤独も、23年近く黙り続けていたのだ。
性虐待を受けたあとからの妄想(?)毎晩ベッドに現れるイメージのようなものはとっても恐ろしく、兎に角虚しさに襲われ、就寝するのが憂鬱でたまらなかった。
ズシ―ン! ズシ―ン! と地響きのような足音が聴こえて来る。10M以上はあるガタイの良い寂しげな大男が、私のほうへ近づいて来る。
自身の無力を思わせる爆音と、得も知れぬ虚無感。
私は布団の中で、目をギュッとつぶり、耳を塞いでいた。来た! と思うと踵を返し、去って行く。その男の大きな背中は物悲しかった。
思春期になる頃までずっとそれは続いた。本当に、本当に、毎夜ベッドへ行くのが憂鬱でたまらなかった。
年頃になると私はグレた。祖母とも毎日いがみ合っていたし、居場所がなかった。家出同然に関西へ飛び出した。
最初は会社に就職したが、遅刻に無断欠勤、会社のルールも何一つ守れない。私はボーナスの出る1カ月前である5月に仕事を辞めてしまった。そこからは男を作っては渡り歩き、そこを寝床にした。その内、夜の仕事を始め、そこで……違法薬物に手を出してしまった。
私の禁断症状は凄まじく、悲劇的なものだった。追尾妄想・被害妄想の極みだった。
(自分は必ず殺される!)と120%信じ切った。健常者には信じ難いだろうが、この『120%信じている状態』というのは、本人にとっては『現実』なのだ。
私は『命を狙われている感覚』を知ってしまった。爆発的な恐怖の中、心配してくれた知人に精神病院を紹介され、連れ添ってもらい、そこで私は初めて自分が精神に病を来たしていた事を知る。
生まれて初めて、性的虐待に遭った事、その直後から始まった幻覚・幻聴・妄想状態を抱えた少女時代の話を診察室でドクターへした。
私はその後、恋愛が旨く行かなくなるとODをしてはICUに運ばれた。私はかつて、趣味のバンドのボーカリストだった。100錠以上服薬した体を救うためになされた処置故、私の声帯は傷ついた。今、昔ほどの高音は出ない。
両肘の内側、両手首、首の左右には消えない傷跡がある。自分で切り裂いた。
死にたかった。
苦しくて。
淋しくて、淋しくて。
そんな私は約1年間、精神科の閉鎖病棟で暮らした。
そうして、再び私は恋をし、なんと身籠った。
それでも私にとって命は軽く、妊娠中もタバコと酒を吞んだ。ライブで大暴れもした。
この事は今、頑張って生まれて来てくれた息子に対し、頭を地面に擦り付け土下座をしたい程だ。
息子を生んだ私は一回り以上年下の夫を顎で使っては暴力を振るっていた。ベビーベッドで安らかにしている赤ちゃんの息子の前でもDVは平気で繰り返された。
のちにその夫だった人と和解した際、話すと「俺が、妊娠中のやや子の腹を蹴った時から、やや子から俺への暴力が始まったんだよ。憶えてないの?」と言われた。全く覚えていない。
私は、延長コードで彼の首を絞め、殺しかけた。息子が保育所に預けられている時間帯の事だった。
我に帰った私は、気絶している彼を前にし、泣きながら救急車を呼んだ。彼は一命をとりとめた。
私達夫婦は、役所の勧めもあり、幼い息子を施設に時々預けながら必死で育てた。
――――ある日……それは、私が変わって行き始める瞬間だった。きっかけだった。
いつものようにベッドで息子へ授乳しながら、私は大声で、台所に居る息子の父親に向かって料理について指図をした。とても乱暴で穢い言葉で、だ。
すると、おっぱいを元気に飲んでいた1才にもならぬ息子がパッと口を離し、ジーっと私の目を見つめたのだ。
その目に脅えはなく、怒りはなく、絶望もなく、驚きすらも私には見て取れなかった。
ただ、おっぱいを飲む事をもうやめてしまい、私の目をキラキラとした美しい瞳でしばらく見つめたのだ。
私はその時に解った。馬鹿かと言われそうだが、やっとその時だったのだ、解ったのが。
(この子は、あたしを見ている。どんなに一生懸命この子だけを可愛がったって、この子はあたしのように悲しい人間に育ってしまう。あたしの真似をするんじゃないか? この子はあたしと夫のやり取りを見聞きして、学んでいるのだ?)
遅すぎた! と猛省した。
『純粋』とはああいう煌めきの事を指すのだろうと思う。息子の目は澄み渡っていた。
家は貧乏で、二層式洗濯機。クーラーも湯沸かし器もシャワーもない中、私は……いや、詳細には私達夫婦は必死で息子を育てていた。
一日中洗濯機は回りっぱなしだ。そのほうが良いと当時聞いたから、布オムツを息子のために使用していた。オムツかぶれをせぬよう、清潔な暖かいガーゼでお尻を拭く。その次には水に浸したガーゼをギュッと絞り、お尻にあてがう。これを、大の時のオムツ交換時は、欠かさなかった。
私は夫から『暴力を煽られていた』必死で震える拳を押しとどめていた。
(今度こそ息子の心を守るんだ)と誓い、私は二度と暴力を振るわなくなった。
それと入れ替わるように始まったのは、夫から私への暴力。
私は自己防衛をしたし、息子を連れシェルターへ逃げもした。
――――そして、暴力の恐怖の中離婚を成立させた。裁判所へ行き、接近禁止命令、退去命令を夫に対し発令させた。
そこからは母子2人だけの暮らし。私は要領が悪いので子育てが大変だった。酷い事をした夫だが、息子のお世話は得意だったのだ。
私は、私が子どもの頃して欲しくてもしてもらえなかった事を、精一杯息子へ尽くした。
毎夜の絵本の読み聞かせは幸せで、それは、それは幸せで。私自身、絵本に触れる時少女に戻っていたのだと思う。息子は何度も人差し指をピンと立て「おっかい(もう一回)! おっかい」とご本を読むのをねだった。少し困ったが、とっても嬉しい時間。
あの網戸から入る、夏の涼やかな風が忘れられない。
保育所の帰り道は、息子の気まぐれに付き合い一緒に蝶々を追いかけ、探検ごっこをし、おひさまがすっかり濃いオレンジになり、私は帰宅後のバタバタを想うとちょっぴり憂鬱でもあった。
しかし、息子の笑顔が一番だった。
生まれた時、みんな赤ちゃんだった。
私は悪い事をしました。薬に暴力です。
そして、息子のあの瞳に私は気づきをもらい、ここまで更生しました。
今は物書きになりたく、日々小説やポエムに情熱を傾けています。
私が笑われても信じてやまないもの。それは、全ての人の心の中にある愛です。
※この物語は、法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません。




