「無自覚聖女」の兄は胃が痛い ~神獣をモフり、手作りパンで限界突破バフをかけてくる妹を全力で隠蔽します~
双子の妹が最近おかしい。
いや、前から少し変なところはあった。
木に登ったり、庭の隅で何かを集めていたり。
貴族令嬢らしくないと言われれば、まあそうだ。
でも、そういう問題じゃない。
もっとこう――嫌な違和感だ。
ベランダから落ちたあの日から、明らかに何かが変わった。
◇
療養中のはずのセラは、妙に落ち着いていた。
普通なら、少しは取り乱したり、不安そうにしたりするものだろう。
だが、あいつは違った。
まるで――全部どうでもいいみたいな顔をしていた。
それが、一番気味が悪かった。
◇
「……エリオ」
兄上――ルーカスに呼ばれたのは、その数日後だ。
「セラの様子、しばらく見てこい」
「様子って……普通に部屋で寝てるんじゃないのか?」
「山に向かうらしい」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
山?
なんだそれ。
意味が分からない。
「引き留めたが、聞く耳を持たん。覚悟が決まっている顔だった」
短く言い切る。
それ以上は何も語らない。
……あの人がこういう言い方をする時は、大体ろくでもない。
◇
山に入りしばらく経った頃。
水場を見つけたセラは、おもむろに鞄からナイフを取り出した。
まさか魔物でも出たのかと、俺が岩陰で息を呑んだ次の瞬間。
ジョキッ、と。
無造作な音が響き、美しいピンクアッシュの長い髪がバッサリと切り落とされた。
(お、おい、セラ!? お前何してんだ!)
思わず飛び出しかけるが、兄上から「見守れ」と言われている以上、ここで見つかるわけにはいかない。
俺は飛び出したいのを必死に我慢した。
当のセラは、水面に映る自分の切りっぱなしの短い髪を覗き込み、
「うん、良い感じ!」
呑気なことを言っていた。
短髪のセラは俺そっくりで、自分が二人いるような奇妙な感覚になっているというのに。
だが、セラの行動の理由はすぐに分かった。
短くなった髪を軽く払い、彼女はすぐさま水辺で釣りの準備を始めたのだ。
木の枝を加工し、手際よく罠を仕掛けていく。
あの長い髪のままでは、水に濡れたり木に引っかかったりして作業の邪魔になる。
あいつは本気で、この山で生きていくための「準備」をしているのだ。
(いつの間に、あんな知識を……。でも、これなら大丈夫そうだな)
逞しく働く小さな背中を見て少しだけ安心した俺は、一度屋敷へと引き返した。
◇
少しでも喜ぶ顔が見たくて、街で甘いドーナツを買い込み、ウキウキで山へ戻った俺を待っていたのは――絶望だった。
「ひっ……!」
空気がビリビリと震えている。
圧倒的な威圧感。
セラの拠点のど真ん中に、銀色に輝く巨大な獣がいた。
伝説の神獣フェンリル。
王国の騎士団が総出でも勝てないバケモノだ。
(終わった。ドーナツなんか持ってきたところで、俺ごと喰われる……ッ!)
「あ、エリオ。久しぶり」
だが、当のセラは神獣のすぐ隣で、呑気に俺に手を振ってきた。
「そ、それ……」
「ノクスだよ」
「その大きさーーフェンリル、だよね」
「よく知ってるね」
「なんで普通にしてるの」
「可愛いでしょ?」
(可愛い!? どこが!? 一口で俺の頭吹き飛ぶサイズだぞ!?)
手からドーナツの袋がずり落ちそうになるのを必死に堪える。
神獣――ノクスとやらが一瞥してきて、俺は心臓が止まりそうになった。
「あのさ、それ、本当に大丈夫?」
「大丈夫だよ。ノクスがそう言ってるから」
「フェンリルが言ったら信じるの?」
「うん」
即答だった。
なんでこの妹は、神獣を近所の大型犬か何かだと勘違いしてるんだ。
しかもこのバケモノ、セラが焼いた肉を普通に横で食っている。
俺は震える手でドーナツの袋を持ち直し、深呼吸した。
「兄上から、これ。甘いの好きだっただろ」
「ありがとう! ノクス、甘いやつだよ。食べる?」
セラが神獣にドーナツを差し出した。
馬鹿な。神獣が人間の甘味なんか食うわけが……。
サクッ。
食った。
しかも二口目も食った。
心なしか、あのバカでかい尻尾がわずかに揺れている気がする。
気のせいか?
◇
その後、なぜか俺は神獣と並んで焚き火を囲み、セラに肉を焼いてもらうという、この世で最も胃が痛くなる食事会に参加させられていた。
「……いや、やっぱりおかしいって」
俺はたまらず呟いた。
近い。
セラとフェンリルの距離が近すぎる。体が当たっているのに、セラは全く気にしていない。
「はい、エリオ。焼けたよ」
「ありがと」
俺が肉を受け取ろうとした、その瞬間だった。
横から、ひょいっと白銀の鼻先が伸びてきて、俺の肉を奪い去った。
「あ、今、取ったよね?」
セラが叱るように神獣の鼻先を指差す。
見ているこっちの寿命が縮むからやめてくれ。
「余の分だ」
「さっき食べたよね? それエリオの分。」
「セラ、もういいよ、俺は次ので……」
俺が身を引こうとした時、ノクスと目が合った。
ほんの一瞬。
伝説の魔獣の、冷たく鋭い眼光。
睨まれただけで背筋が凍るほどの威圧感。
……なのに、その口には焼き立ての肉がぶら下がっている。
そして、あきらかに俺を見下し、勝ち誇ったように「ふん」と鼻を鳴らしたのだ。
(……肉一枚で、全力のマウント取られた……!)
ただの肉じゃない。
フェンリルが人間に『それ、俺のだから』って所有権を主張してきたのだ。
歴史書のどこにもそんな生態は書いてない。
懐くどころか、もう完全にセラの身内みたいな顔をしてやがる。
「やっぱりおかしいって、その関係……」
俺は深いため息をついた。
◇
「……で、セラ。ここで、ずっとやっていくつもり?」
「うん」
セラの顔に迷いはなかった。
「楽しいんだよね」
その言葉に、俺は何も言えなくなった。
屋敷にいた頃の、セラとは違う。
陰謀だの、公爵家の思惑だの、そんなちっぽけな世界のことは、今のこいつには関係ないのだ。
だが、魔力もないセラがこの山で暮らすのは危険すぎる。いくら神獣がいても――。
「ここに、結界を張る」
不意に、ノクスが立ち上がった。
「……は?」
「簡易的なものだ。だが、低位の魔物程度なら寄せつけぬ」
神獣の足元から、見えない波動が円を描くように広がっていく。
空気が変わり、森が息を潜めた。
「……これ、本気のやつじゃん」
俺はあんぐりと口を開けた。
魔術師が何十人もかり出されて数日がかりで張るような大規模結界を、こいつは一瞬で、しかも「簡易的」だと言い放った。
「安全になったね。ここでの生活も」
セラはにこっと笑っている。
「そういう問題じゃないんだって……」
俺は頭を抱えた。
妹は、規格外の神獣を完全に手懐け(あるいは手懐けられ)、超一流の結界に守られた安全地帯を手に入れてしまったらしい。
屋敷の連中が知ったら、泡を吹いて倒れるだろう。
「……あのさ」
俺は真面目な顔を作って、セラに向き直った。
「……しばらく、俺も来るわ」
「え?」
「見てないと、色々心配だから。それにここに住むならば、もうちょっと整えないとな。大工仕事くらいは手伝ってやる」
本当は、この規格外すぎる妹と神獣から目を離すのが怖いだけだ。
だが、それ以上に。
「いいの?助かる! 楽しくなるね。賑やかな方が山っぽくて」
そう言って笑うセラの顔が、本当に楽しそうだったからだ。
俺はため息をつきながらも、どこかほっとしている自分に気づいていた。
(……まあ、屋敷の連中や公爵家がどう動こうと、この山に手出しできる奴なんて、世界中探してもいやしないか)
隣で静かに目を閉じるバカでかい神獣を見上げながら。
俺は次の休みに持ってくる大工道具のリストを頭の中で組み立て始めていた。
◇
なんで俺は、家出した妹の隠れ家で、汗水垂らして大工仕事をしているんだろうか。
「ほら、そこ。脚の角度がズレると寝てる間に崩れるぞ。……よし、これでベッドの土台は完成だ」
俺は額の汗を拭いながら、組み上げた木枠を叩いた。
騎士団の遠征訓練で叩き込まれたサバイバル技術が、まさかこんなところで役に立つとは。
それにしても――。
俺は至近距離にいる妹の顔を見て、どうしても我慢できずに口を開いた。
「……なぁ。ずっと言いたかったんだけどさぁ、その髪なに?」
「ん? ああ、気づいてたんだ」
「気づかないわけないだろ! 会った時、心臓止まるかと思ったんだからな。ショックでなにかあったのかと……」
ピンクアッシュの髪が、耳の下で無造作に切り揃えられている。
ただでさえ双子で顔が似ているのに、髪が短くなったせいで、まるで鏡を見ているようでどうにも落ち着かない。
「確かにそっくりだね。じゃあ、いざとなったらエリオが私のふりして家に帰ってもバレないね」
「バレるわ! 声の高さも体格も違うだろ!」
間髪入れずにツッコミを入れたが、当のセラはどこ吹く風だ。
それどころか、今度は川から拾ってきた石や砂、焚き火の炭なんかを布に重ねて、謎の工作を始めた。
「……それ、どこで覚えたの」
「なんとなく? 石と砂を重ねれば、綺麗になるかなって。ほら、エリオも飲む?」
セラが差し出してきたのは、その工作物(?)を通って滴り落ちた水だった。
「……いや、いい。なんかそれ、俺が飲んだらバチが当たりそうだし。第一、そんなもん通しただけで味が変わるわけ――」
そう言いながらも、俺の目はその器に釘付けになっていた。
明らかにおかしい。
川の水をそのまま汲んだだけの時とは違う。
透明度が異常なのだ。まるで宝石のように光を反射している。
「……一口だけだぞ」
俺は奪い取るように器を受け取った。
ごくり、と喉を鳴らす。
「…………えっ?」
なんだこれ。
ただの水のはずなのに、川の水よりずっと冷たく感じる。
いや、それだけじゃない。
雑味が一切なく、体に、細胞の隅々にまでスッと染み渡っていく感覚。
(……教会の聖水でも、ここまで清らかじゃないぞ!?)
「どう?」
「……おい、お前。家でやってたあの『泥水いじり』、本当はこれの研究だったのか……?」
「泥遊びってバカにしてきたの、エリオでしょ」
「……あー、もう分かったよ! 認めりゃいいんだろ、お前が変な天才だってことは!」
俺は悔しさに任せて最後の一滴まで飲み干した。
疲労感が、嘘みたいに消えている。絶対に気のせいじゃない。
「……まぁ、いいけどさ。腹壊さないなら。……おい、おかわりあるか?」
「自分で濾してよ」
「冷たいな! 兄貴だぞ!」
俺は悔しさ紛れにそう吐き捨てながらも、足取りが妙に軽いことに気づかないふりをした。
◇
そして休暇の最終日。
セラの無茶振りに付き合わされ、俺の汗と筋肉の結晶とも言える立派な石窯が完成した。
セラが捏ねた生地を放り込み、しばらく待つと――山の中とは思えない、強烈に香ばしい匂いが漂ってきた。
「……なんだこれ、めちゃくちゃいい匂いだな」
「でしょ。これが私の『憧れ』だったんだから」
焼き上がった黄金色の平焼きパンを半分に割り、熱々のまま頬張る。
「うまっ……!」
なんだこれ。
家で専属の料理長が焼いていたパンより、はるかに美味い。
口に入れた瞬間、体の奥にじんわりと熱が広がるような感覚があった。
細胞の一つ一つが歓喜の声を上げているような、そんな奇妙な熱だ。
(……なんだ今の。気のせい、か?)
「おい、セラ。これ、家で食べてたやつより美味くないか?」
「多分、自分たちで作ったからだよ! なんといっても焼きたてだし」
「かもな」
俺は帰宅の時間になり、最後の一切れを口に運んだ。
まったく、俺の妹はいつの間にこんなに逞しくなったんだか。
◇
「……じゃあ、行くわ。ノクス、妹を頼む。……あと、セラ」
「なに?」
「無理はするなよ。……何かあったら、本当にすぐ言えよ」
セラに別れを告げ、俺は山道を下り始めた。
カバンの中には、セラが持たせてくれたパンがいくつか入っている。
(……おかしいな)
山の中腹あたりまで下りてきて、俺は決定的な違和感に気づいた。
昨日はロッジの家具を作り、今日は重い石を運んで石窯を作った。
泥だらけの重労働で、体力的には限界に達し、足は棒のようになり、肩も上がらないほど酷使したはずだ。
それなのに。
「……なんだこれ、体が異常に軽いぞ」
足取りが、まるで羽が生えたかのように軽い。
険しいはずの斜面を、騎士団の身体強化術でも使っているかのように、軽快に飛び降りていける。
それどころか、普段の俺では絶対にできないような、高さのある崖も難なく飛び越えることができた。
視界は恐ろしいほど冴え渡り、全身の筋肉が、まるで生まれたての頃のように研ぎ澄まされ、力に満ち溢れていた。
(あのパンのせいか……? いや、それだけじゃない。あの水もだ)
俺は足を止め、カバンの中の重みを感じた。
妹が、その辺の石で作った窯で焼いた、不格好なパン。
ただの炭と砂で濾過した水。
ただのサバイバル飯が、魔力全回復と規格外の強制身体強化を同時にかける、とんでもない聖遺物級のアイテムだったなんて。
「……いや、まさかな」
俺は苦笑して首を振ろうとした。だが、振れなかった。
現に、俺は今、山頂から中腹まで、騎士団のトップでもあり得ない速さで駆け下りてきたのだ。
疲労など、露ほども感じていない。それどころか、魔力が限界を突破して高まっているのが分かる。
「……泥遊びだと思ってたら、聖水を精製してて」
「『憧れの石窯』だと思ってたら、国宝級アーティファクトの錬成炉を建造させられてたのか……?」
冷たい汗が背中を伝う。
こんな規格外の力を持つセラが、王都や教会にバレたらどうなる?
120年現れていない『聖女』に匹敵する、いや、それ以上のデタラメな力だ。
教会や、あの婚約破棄を突きつけてきた公爵家が放っておくはずがない。
あの山で呑気に「楽しい」と笑っていたあいつのスローライフは、一瞬で終わりを告げるだろう。
「……冗談じゃない」
俺は深く息を吐き、表情を引き締めた。
パニックになっている場合ではない。
この異常な力は、完全に隠蔽しなければならない。
あいつが、あの山でずっとあんな風に笑っていられるように。
「公爵家か? 教会か? ……誰があいつを監視し、陥れようとしているのかは分からない。だが」
俺は限界突破した身体能力を周囲に悟られないよう抑え込みながら、極めて冷静に頭を切り替えた。
「……セラ。お前はあの山で、好きなだけ呑気に笑ってろ。お前の邪魔をする奴は、俺が裏で全部潰してやる」
カバンの中のパンの温もりを感じながら、俺は足取りも軽く、屋敷へと急いだ。
この理不尽なまでの力が、今はただ、頼もしかった。
◇
――そして、翌日。
王都の騎士団訓練場。
「次、エリオ! 構えろ!」
「はいっ!」
俺は木剣を構え、教官と向かい合った。
この教官は元・近衛騎士で、見習いの俺たちからすれば手も足も出ないバケモノだ。
いつも通り、数合打ち合って転がされるのがオチだろう。
……そう思っていた。
「遠慮はいらん! 全力で打ち込んでこい!」
「いきます!」
ダンッ!!
踏み込んだ瞬間、自分でも信じられないほどの推進力が生まれた。
「は?」
俺の口から、間抜けな声が漏れる。
すでに俺の体は、教官の目の前まで迫っていた。
体が、異常に軽い。
昨日の過酷な肉体労働の疲労など微塵もなく、魔力と筋力が内側から無限に湧き上がってくる。
(嘘だろ!? 昨日あのパン食ってから、もう一晩経ってるぞ!?)
「なっ……!?」
教官が驚愕に見開いた目で、慌てて防御の姿勢をとる。
俺は慌ててスイングの威力を極力殺そうとした。それでも遅かった。
ガァンッ!!
「ぐっ、おおおっ!?」
重い衝撃音とともに教官の木剣がへし折れ――。
受け止めたはずの教官が、ズザザッ!と数メートルも後ずさり、たまらず膝をついた。
静まり返る訓練場。
同期たちが、亡霊でも見るような目で俺を見ている。
「エ、エリオ……お前……っ」
痺れた両腕を抱え、荒い息をつく教官が震える指で俺を指差した。
「たった数日の休暇で……一体、どんな死線をくぐり抜けてきたんだ……!?」
(死線……?)
俺は無傷の自分の木剣を見つめながら、引きつった笑いを浮かべるしかなかった。
(妹と石窯作って、パン食っただけです……とは、絶対に言えない)
一晩経っても腹の底にしっかり残っている、異常に持続時間の長いパンの恩恵(効果)を感じながら。
俺は改めて、あの山にいる規格外の妹の秘密を、何が何でも隠し通そうと心に誓うのだった。
(なあ、セラ。お前の作ってるそれ、もうサバイバル飯じゃなくて、伝説のアイテムなんじゃないか……?
いや、それ以前に――お前、もしかして本物の『聖女』なんじゃ……?)
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
連載本編の裏側で暗躍するエリオ視点のお話でした。
もしお楽しみいただけましたら、ページ下部の【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にして評価していただけると、今後の執筆の大きな励みになります!
連載本編『無自覚聖女のモフモフ山籠り生活』も引き続きよろしくお願いいたします!




