第9話:無能課長の嫉妬を躱す。
空気が変わったのは、翌週だった。
朝礼が終わり、各自が席に戻ろうとしたところで、係長が俺の名前を呼んだ。
「相良くん、ちょっと課長席まで」
周囲の視線が、一斉に集まる。
早見が一瞬だけこちらを見た。表情は読めない。
課長席の前に立つと、課長は資料から目を上げずに言った。
「最近、やけに目立つな」
声は低く、感情を抑えた調子だ。褒めているわけではない。
「業務改善の件だが……」
課長は俺の作った新しい帳票を、指先で軽く叩いた。
「係長経由で話が上がってきた。効率が上がったのは事実だ」
一拍、間が空く。
そして、視線だけがこちらを射抜く。
「だがな。新人が勝手に仕組みを変えるのは、好ましくない」
来た。
――分かりやすい嫉妬だ。
俺は表情を変えず、静かに頷いた。
「ご指摘、ありがとうございます。承認フローを飛ばすつもりはありませんでした」
「そういう意味じゃない」
課長は、椅子にもたれかかる。
「目立つな、と言っている」
はっきり言われた。
だが、これは脅しではない。牽制だ。
「それと――」
課長は別の資料を差し出した。
「この案件、君に任せる」
内容を一目見て、理解した。
失敗確率が高く、面倒で、評価に繋がりにくい。典型的な“新人に押し付ける仕事”。
「分かりました」
俺は即答した。
課長が、わずかに目を細める。
「随分、素直だな」
「はい。勉強になりますので」
俺は、その場では、それ以上何も言わなかった。
自席に戻ると、早見が小声で聞いてきた。
「……大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ」
俺は画面を見たまま答える。
「よくある話です」
実際、三十年前に何度も経験している。
“出る杭は打たれる”
だが、折られるとは限らない。
その案件は、確かに難しかった。
しかし、未来を知る俺にとっては、地雷の位置が分かっている地図を歩くようなものだ。
俺はまず、数字を整理した。
リスクを洗い出し、最悪ケースを想定し、回避策を三案用意する。
そして――
課長の名前を、きちんと前に出す構成にした。
報告書の一枚目。
「課長方針に基づく対応案」
これが、重要だ。
数日後。
課長室での進捗確認。
「……ほう」
課長は資料をめくり、鼻を鳴らした。
「随分、丁寧だな」
「課長のご判断が通りやすい形にまとめました」
俺は、あくまで補佐の立場を崩さない。
課長は黙り込んだ。
失点はない。
むしろ、このまま行けば“課長の手柄”になる。
「……悪くない」
その一言で、圧は一段落ちた。
周囲から見れば、
「相良がフォローした」
ではなく、
「課長がうまく舵を切った」
そう見える。
それでいい。それでいいのだ。
数日後、係長が小声で言った。
「相良くん、助かったよ。課長、かなり機嫌いい」
俺は軽く頷いた。
評価は、確実に積み上がっている。
課長の嫉妬は消えていない。
だが、敵対もしていない。
使える新人。
邪魔にならない有能。
その位置を、俺は正確に取った。
三十年遅れの新人――元・万年火消し課長。その記憶を持った俺。
課長はまだ気づいていない。
駒を動かしているつもりで、盤そのものが、少しずつ俺に傾いていることに。
それは、静かに。だが、確実に。
次回予告:
感覚論を数字で黙らせ、実績を組織の成果へ。
ついに俺の作った仕組みが、役員会の議題にまで上り詰める。




