第3話:全て知っている会社。
研修は午前で一度区切られ、昼休憩になった。
ざわめきとともに、新入社員たちが一斉に席を立つ。名刺交換の練習だの、志望部署の話だの、希望に満ちた声が飛び交っている。
俺はその流れに乗らず、壁際の掲示板の前で足を止めた。
組織図。
役員一覧。
主要グループ会社。
三十年前と、同じだ。記憶と重なる。
無意識に、組織図を指でなぞっていた。
この専務は、五年後に不正会計で辞任する。
この常務は、海外案件の損失隠しで飛ぶ。
この子会社は、十年後に粉飾発覚で吸収合併。
この新規事業部は、三年で消える。
この会社は、七年後、海外LNG案件で三百億を溶かす。
頭の中に、年表が浮かんでくる。
新聞記事。社内通達。謝罪会見。株価チャート。
全部、見てきた光景だ。
記憶を思い出し、背中にうっすら汗が滲んでいることに、そこで気づいた。
「どうしました?」
声をかけられ、振り向く。人事部の若手社員だ。まだ名前は思い出せないが、顔は覚えている。将来、採用改革で評価される人物だ。
「いえ。規模が大きいなと思って」
当たり障りのない返事をする。
「うちは総合商社ですから。配属で人生変わりますよ」
知っている。変わるどころか、折れる。
当たり部署。外れ部署。出世ルート。島流しルート。潰れる案件。跳ねる案件。
全部、記憶にある。
例えば、新人講師の鷹宮。あの男も、将来俺の評価を潰した一人だ。
俺は笑った。
「配属って、運ですか?」
「基本は適性と希望ですが……最後は上の判断ですね」
社内政治だ。昔と同じだ。
廊下の窓から外を見る。ビル街。車の流れ。看板。風景も一致している。
――つまり。
初期配置は同じだ。
だが、今回は、手番が違う。以前の「記憶」がある。
ポケットの携帯が震えた。着信ではなく、社内配布のスケジュール通知だ。紙ではなく、メール配信だったことを思い出す。まだ過渡期の時代だ。
午後のプログラム。新人テスト。その後、配属希望ヒアリング。
「配属希望ヒアリング」か。早いな、と昔も思った。
そして――ここで書いた第一希望が、その後の十年を決めた。
俺は失敗した。
「現場志望」と書いた。
結果、火消し専門の便利屋コースだ。
間違いではない。だが、主導権は取れない配置だった。
今ならわかる。
主導権を握るのは、
数字に近い部署。
契約に触れる部署。
投資判断に関わる部署だ。
つまり――審査、法務、リスク管理。
地味で、人気がなく、だが全案件に口を出せる場所。
そこに座れば、未来は全部書き換えられる。
「相良さん」
また声がした。振り向くと田島だ。
「飯、行きません?」
少し迷って、うなずいた。
有能だ。使える――そういう計算が先に出る自分に、少しだけ嫌気が差した。
彼は、救う価値がある。
社員食堂へ向かいながら、田島が言う。
「商社って、世界相手で夢ありますよね」
夢はある。
だが、契約書は夢を見ない。
「数字が読めないと、死ぬぞ」
俺は言った。
「え?」
「為替と与信と責任上限。この三つを外すと、どんな英雄でも飛ぶ」
田島は苦笑した。
「研修の続きみたいですね」
違う。これは遺言だ。
食堂のトレイを取る。メニューも価格も同じだ。懐かしい安さだ。カレーの匂いも変わらなかった。
席に座る。
ざわめきの中で、俺は静かに確信した。
俺はこの会社の未来を知っている。
倒産も。
不祥事も。
裏切りも。
出世も。
失敗案件も。
全部だ。
だから――選べる。
避けられる。
仕掛けられる。
箸を取る。
まずは配属だ。
最初の一手で、盤面を変える。
今回は、便利屋にはならない。
盤面を読む側に回る。
三十年遅れの新人――元・万年火消し課長の俺は、そこでようやく笑った。
ただし――未来は、知った通りには動かない。きっと。
次回予告:
新人テストで叩き出した異例の満点。
騒然とする会場の中で、俺はかつて俺を潰した無能講師・鷹宮を静かに射抜く。




