第2話:目を覚ますと、そこは新人研修会場だった。
目を開けた瞬間、空気が違った。
白い蛍光灯。ざわめく声。固いパイプ椅子。
鼻をくすぐるのは、新品のスーツと紙資料の匂い。
――会議室だ。
いや、違う。この配置、この広さ、この壇上。
新人研修会場。
ゆっくりと自分の手を見る。
皺がない。血管も浮いていない。
握ると、関節が軋まない。
腕を曲げる。軽い。
背筋を伸ばす。痛みがない。
――嘘だろ。
胸元の社員証を裏返した。
相良恒一。新入社員。
写真の顔が、若い。
二十二歳の俺だった。
心臓が一度、大きく鳴った。
鼓動がやけに速い。
スーツの袖口を引く。サイズが合っている。既製品の安物だ。
ああ、そうだ。初任給前に買った吊るしの一着だ。
ポケットを探る。スマートフォンはない。
代わりに出てきたのは、折りたたみ式の携帯電話。
画面は小さく、アンテナが付いている。
電源を入れる。日付を見る。
三十年前だ。
喉の奥が乾いた。
夢なのか。しかし、夢なら、ここまで具体的なはずがない。あまりにもリアルすぎる。
俺は自分の頬をつねった。
痛い。しっかり痛い。
若い体は、容赦なく反応した。
壇上では役員――あの無能講師、鷹宮恒一郎――が話している。
「当社は、挑戦する若者を――」
その顔を、俺は知っている。
十年後、海外子会社の粉飾で辞任する男だ。
間違いない。夢じゃない。
三十年前に戻っている。
隣の席の男が小声で話しかけてきた。
「緊張しますね。配属、どこ希望です?」
名札を見る。
田島。営業志望。
三年目で過労で潰れる男だ。
――営業は地獄だぞ。
思わず口から出かけて、飲み込んだ。
まだ言うべきじゃない。
未来を知っていることは、武器だ。無闇に振り回すものじゃない。
田島は気づかず笑った。
「営業、出世早いらしいですよ。最前線ですし」
ああ。最前線だ。最初に倒れる最前線だ。
この男の運命も、俺は知っている。
今度は、潰させない。
俺は資料に目を落とした。
新規海外案件モデルケース。
懐かしい。忘れるはずがない。
――この契約条文。後に大問題になる雛形だ。
為替変動リスクの条項が甘い。
保証条件が片務的すぎる。
俺は思わず苦笑した。
誰も気付かない。あの当時の俺も気づいてはいなかった。当然だ。新入社員が気づくことではない。
――まだ、誰も。だが、今の俺は――
無能講師、鷹宮が言った。
「では、グループに分かれて、グループごとに、この案件のリスクを三つ挙げてください」
会場がざわつく。
新人たちは必死に資料を読み始めた。
俺は躊躇いなくペンを走らせた。
――為替スライド条項なし。
――供給停止時の代替調達規定なし。
――責任上限が売上基準で無制限。
問題箇所の列記は、三分で終わった。
グループ発表の時間。
新入社員の皆が無難なことを言う中、俺の番が来る。
「致命的なのは三点です」
鷹宮の眉が動いた。
「為替条項が空白。供給断のバックアップ規定なし。責任上限が無制限。このまま契約したら、相手国の通貨危機で即死します」
会場が静まり返った。
鷹宮が資料を見直す。
ページをめくる。その手が止まる。
「……その指摘は、どこで?」
「実務想定です」
嘘は言っていない。
ただし、三十年分の実務経験があってこそ、だ。
鷹宮以外の、壇上の役員が、初めてこちらを見た。
新人を見る目ではなかった。
ざわめきが遅れて広がった。
後ろの席から小声が聞こえる。
「今の、そこまで読むか普通?」
「コンサル経験者とか?」
違う。ただの出戻りだ。
だが、この誤解は悪くない。
講師の鷹宮は、明らかに面白くなさそうな顔をしていた。
予定調和を崩される人間の顔だ。
鷹宮は笑っていた。だが、目は笑っていなかった。
覚えておこう。
この男は、組織内政治だけは異常に上手い男だ。用心に越したことはない。あの三十年で、嫌というほど学んだ。
しかし――
面白い。
同じ会社。
同じ舞台。
そして、俺の手札はまるで違う。「三十年分の実務経験」は伊達ではない。
俺はペンを回した。
――今度は、先に打つ。
初手は、悪くない。
ただし――未来が必ず同じとは限らない。
俺は、気を引き締めるのだった。
次回予告:
会社を救うには、まず主導権を握る場所へ。
地味だが全案件に口を出せる「審査部」への配属を狙い、盤面を操作し始める。




