第11話:後輩白石を救う。
異変に気づいたのは、昼過ぎだった。
審査部のフロアは、いつも通り静かだ。キーボードの音と紙をめくる音だけが、規則正しく流れている。
だが、ひとつだけ、空気に引っかかる動きがあった。
斜め前の席。今年四月入社の後輩――白石美咲。
画面を見つめたまま、何度も同じ箇所で手が止まっている。
マウスを動かしかけては止め、カーソルが宙を彷徨う。
顔色が、はっきりと悪い。
――来たな。
三十年前、この部署で実際に起きた事故。
新人が一度だけ踏む、致命的な落とし穴。
原因は単純だ。帳票の注釈が古く、例外処理が更新されていない。
表面上は正しく見える。数値も合っている。
だが、そのまま通せば――後工程で必ず破綻する。
当時は止められなかった。
いや、止められるだけの知識も、立場もなかった。
今回は違う。
俺は、席を立たずに、まずチャットを打った。
係長宛てに短く。
『この案件、念のため全体確認します』
次に、別ウィンドウで過去案件を呼び出す。
同じ形式。
同じ条文。
同じ損失。
数字は揃っている。十分だ。
そのとき、白石が椅子を引いた。
報告に行くつもりだろう。
その背中は、明らかに覚悟を決めた人間のものだった。
「白石さん」
声をかけると、彼女はびくりと肩を跳ねさせた。
「その案件、一回、止めよう」
「え……?」
白石の目が泳ぐ。
「でも、数値は全部……合ってて……」
「合ってる。だから危ない」
俺は彼女の席に近づき、画面を指差した。
「ここ。この注釈、最後まで読んだ?」
「……“原則として”って……」
「その下。更新日、五年前だ」
白石の呼吸が、一瞬止まった。
「この案件、例外処理が必須なんだ。表に出てないだけで、通すと必ず差し戻される」
「で、でも、それって……私の確認不足じゃ……」
「違う」
俺は、はっきり言った。
「これは個人のミスじゃない。仕組みの問題だ」
すでに裏は取ってある。
俺は係長と課長を呼び、簡潔に説明した。
過去の損失例。
現在の帳票との齟齬。
このまま進めた場合の想定影響。
「……つまり」
課長が資料を見ながら唸る。
「白石の判断は、形式上は正しい。だが、制度が追いついていない、と」
「はい。この帳票は、更新すべきです。新人が踏む前提の地雷になっている」
沈黙が落ちた。
やがて、係長が深く息を吐く。
「……危なかったな」
課長が白石を見る。
「今回は君の責任じゃない。むしろ、よく止まった」
白石の目が潤み、慌てて俯いた。
会議が終わり、フロアに戻る途中。白石が小走りで追ってきた。
「相良さん……」
声が震えている。
「ありがとうございました。私、もしあのまま……」
「気にしなくていい」
歩きながら、俺は言った。
「誰でも一度は引っかかる。問題は、人じゃなくて仕組みだ」
彼女は、深く頭を下げた。
「……これから、分からないことがあったら、相談してもいいですか?」
「もちろん」
それだけで十分だ。
背後から、静かな視線を感じる。
早見だった。
その目に宿る温度が、これまでと少し違う。
信頼は、一度で生まれるものじゃない。
だが――恐怖から救われた記憶は、簡単には消えない。
三十年遅れの新人――元・万年火消し課長。その俺は今日も、炎が上がる前に水を撒っただけだ。
それでも。
気づけば俺の周りに、静かに人が集まり始めていた。
次回予告:
終わらない残業は、仕事ではなく罪だ。
定時退社を勝ち取った審査部に、社内中から羨望と驚愕の視線が注がれる。




