第1話:定年退職の日に倒れた俺。
その日、俺――相良恒一、大手商社の「火消し屋」と呼ばれた万年課長――は、定年退職の日を迎えた。
「長年、補佐役として支えてくれました。ありがとうございました」
そう言って、俺に花束を渡す新人社員は、屈託のない笑顔だった。その顔は、俺に対して、嘘偽りのない表情に見えた。
新人から、花束を受け取る。
拍手はあった。
だが、誰も俺の仕事の話はしなかった。
送辞はテンプレだった。
挨拶をしようと、皆に向き合おうとした時、眩暈を感じて倒れた。
最後の最後、定年退職の祝いの場で、それは起きた。
足元がおぼつかない。目の前がチカチカする。頭がクラクラする。
「課長!相良課長!大丈夫ですか!」
ふらつく俺に向かって、新人社員が声をかけてきた。しかし、それは、徐々に遠くなってきた。やがてその声は聞こえなくなった。
目の前が、真っ暗になった。自分が立っているのかすらどうかもわからなくなった。
暗闇の中で、昔の思い出が蘇ってきた。
俺が締結してきた5億円の商談を、部長に横取りされた。契約内容を何一つわかっていなかった部長は、成果だけを俺からとりあげ、それ以外の実務の全てを、俺に押し付けた。
会議室で部長は笑っていた。
「今回の大型契約は、私が全体設計を主導しました」
その資料は、前日の深夜三時まで俺が作ったものだった。
資料に、俺の名前は、どこにもなかった。
その成果に対する俺の評価は、ほぼゼロに等しかった。手伝ってくれた、俺の部下の評価も同様だった。
撤退寸前プロジェクトを救った。これが、俺が「火消し屋」と呼ばれるようになったことだった。
三週間で破綻寸前だった海外案件。
違約金は十億。責任者は全員逃げた。
俺一人で契約を組み替え、損失を三千万まで圧縮した。
それもまた、何もせず眺めていただけの部長に、その成果を横取りにされた。誰とも交渉せず、事態の改善にも動かず、ただ眺めていただけの部長が、「炎上案件を解決した」ことにより、昇進した。
俺に対する社内評価は、全くなかった。ただ、炎上案件に関わっていた部下から感謝されるのみだった。
無能なだけの役職の問題点を明記し、役員へと訴えた。明らかに、会社への背信行為だった。その全てが握りつぶされた。「課長如きが、こんなことを言うんじゃない」役員の言葉は、ただそれだけだった。俺の昇進の道は、それで潰された。
将来有望な新人を、ただただ使い捨てるだけの役職がいた。病気になって休職するものも出た。彼らをその役職の下から引き離し、俺の部下とした。部下からは感謝された。俺の下で伸び伸びと育っていった。その行動も、人事役員から、こう言われた。「君の行為は、余計なことだったよ。彼らの道を潰すとはね」
この言葉により、彼らの昇進の道が失われてしまった。俺はどうすべきだったのだろう。
思い出すたびに腹が立つ。後悔だらけの「社会人生活」だった。俺は一体、何をしていたのか。俺の判断は、間違いばかりだったのか。
もし、あの時、黙らなければ。
もし、あの時、証拠を揃えていれば。
もし、あの時、数字で殴り返していれば。
言い訳はいくらでも浮かぶ。だが結局、全部できたはずのことだ。
俺には知識も経験もあった。ただ、使い方を間違えただけだ。
俺の最期の走馬灯は、こんなにも後悔に満ち溢れているものに過ぎないのか。
今ならわかる。
あの契約の落とし穴も、あの法改正の抜け道も、あの粉飾の前兆も。
全部、知っている。
三十年分の失敗も、現場も、交渉も、数字も、全部だ。
新人だった頃の俺とは、持っている手札が違いすぎる。
「もし、もう一度やり直せるなら――」
そう願った時、目の前が光に溢れた。
俺は、その光に、迷わず飛び込んだ。
――今度こそ。今度こそ俺は、二度と間違えない。間違えるもんか。今度は数字でねじ伏せてやる。
次回予告:
目を覚ますと、そこは三十年前の新人研修会場だった。
若返った肉体と、老獪な経験を武器に、俺の逆転劇が幕を明ける。




