第3話「スミレ荘の夜と、ログに残らないもの」
「はい、ここがあんたのベッド。あんまり音立てないようにね」
木造の階段をギシギシと登り、薄暗い廊下の突き当たり。
雑居宿《スミレ荘》の大部屋には、五つのベッドが並んでいた。
「宿帳に名前、書いといて。“ゆう”でいいの?」
「……はい」
「じゃ、今夜は銅貨2枚、前払いで。昨日は初回無料だったからね」
俺は黙って銅貨を渡す。手のひらが少し汗ばんでいた。
【宿泊ログ:銅貨2枚支払い】
【所持金:銅貨4 → 銅貨2】
(残り、たった2枚……)
「夜は財布、枕の下にね。今は静かだけど、夜になると……ね」
女将のエミリアさんは、帳場の帳簿に名前を書き込みながら、ちらりと俺を見た。
「……この目、旅人の目じゃないね。道に迷ってる、そんな顔だ」
「……そう見えますか?」
「うん。初めて来た人は、皆そういう顔をするのさ。
スミレ荘に泊まる人はね、大事なものをなくした後に来るのが決まりなの」
言い残して、エミリアさんは帳場に戻っていった。
(大事なもの……)
ローブの袖口を握りながら、俺は二階の大部屋に入った。
部屋にはすでに、他の宿泊客が三人いた。
若い冒険者らしき男が片手剣の手入れをしていて、
中年の商人風の男はくたびれた靴下を窓辺に干している。
(……ちょっと臭いな)
空いていた奥のベッドに腰を下ろすと、木製の枠がギシリと鳴った。
布団は薄くて、藁の感触が背中にごりごり当たる。
(ゲームのときは、泊まったら画面が暗転して、それで終わりだったのに)
今は、ベッドの硬さも、埃っぽさも、寝息の音も、すべてが“現実”だ。
【UIログ:現在位置《スミレ荘・2階大部屋》】
【所持品確認:焼きたてパン×3/銅貨×2】
【インベントリ残容量:∞】
UIは相変わらず淡々としていて、こちらの不安や戸惑いには一切反応しない。
(……寝たらスキップされるんじゃないのか……?)
……けれど、夜は暗転せず、こうして静かに続いている。
いびき、寝返り、布団のきしみ。
目を閉じても、現実は終わらない。
(このウィンドウは、俺の感情をログには残さないんだな……)
財布の袋を枕の下に差し込み、横になろうとしたとき。
「初めてか?」
声をかけてきたのは、斜め向かいの白髪まじりの老人だった。
「え、あ……はい。今日から泊まります」
「布団が硬くて腰痛めるぞ。寝返りは多めに打てよ」
「あ、ありがとうございます……」
「明日朝飯いるなら、銅貨1枚で小皿出してくれる。女将に言っておけ」
「わかりました」
短いやり取り。それでも、ほんの少しだけ“安心”が増した気がした。
――夜。
(……ん?)
ギシ、ギシ……
誰かが廊下を歩く音で目が覚めた。
音は、ゆっくりと、でも確かにこちらに近づいてくる。
(……この時間に?)
部屋の中は真っ暗だが、俺の感覚だけが妙に冴えていた。
キィィ……
木の扉が、わずかに軋む音。
(……誰か、そこに?)
それきり、物音はやんだ。
扉は開かなかったし、誰の気配も感じなかった。
けれど、それが“気のせい”だとは思えなかった。
しばらくしてから、また別の物音――
「ぽたっ、ぽたっ」と何かが滴るような音が、廊下に響いた。
翌朝、そっと扉を開けてみると、
廊下の床に小さな泥の跡があった。
水のしずくと、かすかに湿った足跡。
(……本当に、誰か来てたんだ)
「おはようさん。……なんか眠そうな顔してるね?」
エミリアがカウンター越しに声をかけてくる。
「昨日の夜、誰か……通りました?」
「さあ? 私はぐっすりだったけどね。
……でもまあ、スミレ荘には時々そういう“お客さん”も来るよ」
彼女はにこりと笑って、銅貨を数えていた。
【UIログ:06:00 朝の鐘が鳴りました】
【クエストログ:なし】
ログには何も残らない。
“あの足音”も、“泥の跡”も。
でも、それが現実じゃないなんて、もう思えなかった。
(この世界には、UIに映らない“何か”がある)
パンをかじりながら、俺は静かに確信する。
――そして、それはのちに起こる事件の、確かな前兆だった。
1章は16部構成にしています。とりあえず1日にはずつ更新していくつもりです。