ラピスラズリ
昔、偶然足を踏み入れた雑貨屋で、ラピスラズリを見たことがある。
俺はそれまで、宝石はすべてダイヤモンドのように、透明で鮮やかな色をしているものだと思っていた。
けれど、初めて見たそれは思っていたよりもずっと不透明で、深い深い青をしていた。
あの日から、俺にとっての“ラピスラズリ”はそういうものになった。
活気にあふれる人々の喧騒。
涼しさなんてかけらも感じない、生暖かな夜風。
花火大会という空気に溶け込んでいた俺は、ふと夜空を見上げて“ラピスラズリ”のことを思い出していた。
“ラピスラズリ”の空には、いくつもの小さな花が咲いては枯れるのを繰り返している。
けれど、人の慣れとは怖いもので、最初の何十発かを目にした後にはもう、俺の中で生まれる感動というものは薄くなってしまっていた。
「二人、遅いね」
何とも言えない雰囲気に耐え切れなくなったのだろうか。篠原は間の空白を埋めるように口を開いた。
「ね。もしかしたら、最初からこういうつもりだったのかも」
「確かに。雰囲気良さそうだったしね」
会場に集まった時、俺たちは四人だった。
けれど、俺と篠原以外の二人は、花火大会が始まる前に買い出しに行ってくるといなくなってから、ずっと姿を見せていない。
お陰様で、四人用のブルーシートの上は二人きりだ。
手が届きそうで届かない距離。
それが、今の俺と篠原の関係を表しているように思えた。
「そういえばさ、さっきからなんで目を合わせてくれないの?」
「見てわかるだろ。花火見てるんだよ」
「そっか。私、もう飽きてきちゃってるんだよね」
「もったいない。次の夏まで見れないかもしれないんだぞ」
「でもさ~」
と言ってみたが、内心は違った。
篠原がショートパンツで体育座りなんてしてるから、そっちを見た時の目線に困るんだ。
「わかった。じゃあ、遠藤は花火見ながらでいいからさ、何か話そうよ」
「それはいいけど、何を?」
「そうだ。夏休みの課題、どこまで終わってる?」
「まだ全然。なんなら、何があるのかも把握してない」
「いいね。むしろ清々しいじゃん」
「篠原は?」
「私は数学の問題集だけが終わってるよ」
「なるほど。数学から手に付けるタイプか」
「うん。数学好きだからね」
「へ~、そうだったのか。知らんかった」
「この前の期末なんて、実は私学年三位だったんだよ?」
「マジ? すごいじゃん」
嘘だ。数学が得意なことなんて、ずっと前から知っている。
本当は期末テストの前にも「教えてくれよ」って、何度も言おうとした。
でも、言えなかった。
「そういえば、遠藤ってペット飼ってる?」
「ううん。飼ってない。うち、父親が猫アレルギーで、母親が犬アレルギーなんだ」
「ええっ、何それ。どっちも飼えないじゃん」
「ほんとだよ。だから、今までペットを飼った経験がないんだ。篠原は?」
「うちは飼ってるよ。ポチって言うんだけど」
「へ~、犬?」
「猫だよ。犬だと思ったでしょ。色の具合がね、凄い柴犬っぽいんだ。後で写真見せてあげる。可愛いんだよ?」
「わかった。楽しみにしとくよ」
これも嘘。ポチって名前の猫を飼ってることなんて、ずっと前から知っている。
篠原がよく教室で別の女子と話しているのを耳にするから。
それでも、俺は知らないふりをした。
そうすれば、少しでも長く話を続けられると思った。
やがて、篠原も話題に困り始めたのだろうか。辺りから聞こえてくるガヤガヤとした歓声が、やけに耳に残るようになった。
“ラピスラズリ”の空には、未だに花が咲き続けている。まだまだ、終わる気配はなさそうだ。
ふと、俺は静かになった隣が気になって、ちらりと篠原を横目で見た。
彼女はどうやら、飽きたと言っていた花火を再び眺めているようだった。
別に今は盛り上がっているわけじゃない。言ってしまえば、幕間のような時間だ。本格的に、俺との話題に困っているのかもしれない。
なんて考えていると、俺は突然、息が詰まるような想いに晒された。
篠原の横顔が、花火の放つ淡い光にぼんやりと照らされる。
それがどうも、俺の胸を締め付ける。
彼女から、目を離すことが出来なかった。
「遠藤ってさ、高校卒業したらどうする?」
「――――えっ。どうしたん、急に。俺らまだ二年じゃん」
突然話しかけられたことに、俺はビクッと心臓を跳ねさせながら、けれども冷静を装って答えた。
彼女の視線は、未だに夜空の中にあった。
「うちの高校の卒業生って大体が進学だけど、たまに就職する人も居るじゃん? 遠藤はどうするのかなって」
「就職か~。俺にはまだハードルが高い気がする」
「どうして?」
「どうしてって、やりたいことがまだないから。とりあえず大学行って、色んな経験をしたら、また何か見つかるかもしれないなって」
「そっかそっか」
「で、そういう篠原は?」
「私はね~、星に関わる人になりたいんだ」
「えっ、星?」
俺の口からは、随分と間の抜けた声が出た。
「星がさ、小さい頃からずっと好きだったんだよね。なんか恥ずかしくて、誰にも言い出せなかったんだけど」
「へ~。じゃあ、天文学者とかなりたいの?」
「うん。本当は星に関われる職業ならなんでもいいんだけどね。プラネタリウムの職員さんとか。だけど、今のところの第一志望は学者」
「そうなんだ。でも、学者って言うほどなんだから、沢山勉強しないといけないんじゃないのか? そもそも、理系の学部に入るのだって大変らしいじゃん」
「それは覚悟してるよ。でも、私は理数科目が大好きだしね。今からコツコツやっていけば、何とかなると思ってるんだ」
「そっか。なるほどね」
俺はそれだけを呟くと、篠原と同じように夜空を見上げた。
喉に突っかかった、「応援してるよ」という言葉はもう消えていた。
思っていない訳じゃない。
夢に向かって頑張る人をバカにするほど、自分が捻くれているとも思ってない。
ただ、それを口にしてしまったのなら。
篠原は、どこか遠くへ行ってしまうような気がした。
俺の手の届かないところへ。
――――ドンッ。
突如、鳴り響いた爆発音が夜を震わせる。
夜空のキャンバスに描かれたのは、一輪の花。
月よりも遥かに大きい、火の花だった。
辺りから、多くの感嘆の声が上がる。
けれども、火の花の命は一瞬。
息をつく間もなく、静かにキャンバスの上で萎れていった。
「結局、二人帰ってこなかったな」
俺の言葉に、篠原からの返答は帰ってこない。
そちらに視線を向けてみれば、彼女はまるで吸い込まれるように、花火の消えた夜空を見つめていた。
彼女の深い瞳に似たものを、俺はどこかで見た覚えがある。
そうだ。いつか見た恋愛ドラマで、女優が演じていた恋の眼差しだ。
彼女は花火の残り香なんかよりも、もっと奥にあるものを見ている。
一体、何を?
俺も再び空を見上げてみると、答えはすぐに見つかった。
夜空に浮かぶ、三つの小さな点。
ベガ、アルタイル、デネブ。
夏の大三角。
篠原は最後の花火が消えた夜空に、それを見つけていたのだ。
彼女は、“ラピスラズリ”の空に恋をしていた。
不透明に見える俺とは違って、きっと彼女は透明な空を見ている。
そして、彼女はこれから、あの空の先にあるものに手を伸ばそうとしているのだ。
――――今の俺には、届かねぇって。
「篠原」
「あっ、ごめん。ぼーっとしちゃってた。どうしたの?」
「さっき、言いそびれたことがあったんだ」
「えっ、何?」
キョトンとした顔を見せる篠原。
だから、俺は大きく息を吸って、はっきりと言ってやった。
「俺、お前の夢、応援してるから!」
俺の言葉に、篠原がクシャっとした顔でほほ笑んだ。
それは俺が今まで見たどんなものよりも、透明で鮮やかな色をしていた。