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可能性の扉

作者: 来島セツナ

可能性の扉の前に、男が立っている。


これは決して比喩表現などではない。

実際に、彼の前には物体としての扉が存在しているのだ。


彼は、それを開けてしまうことの危険性を十分に理解している。

しかしどうしても、濁流のように溢れ出る仄暗い好奇心を抑えることができなかった。

冷や汗を額に浮かべながら、生唾を飲み込んで、彼はおそるおそる、その取っ手を持った。



美しい夏の風景だった。

透き通るような青空に浮かぶ、もくもくと立ち上がった巨大な入道雲。

日光を反射してきらきらと輝く、静やかな大海原。

陽だまりになった、背の低いコンクリートの防波堤。

野良猫がそこいらであくびをするような、とても穏やかな昼下がりだ。


――そんな可能性の世界が、彼の前に映し出された。

扉の長方形が、ちょうどスクリーンの役割を果たしているように見える。


足を踏み入れることが叶わないだけで、向こう側とこちら側とは地続きの世界になっているようで。

つまりは五感的な要素――セミの鳴き声や波のさざめき、かすかに潮の匂いを含んだ夏風の生ぬるさといったようなことさえも、扉越しに感じることができるわけだ。

その没入感の凄まじさは、想像に難くないだろう。


彼は、我を忘れてその光景に見とれてしまっていたことに、はたと気が付く。

すると同時に、彼の脳内には、あるひとつの疑問が浮かび上がってきた。


これまで一度も見たことがないはずの景色を前にして、どうしてこんなにも懐かしくて切ない気持ちになってしまうのだろう?



世界の風景はシームレスに移り変わる。

そして彼は、可能性に対して一目惚れをしてしまう。


水色のセーラー服を着た少女だった。


触れたら汚れてしまいそうなほどに色白なところも。

風に乗って飛んでいってしまいそうなくらい華奢なところも。

退屈そうで、ほんのちょっぴり憂いを含んだ目をしているところも。


少女の全部が、彼にとっての百パーセントだった。

運命の相手というのは、つまりこういう人のことを言うんだなと彼は直感した……ひとりよがりすぎるけど。


少女は細い防波堤の上を、まるで舞を舞うみたいに無邪気に渡っている。

こつんこつんと、ローファーを軽やかに鳴らしながら。

当人は涼しげだったけれど、傍から見れば相当危なげだった。


もし海へ落ちてしまったらどうしよう。


そう思うと彼は途端にたまらなくなって、衝動的に少女の方へと駆け寄ろうとしてしまう。


――もちろんそれは叶わない。


だってこれは、あくまで可能性に過ぎないのだから。



あぶないよ、と声がする。

奇しくも彼がやろうとしたのと同じように、ある青年が背後から少女へと近づいていった。


振り向きざまに、彼女の左薬指が一瞬きらめいた。

そして、青年の顔を見るや否や、少女は全幅の愛情を含ませた甘やかな表情を浮かべたのだった。


彼の胸は、これ以上ないくらいにざわめきだした。


一瞬にして、彼は何もかもが自分の思い通りにいかないことを思い知らされたからだ。

失望と嫉妬の念を込めて、彼は青年の方を凝視した。

それはもう、ほとんど睨みつけるような感じで。


顔色が良くて、ほどよく筋肉のついた、心身ともに健康そうな模範的な好青年だった。


浮かない顔をしていて、頬のこけた、心身ともに不健康そうな反面教師的悪青年である彼とは、大違いだった。


少女と青年が交わす笑顔の眩しさにいたたまれなくなった彼は、はじかれたように勢いよく扉を閉めてしまう。


閉め切った扉に寄りかかり、うなだれるような様子で、彼は考える。


日向と日影。

あちら側とこちら側。

天国と地獄。


彼は無意識下で、青年と自身の在り方の差を、どうしてもそんな言葉を使って規定してしまう。

そしてその度に、彼は、劣等感で脳内が犯されていくのを強く感じた。


――しかし。

全身全霊をもって、魂とも呼ぶべき部分で、彼はそれを理解してしまうのだ。


あの青年は、他でも無い、彼自身なのだということを。



《可能性の扉》

選ばれなかった無数の選択肢の先にある、IFの集約点。

その人の人生においてありえたかもしれない《可能性(もしも)》を克明に観測させる装置としての扉だ。

簡単に言うなら、現在とは別の世界線での自分を見て楽しむためのマシン、ということになるのだろう。


金で買えるすべてを手に入れたどこかのお偉いさんが、それでも埋まらない心の奥の隙間をどうにかするために、世界一有能な発明家に作らせたとかなんとかというのが、その始まりだそうだ。


限りなく現実に近い空想の世界をまざまざと映し出してくれる扉は、取り返しようがないことへの後悔をいつまで経ってもやめられないようなだめなやつらの間で、急速に広まった。


彼もそのうちのひとりだったわけだ。


《可能性の扉》が見せる世界は限界を知らない。

人によって千差万別で、十人十色。

朝寝坊をしなかった世界から、夜終末を迎えてしまった世界まで。

使用者が理想とするパラレルワールドをなんでも見せてくれる。


では、彼が夢見た《もしも》は一体なんだったのか?


それは、《もしも正しく生きることができたなら》。



彼は大きく深呼吸をする。

そうしてもう一度、ゆっくりとした動作で扉を開いた。


斜陽に染まった世界で、ゆらゆらとゆらめくふたつの影。

少女と青年――《彼》は、互いにぎゅっと指を絡め合わせ、もう片手にはお揃いでサイダーを携えている。

ふたりの耽美な時間に色を添えるように、声高に鳴く夏虫たち。


可能性の世界にふたりが揃うことで、ついに夏の風景が、完全なものへと変化したように思われた。


目を細めつつ、地平線に消えてゆくふたりの背中を見守り続ける彼。

猫背なところとか、首筋を頻繁に触ってしまうところとか。

次第にそういう癖が見えてくる度に、《彼》は本当に自分が取り得た可能性のうちのひとつなのだと、ますます納得がいく。

間違った(じぶん)と正しい《彼》。


いったいどこで、ここまでの差が開いてしまったのだろうか?


――思い当たる節はいくつもあった。


どうすれば自分もあちら側にいけたのだろうか?


――いくら頭を働かせても、その答えは出てきそうにない。


そうして、あれこれ考えるのが億劫になった彼は、ゆっくりと、可能性の扉を閉ざしてしまったのだった。


せめて可能性の中だけでも、ふたりがいつまでもしあわせであることを、切に願いながら。        


ある女が、可能性の扉を使い終えてから、何気なく思う。


例えば、5月の晴れたうららかな朝に。

なんてことはない、商店街の路地裏で。

扉の外にいる彼とふと出会うなんて可能性は、まだ、ありえるのかもしれない。

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