八話
「えっ? セオドア陛下がお風邪をひいた? それは大変ね。大丈夫なのかしら」
ラングレー皇国に来て一か月近くが経ったある日、悠々自適に暮らしていたルビーは久しぶりに『夫』のことを思い出していた。
エマによると怪我以外でセオドアが体調を崩すのは初めてのことで、城内には動揺が広がっているという。
「陛下は即位するまで騎士団長をお務めになっており、随一の屈強さを誇っておられました。近ごろは明け方まで執務室に灯りがついていたそうですから、ご無理されたのかもしれません」
「お仕事が忙しかったのね。離宮には情報が入ってこないから、呑気にしていてなんだか申し訳ない気持ちだわ」
忙しい理由の張本人はセオドアの気苦労を知らない。
日々眷属のマイケルやブラッキーたちと遊び、畑を耕し、三食しっかり食べてたっぷり寝るという充実した暮らしを送っていた。
音沙汰がないからすっかり忘れていたけど、この素晴らしい暮らしはセオドアが提供してくれているものだった。お礼を兼ねてお見舞いに行くことを思いつく。
「ちょうど畑の野菜が収穫どきなの。裏の森に野苺のようなものもあったし、なにか差し入れのお料理を持って行きましょう」
「ルビー様が陛下のお見舞いに?」
「ええ。この国に着いたときに少しお話ししただけで、まだきちんとしたご挨拶ができていなかったしね。ああ、もちろん具合の悪い時に会いたいということではないわ。お手紙と軽く食べられるもの用意するから、お渡ししてもらえると助かるわ」
「左様ですか……」
ルビーの城内の立場は相変わらず微妙なものではあるが、一応本物の王女だったという事実は使用人の間にも広まっていた。形式上はいちおうセオドアの妻ということにもなっているし、夫の見舞いをしたいというのを止められる者はいない。
「塔に移る前はお料理が好きだったの。よくお母様とお菓子を作ったものだわ。こう見えて腕には自信があるのよ」
ルビーはワンピースの袖をまくり上げて畑へ向かう。食べごろの野菜や果実を収穫し、埃をかぶった離宮の厨房へ向かう。森の野苺は有毒だったので解毒済みだ。
「……まずはここを掃除する必要がありそうね」
「申し訳ありません。食事は都度城から運んできておりまして、まだ手入れが行き届いておらず……」
「いえ、いいのよ。エマ一人で身の回りのことをしてくれているのだから、手が回らなくて当然だわ!」
屈託のない笑顔をみせるルビー。箒や雑巾を持ち出してきて、さっそく掃除に取り組み始める。
その一生懸命な姿を見てエマは胸が苦しくなった。
(本物の王女様なのに、ルビー様はどこまでも真っ直ぐで素直なお方だわ。こんなわたくしのことも気遣ってくださって。偽者だと蔑んで取り合ってこなかったのは、大きな間違いだった)
これまでも親切にしてもらっていたのに、「どうせ偽者なんだから」「自分はハズレの仕事を押し付けられている」という感覚が抜けきらなかったエマ。けれども今、それらの感情はすべて消え去り、この人に誠心誠意仕えたいという思いで塗り替えられていた。
無言で自分も雑巾を取り、床を拭き始める。
「あら? エマ、いいのよ。これはわたしの用事だから、あなたは自分の仕事に行ってちょうだい」
「……仕事なんて、ないんです」
「えっ? どういうこと?」
ルビーは掃除の手を止めて首をかしげた。
エマは床を拭く腕に力をこめる。
「メイドが一人だから仕事が忙しいなんて嘘です。ルビー様にお仕えしてもメリットがないと思って、見えないところでずっと休憩してました。本当に申し訳ございません」
ルビーからの返事はない。
エマはずんと心の奥底が重くなるのを感じて、ひたすら下を向いて床をこすり続ける。
「わたくしが愚かでした。今更こんなことを言っても償いになりませんが、これからは心からお仕えいたします――」
と、エマは温かいもので包まれた。
自分を抱きしめるルビーだった。
「教えてくれてありがとう。そんなこと気にしなくていいのよ。わたしはここに来るまでマイケルたちしか話し相手がいなかったから、エマと毎日おしゃべりできるだけで嬉しかったもの。この国の話とか、街の珍しいものの話とか、すべてが新鮮で驚きにあふれていたわ」
「ルビー様……」
「メイドの仕事なんてしなくたっていい。いつでも休憩していいの。でも、わたしの側にいてくれない? あなたといると楽しいから」
エマの両目にはみるみる涙が盛り上がる。
貧しい大家族の長女であるエマは誰かに優しくされたことがなかった。自分がしっかりしなきゃと毎日焦るように生きてきて、ろくに働かず子供ばかり作る両親に代わって幼いきょうだいの面倒を見てきた。
(ルビー様は、こんなわたくしでも側にいてほしいと……。裏切っていたのに責めもせず……)
自分は一生この人に着いていこう。
たとえこの先ラングレー皇国を離れることになってしまっても、どこまでもお供して力になりたいと思った。
「ごめんなさい。ルビー様。ごめんなさい……」
「あらあらエマったら! 泣かないで。可愛いお顔が台無しじゃない!」
泣き崩れるエマを、ルビーはしっかり抱き支えた。
二人が掃除を終えるころには、すっかり外は暗くなっていたのだった。