六十一話
城門まで二人を見送りに出た魔王は、まじまじとルビーを見つめておもむろに腰を抱き寄せた。高貴な芸術品のように整った顔を耳に寄せ、うっそりと囁く。
「オレは心底そなたが気に入った。番にしたいというのは本音だ。番になればオレの心も冥府のすべてもそなたの思うがまま。あの男に飽きたらいつでもここに来い」
「おい、妻に何をしている」
セオドアが鬼の形相で割って入るが、魔王はふてぶてしく腰を抱いたままだ。
「貴様に飽きたら嫁に来いと伝えただけだ。オレのほうがよほどいい男だからと」
「まだ言っているのか。心配せずとも俺が幸せにする」
「――まあいい。無理やり手に入れるのはオレの趣味ではないから、気長に待つとしよう」
かつて力ずくで炎の大聖女を手に入れようとした父は失敗し、破滅の道を歩むことになった。あれは激しい恋情だったのか憎しみだったのか真実は闇の中だが、同じ轍は踏まないと魔王は心に決めていた。運命の番であれば、自然と縁は結ばれるはずだから。
「魔王様。わたしはセオドア陛下のことを心から愛しています。申し訳ありませんが嫁ぐことはできません」
「人間の気持ちなどすぐ移ろうものだ。その点オレは一途だぞ? 毎日たっぷり可愛がってやるし、そなたの望みならなんでも叶えてやれる」
「嘘をつけ。炊き出しに来ていたメドゥーサに囲まれて嬉しそうにしていただろう」
「貴様は民に微笑みを向けないのか? 見るからに愛想のない男だから、表情筋というものが欠如しているのだろう」
「俺の民は微笑みなどなくともわかってくれている。無駄に色目を使う王より百倍マシだ」
言い合うセオドアと魔王を前にして、ルビーはぷっと吹き出した。
「なんだかお二人は気が合うようですね。これから良き隣国として仲良くやっていけそうです」
「大聖女は貴様と違って視野が広い。もちろん、訪問は歓迎する。オレも人間界に興味がある」
人間との抗争の末に死んだ父のこともあり、数百年間特にやることもなく魔王城に引きこもっていた。しかし人間とは感情がコロコロ変わる面白い生き物だということを思い出し、外に出てみるのも楽しそうだと思った。
セオドアは苦い顔をしながらも頷いた。
「皇帝としては、冥府と和平を結ぶことはやぶさかでない。また困ったことがあれば連絡してくれ」
「わたしの毒が必要になったら、いつでも駆けつけますからね。冥府は可愛い眷属たちの故郷でもありますから」
「ああ」
魔王は愛おしそうにルビーを抱きしめる。セオドアに身体を引き剥がされると唇を尖らせたが、素直に身を離した。
ふたりはブラッキーの背に乗り、冥府に別れを告げる。
「ではまた! 魔王様もお元気で!」
ダークドラゴンが一つ羽ばたくごとに地上が離れてゆく。およそ一日しか滞在していないのに、ルビーは離れがたい寂しさを感じていた。
(きっとまた来よう。わたしが猛毒を持つからなのか、この地はなんだか特別な感じがする)
あっという間に魔王城も黒い森も小さくなる。空を切り、洞窟を抜け、湖までたどり着き。長い闇の奥に見える光がどんどん迫ってくる。
冥府の入口から飛び出すと、わあっと大きな歓声に包まれた。
「セオドア陛下! ルビー殿下!」「ご無事でお戻りだ!」「出迎えの準備を!」
元の世界に戻ってきたことに胸を撫で下ろす。地上の騎士たちは両手を挙げて歓喜し、倒れ込んでむせび泣く者もいた。アーノルドもげっそりしているが元気そうだ。そんな姿を一つ一つ見下ろしていると熱いものがこみ上げてくる。
「戻ってきましたね。わたしたちの国に」
「ようやくだ。ラングレーの歴史は今日から大きく動くだろう」
ふたりは砦の上空を旋回するブラッキーの背で感極まる。顔を見合わせて微笑みあい、そっとキスを交わしたのだった。
次が最終話です。