六十話(後)
その晩――と言っても冥府には朝も夜もないので時刻だけの話だが――魔王城では『大聖女特製☆栄養たっぷり猛毒スムージー』の無料配布が行われた。
冥府に棲む魔物にとっては良質な毒こそ栄養。城には食糧危機で飢えていた魔物たちで長蛇の列ができた。
眷属でない魔物の言うことは流石にわからないが、ペコリと頭を下げるサラマンダーや、握手を求めるサイクロプス、幼児を抱いて涙を浮かべる母ゴブリンなどからは感謝してくれている気持ちが伝わってきた。ルビーは疲労困憊だったが、これ以上無い充足感を覚えていた。
(冥府は人間の敵なんかじゃなかったわ。わたしたちは、きっと上手くやっていける)
朝まで続いた配布が終わると、魔王がアクアマリンを小突きながらやってきた。
「猛毒の大聖女よ、感謝する。約束通りこの女はそなたのものだ。性根は最悪だし天星も使い物にならないほど消耗しているが、召使くらいにはなるだろう」
「ありがとうございます。アクアマリン、ご迷惑をおかけしたことを謝りなさい。一緒に帰りましょう」
ルビーが妹に触れようとすると、アクアマリンは弱々しくも抵抗した。
「わたくしは何も悪くない! 全部お姉様が悪いのに、なぜ謝らなければいけないの!」
「まだそんなことを言っているの? 勝ち負けなんて最初から無いのよ」
「嘘よ! 勝ったと思っているから余裕でいられるんでしょう! わたくしはあんたに助けられたなんて認めてない。帰らないわ!」
「アクアマリン……」
幾度も手を差し伸べてきたつもりでいた。それがたった二人の姉妹の絆であり、当たり前のことだと思っていたから。
けれども妹には何も伝わっていなかった。それどころか『ずっと嫌だった。疎ましかった』と思われていた。
(――支え合いだと思っていたけど、かえってアクアマリンの自尊心を傷つけていたのかしら? 大丈夫だと言ったら大丈夫で、帰らないというのも強がりではなく本心から言っているのかも。……ここは一度信じてみるべきなのかもしれないわ)
ルビーは気を揉みながらも、最後の一回と決めて再び問いかける。
「最後にもう一度だけ聞くけど、本当にいいのね? わたしはもう、陛下と一緒に帰るわよ?」
「しつこいわねっ。帰らないと言っているじゃない。人にものを頼むときはもっと――」
「陛下。残念ですが、妹は自分の意志で冥府に残るそうです。わたしたちだけで戻りましょう」
眉を下げたルビーがセオドアの方を向くと、アクアマリンは虚を突かれた顔をした。
「王女が自分で決めたなら仕方ない。自分の人生は自分で決めるものだ」
「えっ、あの」
アクアマリンは慌てふためく。
(ちょっと! 本当にここに居たいはずがないじゃない! ラングレーよりずっと劣悪な環境だし、そもそも瘴気の影響で生身の人間には耐えられないわ。もっと全力で引き止めなさいよ!)
だらだらと嫌な汗が背中に流れる。ほら早く、いつものお馬鹿なお姉様に戻りなさいよ!
そんな焦りをよそに、ルビーは今度は魔王のほうを向く。
「魔王様。妹を冥府に住まわせてもよろしいでしょうか? 魔王様のご厄介になるのではなく、今回のことを反省しながら一人で暮らすということだと思いますので」
「ちょっと、ねえ! 冗談でしょう!?」
「冗談も何も、あなたが決めたことでしょう。今まであなたの意思を尊重できなくて悪かったわね。もう干渉しないから安心して」
魔王は覚悟を決めたルビーと憔悴するアクアマリンの顔を交互に眺め、妖艶に口角を上げた。
「なるほど、それが大聖女からの善良なる罰ということか。まあよい、人間観察という楽しみが一つできたと思おうではないか」
「感謝いたします。では餞別にこれだけ……」
魔王に深々と頭を下げたルビーは、アクアマリンに向かって呪文を唱える。黒いモヤがアクアマリンを守るように広がった。
「一年間は瘴気を避けられる結界よ。そのあとはあなたが自分で考えなさい」
「おっ、お姉様……!」
「じゃあね。元気でね」
ルビーは妹に背を向けて、セオドアとともに歩き出した。
「見捨てるのね! この卑怯者っ! ――やめてっ触らないでよっ! けだもの!」
騒ぎ立てるアクアマリンを、魔王の臣下が羽交い締めにして連れ出していく。
女の叫び声は、魔王城の城門を出るまでこだましていた。