六十話(前)
瞬間転移してきたのは、魔王城を囲む森にある集落だった。
藁や木材でつくられた小さな家々が点在している。目を丸くしてこちらを見ているのはゴブリンたちだった。
「……ゴブリンの集落だな。ここになにか問題が?」
セオドアが訊ねると、魔王は憂いを帯びた表情で口を開く。
「見てわからぬか? 同胞たちは痩せ細ってしまっている。冥府はいま、食糧危機なのだ」
「食糧危機、ですか……?」
そう言われて見ると……確かにゴブリンたちは痩せていた。大人は肋が浮き、頬がこけている。母親と手を繋いでいる子ゴブリンはお腹だけがぽっこりと膨らんでいて、物欲しそうに指をくわえていた。集落は全体的に覇気がなく、力なく地面に座り込む若いゴブリンも多く見られる。
「ゴブリン村だけはない。冥府はいまどこも同じ状況なのだ」
「いったいなぜ?」
「冥府を覆う瘴気が数百年単位で増減するのは知っているか?」
魔王が問う。セオドアとルビーは顔を見合わせ、首を横に振った。
「人間界ほどではないが、冥府にもそのような気候変動がある。ちょうど今が薄い時期だ。瘴気の薄い空気はオレたちにとって毒だし、作物も明らかに育ちが悪くなる。その結果飢えに耐えきれず人間界に出て人を襲う者が出たり、そこのダークドラゴンのように、親が育てきれずに子を放棄するケースも増えてしまう」
視線に気づいたブラッキーはキュイッと鳴き、「ボクは捨てられてない!」とばかりにルビーに頭を寄せる。魔王は「人間と主従を結ぶなんて。貴様は変わり者だな」と苦笑した。
「時が過ぎるのを待つことしかできないが、出来るならなんとかしてやりたい。つまり冥府の食料状況を改善できたなら、『擬態』の身柄を引き渡してやってもよい」
「なるほど。趣旨は理解した」
ルビーはセオドアに微笑みを向ける。
「――陛下。来る前は冥府とは一体どのような場所なのだろうと身構えていましたが、ほとんど人間界と変わらぬものなのですね?」
「俺も同じことを考えていた。冥府にも民を思う王がいて、数多の善良な民が棲んでいるのだと」
魔物は人間を襲う凶暴な種族だと認識していたが、目の前のゴブリンたちはとても大人しい。
魔王の話だと人間界に出没する魔物は飢えがほとんどで、あるいは育児放棄された迷子の子供だと。ごく一部の凶暴な魔物を除き、元来は自分たちの世界で静かに暮らしている生き物だったのだ。
そう知った今は、魔物に対する印象がガラリと変わっていた。
「魔王様。わたし、できると思います!」
「ほほう? では猛毒の大聖女よ、手並みを見せてもらおうか」
ルビーは一歩前に進み出て、ゴブリンたちの慎ましい集落を眺め渡す。そして集落を取り囲む黒い森、濁った空、そびえ立つ魔王城と目を移し、ここに至るまでに通ってきた洞窟や湖に思いを馳せる。
(冥府の窮状を助けたいの。人間も魔族も共に豊かになり、素敵な隣人として共存していけたら世界はもっと平和になれるわ)
祈りは呪文に姿を変えて降りてくる。身体に感じるすべてのエネルギーを言葉に乗せた。
「ルビー・ローズ・デルファイアの名に於いて命ず。我が猛毒を持って冥府に恵みをもたらせ。すべての魔族に安寧を!」
ルビーの全身から漆黒の彗星が幾筋も飛び出していく。放物線を描いて冥府の大地に落下すると、そこからはぐんぐんと植物が育ち始める。茎や幹が伸び、ぽんぽんと音を立てて葉が生まれ、花が開き、こぼれ落ちそうな実をつける。空に吸い込まれた彗星からは雲が生まれ、良質な瘴気に変化した。
一心不乱に祈りを捧げるルビーと、鮮やかに生まれ変わる世界。魔王すらその信じられない光景に目を見開いていた。
「――これほどまでとは。瘴気が潤い草木が育てば食物連鎖が回り始める。冥府の危機は救われた……」
全力を出し切ったルビーは祈りを終えるとふらつきながら立ち上がる。慌ててセオドアが支えた。
「無理したのではないか? 冥府全体に毒の恵みを与えるなど負担が大きすぎる」
「すみません、ありがとうございます。ギリギリ大丈夫です」
達成感にあふれた表情で答え、彼女は魔王の前に進み出る。
「これで当分は大丈夫でしょう。ですが、せっかくなので魔族の皆さんに軽い炊き出しをするのはどうかと思いつきました! 人間界では好評だったので、ぜひ魔族の皆さんもいかがですか?」
「……炊き出し?」
「はいっ! せっかく植物が育って果実も生ったので、栄養たっぷりのスムージーなんてどうでしょうか!」
目を瞬かせる魔王の前で、ルビーはうずうずしながら両胸の前でこぶしを握りしめていた。