五十七話
「お姉様もあの男もッッ! わたくしを見下して馬鹿にしたことを後悔すればいい! 冥府の深淵には魔王が棲むと聞いているわ! こんな国など滅びてしまえばいいのよ!」
神殿の管理所を飛び出したアクアマリンは、騎士の意表をついて馬を奪い、そのまま魔の森を目指した。
どうせ破滅するのなら憎い奴らを道連れにしてやる。わたくしの人生を滅茶苦茶にしたのだから国が滅ぼされたって自業自得だ。
後方から追手の気配がしたが、瘴気が濃くなる方向に向かって鞭を打ち続け、とうとうクリムガルド砦に出た。砦の正面には闇が渦巻いている。冥府の入口だと一目で分かった。
「アクアマリン殿下っ!? 危険です! お下がりください!」
一直線に冥府の入口へ駆ける彼女を認め、砦の騎士が大声で叫ぶ。しかしアクアマリンの耳には届いていなかった。
闇に飛び込む寸前、隣に黒い影が現れる。セオドアがアクアマリンの腕を掴み引きずり出そうとしたが――冥府の重力はすでに二人をとらえた後だった。
◇
永遠とも思える時間、真っ暗な闇の中を落下し続けた。
最終的には湖のような場所にバシャーンと着水し、二人は咳き込みながら無我夢中で岸に上がる。薄暗い洞窟だった。
「ああもう最悪! びしょ濡れになってしまったわ!」
アクアマリンはドレスの裾を絞り、セオドアをキッと睨みつける。
「止めても無駄よ。わたくしは魔王に会いに行く。この世界はもう終わりよ」
「馬鹿なことはやめろ。奥に行くにつれ瘴気が濃くなるはずだ。そもそも辿り着く前に死ぬぞ」
「聖女なのだから平気に決まってるでしょ。あなたとは格が違うのよ」
言い捨てると彼女は洞窟の奥へずんずんと進んでいく。
セオドアは数秒逡巡して、自分はこの場所に留まることを決めた。
(瘴気よけのローブがどこまで保つかわからない。無駄死にするよりは、ひとまずここで策を練ろう)
湖のほとりの岩肌に腰を下ろし、深くため息を付いた。
アクアマリンが冥府に飛び込もうがそれ自体はどうでもよかったが、身柄確保に全力を尽くさなかったらルビーが悲しむと思った。あんな性悪女でもルビーは大事な妹だと思っている。
(あと一秒早く腕をつかめていたら――。くそっ)
悔やんでも時間は元に戻らない。もしアクアマリンが魔王の説得に成功してしまったら、世界は最大の危機に陥ることになる。
セオドアは自分たちが落ちてきたと思われる、真っ暗な空を見上げた。
(この岩壁は登れるのか……? 戻るも進むも地獄には違いないようだ)
しかし、妻のためにも生きて帰りたい。ここで死ぬにはあまりに無念が多すぎる。
頭の中で、どうするべきか思案を始めた。
◇
洞窟を進み続けるアクアマリン。強い瘴気の影響か息苦しい。
岩肌にドレスが引っかかり、裾はボロボロになってしまっている。
ようやく洞窟を抜けると、そこは小高い丘陵の上だった。眼下には魔の森よりも黒く邪悪な森が広がり、はるか向こうには赤い岩肌の山々が。空には不気味な鳴き声をあげる蝙蝠が舞い、森の中央にそびえ立つ禍々しい城の回りを旋回していた。
「冥府に魔王が棲むという話は本当だった。あそこに違いないわ!」
勢いづいたアクアマリンは丘から駆け下りる。魔物に襲われたら聖なる力で退けるしかないと覚悟していたが、不思議と何も襲ってこない。足元の悪さに悪態をつきながらも、スムーズに魔王城の門までたどり着いた。
門の両脇に鎮座するガーゴイルに蔑んだ目をやりながら話しかける。
「魔王はここにいるんでしょう? 話があるから案内して頂戴」
『あるじがお待ちだ。歓迎はしないが案内する』
頭に直接響くような、不思議な声。人間の言葉を理解し話せる魔物がいることに驚いていると、ガーゴイルはひょいとアクアマリンを自分の背に乗せた。
「なっ、何をするの! 汚らわしいっ!」
『あるじの元へ行くのだろう。掴まれ、弱く愚かな者よ』
ガーゴイルは大きな翼をはばたかせ、一気に城の最上階まで上昇する。大きな窓から軽やかに中に入り、乱暴にアクアマリンを床に転がした。
「わたくしを誰だと思っているの! 獣のくせに!」
窓から去っていくガーゴイルに捨て台詞を吐きながら立ち上がる。室内には血のように赤い絨毯が敷かれ、相変わらず薄暗いが等間隔にランプが灯っていた。左右の壁に浮かび上がるのは頭から角の生えた男たちの肖像画――。緊張感にアクアマリンは息を呑む。
「――珍しい客だ。こちらへ来い」
「――!」
声のした方を振り返ると、玉座で一人の男が足を組んでいた。
陶器より白い肌に生気はなく、長い睫毛に縁取られた切れ長の瞳は鮮血のよう。漆黒の髪は無造作に腰まで流れている。艶めかしい、美しい男だった。
「……あなたが魔王ね?」
「さもありなん」
魔王は妖艶な笑みを浮かべた。猫でも呼ぶような仕草でアクアマリンを招く。
「生きた人間が来るなど久しぶりのことだから、記念に招いてやった。なにか用があるのだろう? 申してみよ」
話が通じそうな相手であることにアクアマリンは一つ安堵する。彼のすぐ目の前まで一気に歩を進めた。
「魔王陛下は話が早くて助かりますわ。ラングレー皇国を滅ぼしていただきたいのです」
「ほう?」
柳のような眉がぴくりと上がる。
「なぜオレが?」
「だって魔王でしょう? 魔族が人間を襲うのは別に変なことじゃないもの。力があれば理由なんて問題ではないわ」
「……どうしてラングレーを滅ぼしたいのだ?」
「あの国はもう要らないの。醜い魔物に侵略されて失くなってしまえばいいのよ!」
アクアマリンは憤りながら、いかにラングレーとその皇帝夫妻がろくでもないかを並べ立てた。だから国が滅ぼされるのは当然の道理だと。
長い話の途中で魔王は興味を失う。「やめろ。つまらない」と手を振って彼女の熱弁を制止した。
「――もうすこし実のある話ができると思ったが、所詮は偽物だ。単に私怨を晴らしたいだけではないか」
「……は?」
「そもそも最初から貴様は間違っている」
魔王はゆっくりと立ち上がる。縦に瞳孔が切れた目で、不機嫌な顔をするアクアマリンを睥睨した。
「小娘がオレに指示するな。魔族を殺戮兵器だとでも思っているのか?」
「そんなのわたくしには関係ないわ。ラングレーが手に入ればあなたたちにも益はあるはず。自分で考え――」
「話すことはもうない。帰るがよい」
地獄の底から響くような声。アクアマリンの背筋にぞくりと震えが走った。
「帰り道だが、我が同胞は容赦なく貴様を襲うだろう。黄泉の門を開けば死者を送り込むことだってできる。聖女もどきの力でそれらを退けられるか?」
「……小賢しいわね……っ! 魔王がこんなに腑抜けだと思わなかったわ……っ!」
精一杯の憎まれ口を叩いたが、人知を超えた存在である魔王に慈悲はない。
「不快だ。やはりオレの手で黙らせることにしよう」
「…………っ!」
魔王の目は本気だった。肉体から滲み出る怒気で窓ガラスがいっせいに砕け散る。立っていられないほどの圧がアクアマリンの全身を襲い、彼女は蒼白な顔で膝をつく。
彼は玉座の脇に置かれた巨大な鎌を手に取り、勢いよく振り上げた。