五十六話
唇を重ねようとした瞬間、ぐるりと視界が反転する。
セオドアに覆いかぶさっていたはずのアクアマリンは、強い力でベッドに押さえつけられていた。
「……ようやく吐いたな、大嘘つきが」
「陛下!? どうして……」
セオドアの表情は冷静だった。顔の火照りも乱れた呼吸も一瞬にして元通り。先程までとはまるで別人だった。
「おまえの用意した飲み物に細工がないはずがない。おおかた媚薬でも入れたのだろうと思ったが、その通りだったな。残念ながらラングレーの皇帝として耐性は獲得済みだ」
「なっ……! では演技をしていたとでも……!?」
「そういうことだ。俺が本気でルビーと見間違うはずがないだろう。ルビーはおまえなどよりずっと美しい」
セオドアは、顔を真っ赤にして歯ぎしりする女を見下ろした。
「俺はあるときから、ルビーこそが大聖女ではないかと疑念を抱いていた。そして今日、カイヤナイトの薔薇を完璧に浄化したことを受けて確信に変わった。カイヤナイトにまつわる伝承によれば、大聖女の装具を清められる者もまた大聖女だけだからだ。おまえがそれを知らないようで助かったよ」
「〜〜〜〜っ」
「なぜそこまでルビーに執着する? 自分より姉が優れているのが、そんなに気に食わないか? 天星を測定した神官の買収も簡単ではなかったはずだ」
アクアマリンの顔は、元の端整なつくりがわからないほど歪んでいた。桃色の瞳は憎悪に染まりきっている。
「――兄弟のいないあなたにはわからないでしょうね! あの女は姉というだけで全てを先に奪っていく。何の努力もしていない『姉』という順番だけで! わたくしはいつだって二番目で、あの女の足跡がついた道を歩まなければならなかった。一番いいのものはいつだってお姉様のところにいく。二番目のわたくしの人生はお下がりばかり!」
アクアマリンは我を忘れて叫ぶ。
「すべてはわたくし自身の人生を手に入れるため! あんな女にわたくしの人生を汚されないため! 当たり前のことをしただけだわ!」
「責任転嫁も甚だしい。だからおまえはルビーに敵わないのだ。――このままでは聖女としても女性としても、決して一番になれないだろう」
最後の言葉にアクアマリンは猛り狂った。
ものすごい力でセオドアの拘束を振りほどき、癇癪玉を破裂させた。
「もう許さないわ! あんたもあの女も破滅させてやる! どうして誰もわたくしを認めようとしないのよっ!!」
ちょうどドアがノックされ「一時間ですけど……アクアマリン? どうしたの?」とルビーの戸惑い声がする。
アクアマリンはすごい勢いでドアから飛び出し、呆気にとられるルビーの横をすり抜けて階下に走り去った。
「……あの、なにかあったんですか? 妹はかなり怒っていたようですが……」
「今後の話をしていたら急に怖くなったのだろう。気にするな」
真実がどうであれ、アクアマリンとルビーの歩む道は決定的に分岐してしまった。一方は大聖女として。もう一方は罪人として。顔を合わせることは二度と無いかもしれない。
セオドアは腕を組む。
(――しかし疑問はまだ残っている。アクアマリン王女はほんとうの聖女だったのか? ルビーが大聖女だと知っていたのなら辻褄の合わない行動がある。牢に入れたら尋問して明らかにする必要があるな)
そんなことを考えていると、階下から騎士がどやどやと足音を立てて上がってきた。
「アクアマリン殿下が馬を盗んで逃亡しました!」
「なんだって!?」
王女が馬に乗れるというのは想定外だった。癇癪を起こしてせいぜい階下の騎士たちに八つ当たりをしているのかと思っていたが――。
驚き呆れるセオドアの横でルビーは首をひねる。
「変ね。ベルハイムで貴族女性は馬に乗らないわ。あの子は動物が好きではないし、習うとも思えないのだけど」
「ですが、まるで騎士のような身のこなしで馬を操っておりました。副隊長のアンヘルとその部下が追いかけております」
「追跡を続けろ。逃亡罪も追加された以上、捕らえしだい即刻牢に収監せよ」
「ははっ!」
セオドアは「すまないルビー」と彼女に向き直る。
「先に城に帰っていてくれ。俺はアクアマリン王女の捜索に当たる」
「わかりました。妹が迷惑をかけてばかりですみません……。気の小さい子ですから、勢いで飛び出してしまっただけだと思います」
帯同している騎士の三分の二が帰途につくルビーの護衛に回り、残る三分の一がセオドアとともにアクアマリンの捜索に向かった。
無事に皇城に帰り着き、夫の帰りを待っていたルビーだったが――。
夜も更けてあくびを噛み殺していたとき、緊急でもたらされた知らせに絶句する。
「アクアマリン殿下がクリムガルド砦を突破し、冥府に踏み込みました! 制止しようとした陛下も巻き添えに!」
「ええっ……!?」
この世界の脅威たる冥府。すべての瘴気はそこから湧き出て、魑魅魍魎が跋扈する。当然、そのなかに足を踏み入れた人間などいないのだ。
頭の先から血の気が引いていく。
「陛下……アクアマリン……」
ルビーは目の前が真っ暗になり、しばらく動くことができなかった。




