五十四話
「――は?」
アクアマリンは開いた口が塞がらない。自分の目がおかしくなったのかと思い、ごしごしと擦るが、やっぱり姉の手には直視するのも眩しいくらいの見事な薔薇がある。
帯同している神官や護衛の騎士らは騒然とし、「生きているうちに本来の輝きを拝見できるとは」「前にするだけで心が洗われるようだ」などと口々に薔薇を褒め称え、「ルビー殿下はカイヤナイト様の生まれ変わりなのでは」とルビーに叩頭する者さえ現れた。
「素晴らしい輝きだ、ルビー王女。よくやってくれた。大聖女も君のことを誇りに思うだろう」
「強い瘴気で汚れていました。これが魔王の魔力なのだとしたら、やはり大聖女様は偉大なお方です」
ルビーの額には汗が滲んでいた。セオドアはポケットからハンカチを取り出して優しく拭い、アクアマリンに向き直る。
「勝負の結果は一目瞭然のようだが……。なにか言いたいことはあるか、アクアマリン王女?」
「あらっ、どうしたのアクアマリン! 全然浄化できていないじゃない!」
血相を変えたルビーは薔薇をセオドアに渡して妹に駆け寄り、その腕を握った。
「毒使いのわたしと違ってあなたは聖女なのに。体調でも悪かった?」
「…………」
「全力を出したのだけど、一時間ではすっかり綺麗にすることはできなかったの。あなたなら葉のところまで完璧に浄化できると思っていたわ」
「…………」
「言葉も出せないほど具合が悪いのね。ああ、よく見ると目の下にクマができているじゃない。可哀想に――」
「ああもう、うるさいわねっ!」
アクアマリンはきっと顔を上げて、姉の腕を振り払った。
「どういう細工をしたの!? こんなのどう考えたっておかしいわよ! わたくしは完璧だったのに!」
「おっ、落ち着いてアクアマリン。どうして細工をしなければならないの。始める前にきちんと測定をしたじゃない」
「すり替えたのよ! わたくしが浄化している間に虹色の薔薇にすり替えたんでしょう! そうに決まってる!」
「我々は全員廊下で待機していた。薔薇をすり替えにルビー王女のもとへ行ったんなら、部屋の前にいた君が気が付かないはずがないだろう」
セオドアが冷めた声でアクアマリンを突き放す。火に油を注がれたアクアマリンは、彼の持つ虹色の薔薇を奪い取った。
「化け物のくせに! こんなの偽物に決まってるわ!」
薔薇を振り上げて勢いよく地面に叩きつけようとしたが、その腕はセオドアによって途中で止められる。彼は怒りを隠さずに腕をねじり上げた。
「我が国の大切な宝だ。君がこれを破壊した場合、ベルハイムを滅ぼしても足りない罪を負うことになる」
「痛いっ! 離してよっ! ラングレーごときの皇帝が聖女に無礼よっ!」
とうとう本性を表したアクアマリン。口汚い言葉を並べてセオドアを罵っていると、彼女の頬に熱が走った。
「――えっ?」
彼女の頬を打ったのはルビーだった。
「いい加減にしなさいアクアマリン」
アクアマリンは頬を手で抑えながら、呆然とした表情で姉を見つめた。
「わたしはもうこの国の皇妃なの。妹として個人的にわたしに当たるのはいいけれど、陛下や大聖女カイヤナイト様を悪しく言うことは許さないわ」
それは祖国にいたときの柔和な姉の顔ではなかった。真っ直ぐで、凛としていて、気高ささえ感じられる。
自分の遥か下にいたはずの姉は、いつの間にか手の届かない高みに上ってしまったようだった。
「誰も不正なんてしてないわ。あなたが本調子であれば、わたしより遥かに素晴らしい薔薇をつくれたはず。それは皆わかっていることなのだから、それでいいじゃない。見苦しい真似はよしなさい」
「〜〜〜〜っ。誰に向かって口を利いているのよ!」
「もちろんわたしの可愛い妹よ。わたしたちはたった二人の姉妹なのだから、いいときも悪いときも互いに支え合わないといけないわ。あなたが罪を償ったあと、もしベルハイムに帰りにくければ、この国で過ごしたって構わないのよ」
昨日は「妹の罪を穏便に済ませられないか」とセオドアに懇願したルビーだったが、さすがにもうかばいきれなかった。多くの騎士や神官の前で皇帝と大聖女を貶め、取り返しのつかない醜態を演じてしまったのだから。
しっかり罪を償って、またやり直してほしいと思っていた。
「あり得ないわ……あり得ない……。何かがおかしいわ……」
アクアマリンはうつむき、ぶつぶつと低い声で呟き始める。聖女とは思えない異質な様子に、騎士や神官らがざわつきだす。
ルビーは哀れな妹を気の毒に思い、セオドアに耳打ちする。
「現実を受け入れるのに時間がかかりそうです。このまま連行するのでしたら、その前に少し休ませてあげたいのですが」
「神殿の管理所がすぐそこにある。狭いが休憩くらいはできるはずだ」
彼が示す先には、ルビーが住んでいたログハウスほどの大きさの建物があった。おそらく何部屋かありそうだから、妹も一人で落ち着いて気持ちを整理できるだろう。
「ありがとうございます。アクアマリン、一旦あちらで休みましょう。温かい飲み物でもいただいて落ち着きましょう」
ルビーの言葉に、うつむくアクアマリンの肩がピクリと揺れた。
「……そうね。そうさせてもらうわ……」
低い声だった。彼女は笑顔を貼り付けて顔を上げる。
「陛下。その前に馬車に寄ってよろしいでしょうか? 気付けの香を取りに行きたいのです」
「構わない」
馬車に戻ったアクアマリンは一人で中に乗り込んだ。荒い手つきでカバンをまさぐり豪奢なガラス瓶を取り出す。宙に掲げると、とろみのある紫色の液体が妖しく揺れた。
(――ベルハイムから持ってきた魔女の媚薬。これを使うしかないわ。陛下がわたくしを抱くところをあんたに見せつけてやるの。陛下がわたくしを選んだとなれば、一気に立場は逆転する!)
ドレスの袖に薬瓶を隠し、皆が待つ場所に戻る。心配するルビーになんでもない顔を向けて、一行は管理所へ向かった。