五十三話
翌日、一行は早朝に城を出発し、数時間後には皇都郊外のとある場所に到着していた。
寝不足が限界に達しているアクアマリンと、今日もにこやかなルビー、そしていつもと変わらず凛とした表情のセオドア。魔の森にほど近い荒野の真ん中で馬車を降りた一行の目前にあったのは、崩れかけた古い神殿だった。
「アレクティオネ神殿という。二人に浄化してもらいたいものはこの中だ。足元に気をつけて着いてきてくれ」
「立派な建物だったんでしょうね……。このように朽ち果てているのがとても惜しく感じられます」
柱は城のそれより太く、天井には色褪せているが壮大な絵画が一面に描かれている。ガラスも砕け散っているが、鮮やかなステンドグラスだったようだ。
この状態になって百年近く経っていそうだと思いながら、セオドアの後について礼拝堂に入る。
不思議なことに、礼拝堂だけはほとんど痛みがみられなかった。前方中央には髪の長い乙女が片手に杖を持って魔の森の方向を指している大きな像が祀られていて、その美しくも勇敢な姿にルビーの心は震えた。
「あのお方はどなたでしょうか? 女神様でしょうか」
帯同している老神官に訊ねると、彼はかぶりをふった。
「およそ三百年前に、身を呈して我が国をお護りくださった炎の大聖女・カイヤナイト様でございます」
「大聖女様? 当代に一人生まれるかどうかと言われる偉大な地位の方よね」
「ええ。当時は今よりも魔の森は混沌としており、冥府の脅威も比較にならないほどでした。人間と魔物の抗争が激化し、激怒した魔王が攻め入ってきたのです。クリムガルド砦が突破され、ラングレー皇国もこれまでかと思われたのですが、この神殿でカイヤナイト様が魔王を迎え撃ち、ご自身の命と引き換えに討ち倒したのです」
「まあ……。カイヤナイト様のおかげで多くの命が救われたのですね。なんと勇敢なお方なのでしょう」
「カイヤナイト様はこの国のお生まれで、民を心から愛しておられました。死後はこの神殿にて奉り、国民の心の拠り所となっていたのですが……」
老神官の視線は今通ってきた瓦礫だらけの廊下に移る。悲痛な声で呟いた。
「世界は平和になる一方で我が国の貧困は進み、補修もままならないことに。陛下は常々このことを憂いておられるのです」
「そうだったのですね……」
静かに大聖女像を見上げていたセオドアが前に向き直る。
「今日ここに来てもらったのは、我が国の英雄・大聖女カイヤナイトの宝花鏡を浄化してもらいたいからだ」
「宝花鏡ですって?」
アクアマリンが訝しげな顔をする。
「神殿の補修は金さえあればどうとでもなるが、宝花鏡だけはそうもいかない。これだ」
二人の神官がそれぞれ盆の上に乗せて運んできたのは、巨大な薔薇だった。色は黒く硬質で、金属が錆びたような質感だった。
「これはもともと大聖女カイヤナイトの杖についていた宝飾品で、瘴気を跳ね返し聖なる力に変えるといわれている。大聖女が魔王を討ち倒したときに黒変してしまったが、本来は七色の虹のごとき輝きだそうだ」
ルビーは巨大なカイヤナイト像を見上げる。彼女が握りしめる杖には、確かに二つの薔薇が咲いていた。
「薔薇が命を吹き返せば冥府に対する抑止力となるだけでなく、民の心の拠り所にもなるだろう。忘れ去られつつある大聖女の献身を思い出し、今一度ラングレーの民としての誇りを持ってほしいと願っている」
「それは構いませんけど、父と陛下で取り交わしているお約束は一時間です。一時間でできるところまで、ということでやらせていただきますわ」
寝不足が続いているアクアマリンは、いつも被っている猫が剥がれかけている。盆から無造作に薔薇を持ち、めんどくさそうに礼拝椅子に腰掛けた。
「もちろんそのつもりだ。おのおの薔薇を一つ持ち、時間内でできるところまで浄化してほしい。そして昨日伝えた通り、ここでアクアマリン王女がルビー王女より多くの輝きを取り戻すことができたなら、君の罪は大聖女カイヤナイトに免じて不問としよう」
神官がそれぞれの薔薇に目盛りのついた魔術具をかざす。同じ数値で目盛りは止まり、薔薇の汚染具合に差がないことを確認した。
「では、それぞれ浄化を始めてくれ。一時間が経過したら知らせに来る」
「陛下。大聖女様のお心に全力で祈りを捧げたいため、あちらで集中して取り組んでもよろしいでしょうか?」
「構わない。アクアマリン王女も好きな場所に移動していいぞ」
「お姉様が小細工をしないか見張りたいので、近くでやらせていただきますわ」
アクアマリンはルビーが使う小部屋の前の礼拝椅子を陣取った。
(念のため近くにいれば安心だわ。わたくしの勝利は確実よ)
そうしてアクアマリンは礼拝堂で、ルビーは隣の小部屋で祈りを捧げ始める。セオドアや神官らは邪魔にならないよう廊下に出た。
きっかり一時間後が経つと、神官がそれぞれに声を掛けに向かう。
意気揚々と廊下に出てきたアクアマリンは、花びらが一枚だけ鈍い虹色になった薔薇を掲げた。
「ほら、ご覧になって! 一時間でここまで輝きを取り戻しましたわ!」
「七色とまではいかなくとも五色ほど見えている。見事だ」
「お姉様はまだなの? 恥ずかしくて出てこれないのかしら」
アクアマリンが鼻の穴を膨らませていると、遅れてルビーが廊下に出てきた。
「すみません! 集中のあまり神官様のお声を聞き逃してしまって。肩を叩いていただきようやく我に返りました」
小走りで出てきたルビーの薔薇を見て、セオドア以外の者たちはいっせいに目を見開く。
彼女の手には、それはそれは美しい、七色に輝く完璧な薔薇があったのだ。