四十五話
翌日は朝食を済ませるとすぐに出発した。
機嫌の悪い顔で見送るアーノルドの姿が見えなくなると、セオドアはふうと息を吐く。
「今夜は森で野営だ。砦には二日目の夕方に到着する見込みだから、体力を温存しながら行こう」
「あっ、はい……」
「……?」
もじもじとして居心地の悪そうなルビーを不思議に思うセオドアだったが、危険な地に向かうということもあり、深く考えることなく馬車の外に目を移した。
◇
森での野営はエマとふたりだったから、ルビーは安心して眠ることができた。
一昨日からどうにもセオドアとの距離が分からなくなっていたのだが、彼の態度は普段と変わらない。そのうち空耳だったのではないかという気になってきて、クリムガルド砦に到着するころにはいつもの調子を取り戻していた。
「ここがクリムガルド砦だ。向こうに見える漆黒の闇が冥府の入り口だから、決して近づかないように」
皇都の先の森を進み、やがて魔の森に入り。大勢の騎士らに護衛されるようにしてたどり着いた砦は、頑丈な石で造られた要塞のような場所だった。
その目と鼻の先にあるのが冥府の入り口。すべての瘴気と魔物はここから湧き出てくるという。
「この先が冥府……」
冥府の入り口は一寸先も見えないような暗闇で、じっと見ていると吸い込まれそうな気がした。まだ昼過ぎなのに、濃い瘴気の影響で空は夜よりも暗い。
「強い瘴気が出ていますね。わたしは平気ですが、砦の皆さんは大丈夫なのですか?」
「生身で耐えるのは無理だ。俺も含めて古の大聖女が編んだ瘴気除けのローブを纏っているから生きていられる」
「ああ、これが……」
今朝テントを出発するときに皆が着替えていたことを思い出す。ルビーも着用を勧められて一応羽織ってきたが、暑かったのでさっき脱いでしまっていた。近くにいた騎士が大慌てしていた理由はこれだったのかと理解する。
「このローブがあったとしても、三か月が限界だ。三か月ごとに新しい騎士を派遣して交代する」
「砦の皆さんは、絶えず冥府を見張っているということですか?」
「ああそうだ。俺の後に付いてきてくれ」
セオドアはルビーを砦の中に促す。壁沿いにぐるりと造られた階段を上り、最上階から更にそびえる見張り台にいざなった。
かつて自分が閉じ込められていた塔ほどもある、魔の森全体を俯瞰できる高さ。遥か向こうには皇城の影が黒く浮かび上がる。冥府の方向から吹く妖しい風が二人の頬を撫でた。
「冥府に異変が生じたら速やかに皇城に報告するため。手に負えないような災害級の魔物が発生したら、ここで足止めをして国民を退避させる時間を稼ぐため。この砦で働く者のおかげで我が国の――いや、この世界の安寧が保たれている」
「ここの皆さんのおかげで……」
ルビーは砦の外壁と地上を見下ろした。
たいまつを掲げた騎士たちが微動だにせず冥府の方向を監視している。四角く切り抜かれた壁の内側には弓矢を持った騎士が待機し、いつでも魔物を攻撃できる体制をとっている。あたりは静まり返り、常に張り詰めた緊張感が漂っていた。
(世界の防衛線がラングレーにはあるのだわ。ベルハイムにいた時は、こんな場所があるなんて露ほどにも思わなかった。塔での生活さえ当たり前ではなかったのね……)
ここで働く者たちのことを知っている人間は、どれほどいるのだろう。
ラングレーは聖女の力なしで数百年ものあいだ冥府の脅威を抑え込み続けている。それがどれだけ偉大なことか、その一端をルビーは身をもって実感していた。
「陛下。ここの瘴気を解毒しましょうか? どこまで力が及ぶか分かりませんが、少しはましになるはずです」
「心遣いは嬉しいが、大丈夫だ」
「えっ」
瘴気払いを辞退されるのは初めてのことで、ルビーは面食らう。
「ここはあまりに冥府に近すぎる。瘴気のバランスが崩れることで予期せぬ事態が起こるかもしれない。刺激を与えたくないんだ」
「そうなのですね……」
肩を落とす彼女の髪が風で乱れていることに目を留めて、セオドアはそっと耳にかけてやる。穏やかな声で二の句を継いだ。
「君を連れてきたのは瘴気を払ってもらうためではない。皇妃として、この場所のことを常に忘れないでいて欲しかったからだ。もし冥府に異変が起きたら俺は皇帝として戦う責務がある。ここが墓標になることだって十分にあり得るだろう」
「そっ、そんな悲しいこと言わないでください!」
ルビーが泣きそうな顔になると、セオドアは子供をあやすように笑った。
「そうならないことを願うばかりだが。――とにかくここがラングレー皇国の覚悟であり俺の覚悟でもある。それを覚えていて欲しかったんだ」
「お言葉は胸に刻みつけましたが……」
胸の奥がざわざわした。今のような幸せな日々が続いていくのだと思っていたけれど、彼がラングレー皇国の皇帝である以上絶対なんて無いのだ。
「……陛下がここで戦うことになったら、わたしも必ずおそばにいます。皇妃の役目は民と皇帝陛下を守ることですから、全力で援護いたします」
思ってもみない力強い言葉に、セオドアは一瞬きょとんとする。
「君には民と共に退避してほしいのだが」
「だめです。ブラッキーたちも手を貸してくれるはずですから、みんなで力を合わせて戦うんです!」
「――ははっ」
セオドアは思わず吹き出した。この王女はどこまでいじらしくて善良なのだろう。
「君には敵わないな。中央の王族どもより、よほど肝が据わっている」
くつくつとおかしそうな表情で笑いを噛み殺すセオドア。ぴりついた砦の雰囲気にそぐわない優しい顔をすればするほど、ルビーは気が気ではなくなってくる。
(陛下は素晴らしい皇帝だわ。民のためならほんとうに命懸けで戦うのでしょう。このお方がもし死んでしまったら、わたしは――)
――そんなの嫌だ。
無意識のうちに身体が動いていた。セオドアの肩と襟元を掴み、ぐいと引き下げる。
「――!」
唐突に唇に柔らかいものが触れ、セオドアは目を見開く。
(陛下にだけ運命を背負わせたりしない。わたしはこの人と、すべての幸福と悲運を分け合うの)
ああ、わたしはきっと、陛下のことをお慕いしているのだわ。
世界の果てで口づけを交わしながら、ルビーはようやく自分の気持ちを自覚したのだった。
次が2章ラストのお話です。