四十話
翌朝には雨は上がっていた。窓の外を確認していたセオドアは室内に向き直る。
「海のしけが問題なければ街道沿いを行こう。なるべく森は通りたくない」
「わかりました。そのほうが安全ということですね」
準備を整えて一晩過ごした木こり小屋を後にする。ルビーが前、セオドアが後ろという並びで馬にまたがった。
雨上がりの森にはみずみずしい草木の香りが漂い、昨日の出来事がすべて嘘のように感じられる穏やかさだった。
「美しい森ですね。お城の近くでは見かけない花も咲いてます!」
「そうだな。しかし油断してはいけない。我が国のすべての森は魔物が出る可能性がある」
ルビーが馬上から森林鑑賞を楽しんでいる間もセオドアは剣の柄に片手をかけ、警戒を怠らなかった。
二人は森を横断する形で海沿いの街道に出た。南にまっすぐ行けばサウス・ハーバーに戻ることができる道だ。ところが――
「昨日ほどではないが、しけているな。雨天でもないのにおかしなことだ」
海を見たセオドアは厳しい表情で呟いた。
「波が高いですね。向こうの方などは海面が渦巻いているようにも見えます」
「ふむ……。魔物の仕業という噂はあながち間違いではないかもしれない」
考え込んだセオドアにルビーが首をかしげる。
「海にも魔物が棲んでいるのですか?」
「ああ、君はまだ見たことがないのか。魔物が棲むのは森だけではない。海にもいるし、火山の火口にだっている。俺たちの世界と同じで、冥府から湧き出る魔物たちにも生態系があるんだ」
「さまざまな暮らしをしている魔物がいるのですね」
それは新鮮な驚きだった。魔の森にいるような魔物ばかりだと思っていたからだ。
「……あの渦潮が気になるな。もう少し近づいても構わないか? 危険な気配がしたらすぐに離脱する」
「もちろんです」
慎重に馬を操り渦潮がよく見える浜に出る。すると、ルビーはあることに気がついた。
(毒の気配がするわ。それも、とても大きな毒)
意識を研ぎ澄ませて確認してみると、それは渦潮の中から発生していた。
荒れる海面に渦巻く白い波。嵐の目の中心のようなそれは、波音とは異なる唸り声のような音を立てている。自然に発生したものでないことは明らかだった。
馬から降りてじっと海を観察していたセオドアは腕を組む。
「やはり魔物がいるようだ。これほどの影響力を持つとなると、大型のシーヴァンパイアかバイホーンフィッシュか……? 海中で暴れているから大しけが続いているのだろう」
「わたしにも気配が感じられます。……サウス・ハーバーの漁業に悪影響を及ぼしているということは、退治することになるのでしょうか?」
「ああ。しかし今すぐには無理だ。ここの騎士たちの手には負えないだろうから、皇都から応援を呼ばないと」
「でしたら、その必要はなさそうです!」
「……どういうことだ? シーヴァンパイアにしろバイホーンフィッシュにしろ討伐の難易度はA級だ。相応の準備期間と経験のある騎士が必要だが」
怪訝な顔でセオドアが訊ねると、ルビーはにこりと笑った。
「この魔物には毒があるようです。ですから毒使いの力で退治できるかと」
「……!」
一瞬息を呑んだセオドアだが、すぐに厳しい表情を取り戻す。
「危険すぎる。君を疑うわけではないが、もし何かあった場合の代償が大きすぎる」
「大丈夫です。陛下が海の様子をうかがっている間に毒の様子を観察したのですけど、わたしが持つ毒より弱いことがわかりました。それにわたしには頼もしい味方がいます。きっとそろそろ――あっ、来ました!」
空を見上げるルビーにつられてセオドアも天を仰ぐ。すると、黒い鳥のようなものがすごい速さで飛んで来るのが目に入った。
近づくにつれてその姿はどんどん大きくなる。もはや鳥ではなくどう見ても立派なドラゴンなのだが、舞い降りたその魔物を抱きしめたルビーは満面の笑みを浮かべてはしゃぐ。
「ブラッキーです! 数ヶ月離れているうちにますます大きくなったのね! 陛下、ブラッキーは戦いが得意なんですよ。魔の森に住んでいたときはよく助けてもらいました。毒を抜いても爪や牙で攻撃してくる子はいましたから、そういう場合はブラッキーがやっつけて自分のごはんにしていたんです」
「キュイ〜ッ!!」
久しぶりに主人に会えたことが嬉しいブラッキー。甘えた鳴き声を上げ、鼻先をルビーに擦り付けた。
いちゃいちゃするふたりを前にしてセオドアは激しい脱力感を覚え、忘れかけていた感覚を思い出していた。
(…そうだ…思い出したぞ……。この王女は俺の想像の斜め上をいくんだった。人類の大敵であるダークドラゴンを飼い慣らしていたんだった……。しかしなぜここに……?)
「昨日、留守番しているブラッキーを呼び寄せていたんです。その……もうお城には戻れないと思っていたので、ログハウスに置いていくわけにもいかず……」
「……君は離れていてもダークドラゴンと意思の疎通ができるのか」
「この子はダークドラゴンじゃないですよ。ちょっと大きいけど鳥さんですってば」
何度教えても間違えるセオドアに頬を膨らませる。
「ブラッキーだけじゃなくてマイケルたちもそうですよ。眷属――お友達になった子の考えていることはだいたいわかりますし、距離に関係なくわたしの意思も通じます。言われてみれば不思議な力かもしれないですね」
言われてみれば、という問題ではないのだが――。
セオドアがダークドラゴンを凝視していると、ブラッキーは視線に気づいて「キュギュッ」と鼻を鳴らす。彼は慌てて目を逸らし誤魔化すようにコホンと咳をした。
「君の言う通り、その鳥はずいぶん強そうだ」
「はい。シーヴァンパイアやバイホーンフィッシュでも任せろと言ってます」
「それはそうだろうな……」
ダークドラゴンは冥府から湧き出る魔物の頂点に君臨する。本来人間の王女ではなく冥府の王――魔王が侍らせるような名実ともに最強の魔物なのだから。
ルビーが毒を抜き、とどめはダークドラゴンがさすというのなら、渦潮の底に棲む魔物の討伐は一気に現実味を帯びてくる。騎士団を招集して討伐するより迅速かつ安全に対応できるし、サウス・ハーバーの漁業への影響もすぐに解消できる。
ただやはり、懸念はルビーの身の安全だった。その一点が無視できないほどに引っかかっていて、セオドアは決断を下せずにいた。いくらダークドラゴンが最強生物だといっても、うまく人間と連携して戦うことができるのだろうか。
「……わたしはそんなに頼りないですか?」
ルビーはブラッキーから身を離し、難色を浮かべるセオドアの前に進み出る。
「……頼れる頼れないという問題ではない」
「これでも元王女です。民のため国のため尽くすことが役目だと思って生きてきました。……わたしの覚悟を信じてもらえませんか?」
煌めく赤い瞳には、強い決意と矜持が浮かんでいた。
「病院では失敗してしまいましたが、もう二度と自分の力を見誤りません。皇妃として名誉挽回するチャンスをいただけないでしょうか」
――これほどルビーが譲らないのは初めてのことだった。
同じ王族として彼女の気持ちが痛いほどにわかるセオドアは、とうとう頷くよりほかなかった。なぜならこれ以上の沈黙は彼女の尊厳を傷つけることと同じだから。それは彼の望むところではなかった。
苦渋の選択だったが、セオドアはゆっくりと肯首する。
「……わかった。では、ここは君と黒い鳥に任せることしよう」
「……! ありがとうございます!」
この人はいつだって自分の気持を尊重してくれる。ルビーは改めてセオドアへの信頼感を大きくした。
「やるわよブラッキー! この街を困らせる悪い魔物さんにはお仕置きをしなくてはね!」
「キュイーンッッ!!」
渦潮のすぐ近くの浜に二人と一匹は立つ。ルビーはサウス・ハーバーの民とラングレーの海の安寧を願い、強い決意で呪文を口にした。