三十九話
目を覚ましたのは、見覚えのない木造の小屋だった。
自分が寝ているベッドの他に、炎の入った暖炉。二人用の簡易的なテーブルセットがあるだけの質素な場所だった。
「ここは……?」
ゆっくりと身体を起こして呟くと、暖炉の近くで足を投げ出していたセオドアが振り返る。
「目を覚ましたか。体調はどうだ?」
「あ……陛下。――わわっ!」
「どうした? ……ああ」
セオドアは上半身に何も身につけていなかった。彼と暖炉の間には木の枝で作った物干があり、濡れた衣類が掛けられている。
鍛え上げられた美しい筋肉が暖炉の灯りに浮かび上がり、ルビーが思わず目を覆うと、セオドアは無言で半乾きのシャツを羽織った。
「ここは街外れの木こり小屋だ。日も暮れかかっていたし、なにより酷いしけであの街道を戻ることは危険と判断した。今夜はここに泊まる」
話しながら歩いてきてルビーの足元に腰を下ろす。ベッドフレームがぎしりと軋んだ。
「それで、体調は? あの男に何もされなかったか?」
「はい……。その……陛下こそお怪我はないですか? ジークハルト様の攻撃が当たったりは……」
「掠りもしていない」
「ほんとうですか?」
なおも不安そうな顔をしているのを見て不思議に思うが、やがて理由に思い当たる。シャツを少しだけめくり上げて言った。
「これは古傷だ。魔の森の定期討伐で負ったものだから、今日の件とは無関係だ」
「そうなのですね……」
シャツから覗く彼の上半身には無数の傷があった。魔の森の冥府付近にはジークハルトなど比にならないほど凶暴な魔物が跋扈している。手練れの騎士団が相手するとはいえ皇帝本人も無傷とはいかない。むしろセオドアは自ら先陣に切り込み臣下を守るような戦い方をする男だった。
痛ましく思ったルビーが思わず傷に触れようとすると、知ってか知らずかセオドアは腰を上げてふいと視線を逸らす。
「疲れただろう。サイドテーブルに非常食が置いてある。食べられそうだったら食べて休め」
そう言って再び暖炉の前に座り込む。大きな背中はどこかルビーを拒絶しているように見えた。
「陛下はどこで休むんです? ベッドは一つしかありません。わたしは十分寝させてもらいましたから、次は陛下が――」
「安全とは言い切れない場所だ。俺はここで万が一に備える」
ベッドから出たルビーを振り返ることもなく言い捨てる。彼の横には大剣がぴったりと置いてあった。
ルビーはいたたまれない気持ちになって、そろりとセオドアに近づく。
「……すみません。怒っていますよね。わたしが勝手なことをしたから」
「……」
「陛下の側にいるって言ったのに……」
シルクラインで市場を散策したとき。母親に捨てられたことが原因で女性や愛情を信じられなくなったというセオドアに『大丈夫ですよ、陛下! わたしは役目を終えるまで必ず陛下のそばにいますから』と約束したことを思い出していた。
セオドアは無言だ。明確な拒否感情を感じたルビーは、自分のせいだとわかっていても悲しくてたまらない。どうにか彼との距離を縮めたくて、彼の背中に自分の背中を合わて床に座った。ぴくりと彼の身体が僅かに反応した。
「……自分が怖くなって、逃げてしまったんです。わたしの力は聖女が持つ清らかなものではなく、毒をもって毒を制す諸刃の剣だった。陛下の大切な民を傷つけてしまって……お側にいる資格がないと思ったんです」
静かな小屋で、薪がぱちりと弾けた。
「ジークハルト様の言う通り、自分は化け物だと思いました。人を傷つけるくらいなら祖国に帰るよりほかないと。……でも陛下が追いかけてきてくださって、自分が間違っていたことに気が付きました。一度の失敗で大切なものを手放そうとした自分が愚かだったと」
「君は化け物ではない」
セオドアはそれだけ言って再び口を閉ざしたが、その声は棘が抜けていくぶん丸みを帯びていた。
彼女は心遣いを嬉しく思いながら言葉を続ける。
「……そう言ってくださる存在がどれほどありがたいことか、こうなるまでわたしは分かってなかったんです。自分の人生を生きろと陛下が叫んでくれて、初めて目が覚めた心地でした。――約束を破ってしまって本当にごめんなさい」
「……」
「お許しをいただけるとは思いません。ですがもしチャンスを頂けるなら、今後もラングレーのためにできることをさせていただきたいと――っ!?」
言い終わる前に温かく大きなもので身体を抱きしめられる。それがセオドアだと分かるまでに時間はかからなかった。
「――もういい。君が戻ってきてくれてよかった」
驚きに目を丸くしていたルビーだが、首元にうずめられた顔から聞こえる消え入りそうな声に、きゅっと胸を締め付けられる。
「――はい。戻ってまいりました」
彼の背中に手を回す。自分よりずっと大きな体躯のはずなのに、今はとても小さく感じられた。
「……二度と離縁だなんて言うな」
「しかしわたしは……」
「俺は君がいい。偽者だろうが毒使いだろうが、そんなことは関係ない」
一国の皇帝らしくない、駄々っ子みたいな言い方だった。このぬいぐるみは自分のものだと言って離さない子供のように、痛いくらいにルビーを抱きしめている。
「陛下…………」
もう逃げやしないのに、きつく回された両腕と大きな身体から、言葉にならない彼の気持ちが伝わってくるようだった。
愛情はなくとも、人として信頼してもらえているのかしら? そう思うとルビーは嬉しかった。
(いつか陛下が正式な皇妃様を娶るまでは、もうしばらく隣にいさせてほしい)
そんな自分の心に素直になろうと思った。
「……ありがとうございます。では、あの手紙は撤回していただけますか?」
「あんなもの最初から承服していない」
「そうでしたか。陛下には敵いませんね」
くすくすと笑い声を上げると、ようやくセオドアは身体を離した。顔が朱に染まっているが、暖炉の熱に浮かされているのか何なのか、理由は本人にしかわからない。
「早く休め。明日は海沿いがだめなら森を抜けて街に戻ることになる。いずれにしろ道は悪いから、体力を回復させないと辛いぞ」
「わたしだけベッドで休むのは悪いですよ。だから陛下も一緒です」
「――は?」
セオドアが硬直していると、ルビーはベッドから掛け布団を持って暖炉の前に戻ってくる。彼の隣に腰を下ろして半分を自分の肩にかけ、もう半分をセオドアの肩にかけた。肩と肩が触れ合って、互いの鼓動まで伝わってしまいそうなゼロ距離だった。
「陛下が風邪をひいたら悲しいです。こうすればふたりとも暖かいでしょう?」
花が咲いたような笑顔。その明るさにセオドアは何度救われたかわからない。
宿屋で離縁を告げる手紙を目にしたときから――自分は彼女に好意を抱いているのだとはっきりと自覚していた。
「――だからだめだ」
「だからってどういうことです? 日が昇るまでそう長くないですし、今夜はおしゃべりに花を咲かせましょうよ! 昔は空腹で三日三晩寝付けないこともあったので、体力のことなら心配無用です」
「……君はもう少し男に対して警戒心を持つべきだ。俺はともかくあんな男の馬車にホイホイ乗るなんて……」
「あんな男って。ジークハルト様のことですか?」
「名を口にするな。だいたい婚約者がいたなど俺は聞いていない」
「子供のころの話ですよ。今回もそうですが、わたしが塔で暮らすことになったときは張り切って逃走防止の結界を張っていたくらいです。単に仕事熱心なんですよ」
「……やっぱり息の根を止めておけばよかった」
「ちょっと陛下っ!? 座ってください! 外は危ないんでしょう!?」
木こり小屋には夜明けまで、楽しそうな笑い声が響き渡っていたのだった。