三十八話
「ちっ……勘の鋭い男だ」
唐突にジークハルトがルビーから身を離す。
馬車の窓から後方を振り返ると、黒い馬に乗った人物がすぐ後ろに迫っていた。
「――王女! 中にいるのだろう! 返事をしてくれ!」
声に弾かれるようにルビーも窓から身を乗り出す。セオドアだった。
ローブも羽織らず、ずぶ濡れのまま馬を駆っている。彼は顔を出しているルビーに気付くと馬に鞭を打ち、すぐに真横に並んだ。
「君が何を気にしているかはわかっている! とにかく降りて話し合おう!」
雨に打たれながらセオドアは必死に叫ぶ。
皇帝なのに服が濡れるのも厭わず、まっすぐにルビーを見据えて切実な表情で叫んでいる。らしくない姿を見て、彼女の瞳からはさらに涙が溢れた。
「これはこれはセオドア陛下。お初にお目にかかります」
ルビーを押しのけるようにしてジークハルトが顔を出す。セオドアは眉間に深いしわを刻み、不愉快を隠そうともしなかった。
「貴様は誰だ? なぜ王女と共にいる?」
「ジークハルト・フォン・ライデンベルクと申します。ルビー元王女殿下の元婚約者で、帰国のお迎えにあがりました」
「元婚約者だと?」
ぴくり、とセオドアの額に青筋が立つ。
「陛下にはご迷惑をおかけしました。この偽者王女は責任をもって我が国が引き取りますのでご心配なく。王女もそれを望んだからこそ、こうして馬車に乗っているのですよ」
「戯言を! ではなぜ涙を流しているのだ? おおかた貴様が無理やり乗せたんだろう!」
「……噂通り頑固な皇帝ですね」
ジークハルトの顔から表情がすっと抜け落ちる。
「貧しいラングレーなど怖くない。邪魔者には強硬手段に出てもよいと言いつかっています。……たとえ皇帝陛下でもね!」
彼は口の中で素早く呪文を詠唱する。手のひらからセオドアに向けて氷の棘を打ち出した。
寸でのところで避けたものの、馬が驚いてバランスを崩す。落馬は免れたが後退を余儀なくされたセオドアは「ちっ」と舌打ちをした。
狼狽したルビーがジークハルトに取り縋る。
「ジークハルト様っ! 陛下は関係ありません。わたしは抵抗しませんから手荒なことはやめてください!」
ベルハイムに帰ることは仕方がないと思っていた。行く当てもなかったし、少しでも祖国の役に立てるのならば、聖女に仕えて民のために生きるのもいいだろうと。甘んじた気持ちで馬車に乗っていたのは事実だった。
けれどもセオドアを傷つけるのは話が違う。彼は何も関係ない。
「うるさいですね。僕の邪魔を許した覚えはないですが」
無表情のジークハルトがルビーに向き直り、呪文を詠唱する。手のひらから魔術が放たれようとした瞬間、窓から飛び込んできた短刀が彼の頬をかすめて壁に突き刺さった。
「王女に手を触れるな!」
再びセオドアが馬車の横に追い付いていた。
彼は腰に佩いた大剣を抜き、勢いをつけて馬車の扉の隙間に突き立てる。てこの原理で何度も力を籠めると、けたたましい音を立てて扉が剥がれ落ちる。派手な音を立てて道路の後方へ転がっていった。
馬車の中はむき出しになり、強風にあおられた雨粒がドレスをまたたく間に濡らしていく。
「こっちへ来い、ルビー! 君はもう自由なんだ。あんな国に帰って誰かに縛られる必要はない!」
セオドアが懸命にこちらに手を伸ばしている。
その手を握ることができたらどれだけいいだろうかと、ルビーは押し込めていた感情が決壊しそうになっていた。
(……嫁いで来てから、こんなにも世界は広くて新しいことで溢れているのだと知ったわ。塔の窓に切り抜かれた風景なんて、すごくちっぽけなものだった。大地に果てはないし、お日様の光は温かくて気持ちが良い。それを思い出させてくれたのは陛下だった)
偽者だった自分を放り出すことだってできたのに。セオドアの行動にはいつだって不器用な優しさがあった。
エマと過ごした魔の森でのスローライフ。共に暮らす眷属の仲間たち。親切で辛抱強いラングレーの民たち。この国に来てから自分は確かに、生きることが楽しかった。
「俺を選べルビー!」
セオドアは懸命に叫ぶ。
「時には失敗することもあるだろう。それは俺だって同じだ! 諦めるな! 生きたい人生を生きろ!」
言葉は運命の時を告げる鐘のようにルビーの心を打ち響かせた。とめどない涙が両頬をつたう。
(――ごめんなさいアクアマリン、ジークハルト様。塔の狭い世界で生きていた、従順なルビーはもういないみたい)
わたしはこの人の側で生きていきたい。
たとえ皇妃という立場を誰かに譲り渡すことになったとしても、この人の治める国で幸せを祈りたい。
(また迷惑をかけてしまうのかもしれない。それでもわたしはあなたと共に、自由に生きてみたい!)
伸ばされたセオドアの手を取ろうとするルビーの前に、醜悪な顔をしたジークハルトが立ち塞がる。
「させませんよ。あなたは僕と帰るのです――うわっ!?」
彼の顔にマイケルが飛び掛かった。鋭い前歯で鼻を噛み、爪で頬を掻く。クロガラスは容赦なく嘴で頭を刺し、ホワイティは大量の糸を吐き出して手と足を縛った。
「みんな……! ありがとう!」
しかしそれも、魔術師団長が相手ではわずかな時間稼ぎに過ぎない。
眷属たちが彼の動きを止めた一瞬の隙に、ルビーは馬車から身を乗り出す。セオドアが広げた腕に向かって思い切り飛び出した。
「――――っ!!」
大きな腕でしっかりと抱き留められる。雨に混じって彼の香りがした。
「よく頑張った。しっかり掴まれ!」
セオドアは左腕でルビーを抱えながら手綱を握り、右手で大剣を持ち直す。
「許さない……僕を馬鹿にして……っっ!」
激高するジークハルトは完全に眷属の妨害から抜け出していた。怒りに任せて両手から次々と魔術の攻撃を打ち出すが、すべてセオドアの剣に弾き返されて当たらない。
「くっ! なぜだ……!」
「ラングレーは貧しいが、命を懸けて冥府の魔物と戦っている。腑抜けた国の魔術師団長ごときに俺は倒せない」
「ならばこれならっ……!」
「しつこい奴だ。ルビーが戻ってきたのだから、もう貴様に用はない」
特大の火の玉を作り出して攻撃を仕掛けるジークハルトだが、それもやはり剣に弾かれる。それどころか狙ったように馬車に跳ね返り、青ざめるジークハルトを呑み込んであっという間に火だるまと化していった。
炎上して失速する馬車を尻目に見ながら、セオドアとルビーは先に駆けていく。
馬車が見えなくなってしばらく経つと、彼女は強張った顔のままセオドアを見上げた。
「……ジークハルト様は大丈夫でしょうか。さすがに命までは……」
「腐っても魔術師団長だ。死ぬことはないだろう」
安堵したルビーはやっと全身から力が抜ける。極度の緊張から解放されてふっと意識を失った。
そんな彼女を大事に抱きかかえ、セオドアは徐々に馬足を緩めるのだった。