三十七話
セオドアは憔悴していた。
倒れた女性患者の介抱を終えると、ルビーが忽然と姿を消していることに気がついた。
しまった、と思った。吐血した患者の容態に気を取られ、彼女への配慮を欠いてしまったと。
手分けして病院の敷地内を探したが見当たらない。先に宿に戻っているのかと思い居室を確認するも、空っぽだった。
しかしテーブルの上に目が留まる。一枚の紙が置いてあった。セオドアは、ひどく嫌な予感がした。
『セオドア陛下
ご迷惑をおかけしてしまい、本当にすみません。
やはり、わたしは妻としてふさわしくありません。
これは最初から間違った婚姻だったのです。
離縁いたしましょう。
今までのご親切に心から感謝申し上げます
ルビー』
「っくそ!!」
「なんてこと……ルビー様っっ……!」
書き置きを読んだセオドアは激怒し、エマは泣き崩れた。
「明日以降の予定はすべて中止だ。皇妃の捜索に向かう」
「「ははっ!」」
行方がわからなくなってからまだ一時間ほど。そう遠くには行っていないはずだ。
(王女は土地勘がない。サウス・ハーバーの先に進むよりも、もと来た道を引き返すと考えるほうが自然だ)
宿の外に飛び出したセオドアは厩に走る。最も脚の速そうな一頭を瞬時に判断し、背に飛び乗った。
◇
緊張感が支配する馬車の中では、ジークハルトが不機嫌そうにルビーを眺めていた。
「……どんなひどい扱いを受けているかと思っていたら、存外幸せそうにしているので驚きました」
「なぜあなたが近況を知っているの?」
この元婚約者とは、塔に幽閉されることが決まってから今まで十年間、一切連絡を取っていない。
得体の知れない恐怖を感じながら、ルビーはおそるおそる聞き返した。
「あなたを連れ戻す機会をうかがってましたから。シルクラインから好機を待っていたのですが、セオドア帝がずっと張り付いているので難儀しましたよ。まったく過保護な皇帝だ」
その言葉に、ルビーはもしかしてと思う。シルクラインの郵便協会で感じた視線。あれはおそらくジークハルトだったのだろうと。
「アクアマリンはどうしてわたしを連れ戻したいのかしら」
「教えて差し上げましょう」
ジークハルトはベルハイム王国の状況を語りだした。
ルビーが嫁いだあと、なぜか瘴気の影響が増して農作物の取れ高が激減していること。
そのためアクアマリンが聖女として忙しくなり、疲弊していること。
そんな中でもアクアマリンはルビーの身の上を案じ、自分の侍女として戻ってきてもいいと言っていること。
「――アクアマリン殿下の恩情に感謝することですね。姉妹だからと気遣いを忘れず、あなたのような不気味な人間にも手を差し伸べるのですから」
「……そうね」
「そういえば、旅の道中で聖女の真似事をしていましたね? 形だけでも気に入られようと必死なのだと哀れになりましたよ。あんな嘘はすぐにばれるというのに愚かな人だ」
「あっ、あれは本当に――」
ジークハルトはシルクライン以降の状況しか知らないだろうから、真実を知らないのだ。ルビーはぱっと顔を上げて説明しようとしたが、鋭い視線と目が合うと本能的に押し黙った。恐怖が支配するこの馬車の中では迂闊なことを言わない方がいいだろうと直感した。
言葉の途中で黙り込んだ彼女をジークハルトはあざ笑う。
「あなたは聖女じゃない。ただの毒使いなんですから、身の程をわきまえた方が良いですよ」
「……そうね。その通りよ……」
「この役目を言いつかったのが僕でよかった。他の者にあんな恥さらしな姿を見られたら、国王陛下の評判まで下がります」
「ええ……そうね……」
酷い言葉を浴びせてもしおらしいルビーが面白くない。動揺して涙を流せばいいのに。無理矢理連れ去られるのを恐怖すればいいのに。ジークハルトは胸の中に渦巻く汚い感情を抑えきれなかった。
「あなたが聖女であれば――いや、そのような贅沢までは言わない。ただ普通であればよかったのに。毒使いなどという薄気味の悪い存在でなければ、僕は婚約破棄という不名誉を負わずにすんだんだ」
吐き捨てるように言って目を細める。蛇のような視線でルビーをねめつけた。
ジークハルトは王家の血を引く侯爵家の嫡男で、いまや魔術師団長を務めている。有能ではあるが、恐ろしくプライドも高い男だった。
「僕の人生の唯一の汚点がルビー、あなただ。そういえば、そのことをまだ謝ってもらっていないけど?」
「あ……。ほんとうに、ごめんなさい。あなたはなにも悪くなかったのに……」
「口ではどうとでも言える。アクアマリン殿下の侍女として働きつつ、特別に僕のところでも仕えて償うチャンスを与えよう」
目にしたことのないジークハルトの表情に、ルビーははっと身をすくめた。その様子を見て、彼は初めて満足そうに口角を上げる。
怯えるルビーに端整な顔を寄せ、手袋の指先で意地悪に顎を持ち上げた。
「化け物のくせに、自分だけ幸せになろうだなんて許さないよ?」
「……っ」
息が詰まった。ルビーの大きく見開いた瞳から一筋の涙が頬を伝う。
――外は豪雨が続いている。しかしルビーには、馬車の後方から疾走する蹄の音が聞こえた気がした。