Side ジークハルト
ライデンベルク侯爵家の悲願は、公爵家への格上げだった。
王族の血を引く家柄といえ、それは何代も前の話。家格を保つためにはあまりに埃を被りすぎた理由だった。
格上の公爵家からは見下され、格下だが実績のある伯爵家・子爵家からは「名ばかりのはりぼて貴族め」と陰口を叩かれる。幼い頃からジークハルトは人間の裏表を嫌というほど感じて育った。「自分を馬鹿にした奴らより偉くなって、床にひれ伏させてやる」そんな歪な思いを抱えながら孤独に勉強に打ち込んでいた。
父が「喜ぶのだジークハルト! ルビー王女殿下の婚約者に内定したぞ! これで我が家の格上げは確実だ!」と部屋に駆け込んできたのは、十六歳のときだった。
自分の力ではなく、また他人の力で家格を手に入れるのか……。嬉しくないわけではなかったが、複雑な感情だった。
ルビー第一王女は八歳年下とまだ幼い。結婚という実感は湧かなかったが、その日から『良き兄』として城に通い始めた。
ルビー王女は太陽のように明るく温かな性格だった。いつもニコニコとして穏やかだし、相手が貴族だろうが使用人だろうが別け隔てなく親切にする。彼女の回りにはいつも自然に人が集まっていた。
誰もがルビーに夢中だったが……ジークハルトには彼女が眩しすぎることがあった。自分のように心に影を持った人間には手に余る。この少女と自分は住む世界が違う。心にしこりを感じながら、隣で顔に笑みを貼り付けていた。
そしてある日気づいてしまう。いつも一歩ひいたところで姉を見つめているアクアマリン第二王女。彼女が浮かべている笑みは、自分のそれとそっくりなことに。
「――アクアマリン殿下。僕と少しお話をしませんか?」思わずそう声をかけていた。
ルビー王女に会いに行きつつも、彼女のもとには多くの人が集まるので、あえて自分が話しかけなくても楽しそうにしている。自然とアクアマリン王女と会話を交わす時間が増えていった。
「お姉様はね、なんでも持っているの。なんにも努力していないのに、いつも一番いいものに囲まれているのよ。不公平でしょう?」――その言葉はすっと胸に入っていった。自分がルビー王女に抱いていた感情は正にそれ。生まれながらに王族で、回りには人が絶えず、誰に訊ねても「ルビー王女はお優しくて親切だ」と褒められる性格。自分がどんなに努力しても手に入らなかったものを全て持っている。彼女の隣りにいると自分が惨めに思えるのだ。
「そうですね……。世の中は不平等だ。僕みたいな人間のことなんて、ルビー殿下は一生理解できないでしょう」暗い声で呟くと、アクアマリン王女は励ますようにツンと唇を尖らせた。
「お姉様ったら。ジークハルト様を放っておいて、近衛騎士と楽しそうにお話しているなんて。ひどいわね!」
「あはは。それは別にいいんです。アクアマリン殿下とお話するのも楽しいので」
「そうなの? ジークハルト様は魔術も上手なんでしょう? お姉様にはもったいないから、わたくしの婚約者になったらどう?」
「ご冗談でも嬉しいですね。もしアクアマリン殿下が困ったことがあったらいつでも言ってください。義兄として助けになりますよ」
「本気なのに。わたくしがとびきりの美人になってからじゃ遅いんだからね!」
アクアマリン王女と自分は同じコンプレックスを抱えていた。彼女とは年が離れていたけれど、不思議とありのままの自分を出すことができた。自分の人生で、初めて訪れた平和な時間だった。
ところが事態は二年後に一変する。十歳を迎えたルビー王女の天星が『毒使い』だと判明したのだ。
国王は怒り、王妃は泣いた。かわいがってきた娘が化け物だと判明した心中は察するに余りある。けれどもジークハルトはどこか心のなかで「すべてが上手くいく人生なんて無いんだ」と愉悦を感じずにはいられなかった。
一方で、ルビー王女によって婚約破棄という不名誉を負わされた怒りも猛烈に感じていた。当然公爵家への格上げは白紙に。ライデンベルク侯爵家は再び社交界から後ろ指をさされる存在に成り下がってしまった。
塔に幽閉されていい気味だと思った。所属している魔術師団で逃亡防止の魔術結界を張ると聞いたときは、自ら名乗りを上げた。憎しみをぶつけるように、何重にも結界を張った。
その一年後、アクアマリン王女の天星が『聖女』だと分かったとき、ジークハルトは心から嬉しかった。同じ苦悩を抱えていたアクアマリンも、ようやく日の目を見ることになる。ルビーに奪われていたものが彼女に与えられるようになり、幸せそうに笑っている姿を見るのが好きだった。
時が流れ、幼かったアクアマリンは美しく成長した。いつしかジークハルトはアクアマリンに恋情を抱くようになっていた。
美しい聖女である彼女のもとには多くの人が集まるようになり、直接顔を合わせる機会はなくなった。何年も遠くから眺めるだけになってしまったが、彼女と深いところでわかりあえているのは自分だけだという自負があった。好機さえあれば、国王にアクアマリンの降嫁か自分の婿入りを願い出ようと考えていた。
だから、アクアマリンの使いから「ラングレー皇国に嫁いだルビー元王女を探し出し、ベルハイムに連れ戻してほしい」と依頼が来たときにはチャンスだと拳を握りしめた。それだけに留まらず、アクアマリン王女はジークハルトを部屋に招いた。「お久しぶりですね、ジークハルト様。懐かしくて気持ちが溢れ出してしまいそうです……」としなだれかかり、そのまま閨にもつれ込んで一夜をともにした。幾度夢に見たかわからない、幻のような時間だった。
「お姉様を連れ戻したら、あなたを公爵にできる。そうしたら……わたくしたちが一緒にいても文句を言える者はいないわ」耳元でうっそりと囁くアクアマリンの声が忘れられない。
「ルビー殿下に僕の人生を汚したことを謝らせ、アクアマリン殿下の心を手に入れる一石二鳥のチャンスですね」
失敗は許されない。必ずこのチャンスを物にする。
ジークハルトは決意を胸に、ラングレー皇国へと旅立った。