三十六話
地面に倒れ伏す血まみれの患者。
すぐに院長とセオドアが駆け寄り、バタバタと人が行き交って担架が持って来られる。
騒然とする会場。突っ立ったままのルビーは何が起こったのか理解できずにいた。
(わたしが解毒をした途端に体調が悪化した……。なにか間違ってしまったのかしら!?)
いつもと同じようにやれたと思ったが、失敗したのだろうか。泣きそうになりながら女性の身体に意識を集中させる。
するとさっきまでは毒の気配が一切なかった肉体に、これまで目にしたどの毒よりも強くて禍々しい猛毒が渦巻いていた。
(――!? しかもこの毒は……)
その正体がわかったとき、背筋に冷たいものが走った。
(わたしの毒だわ。この毒は、間違いなくわたしから出た痕跡がある)
毒使いの本能が残酷な答えを告げていた。
ルビーはようやくすべての辻褄が合ったことを悟る。
(わたしの能力は解毒することじゃない。『毒使い』である自分が持つ猛毒を塗り重ねて打ち消しているだけなのだわ。だから毒に当てられていない人に使うと猛毒状態にさせてしまう)
しかも今回は、相手が体力の衰えた病人だったことがまずかった。
手料理という間接的な形でもなく、全力で祈りを捧げてしまったから。猛毒に肉体が耐えられなかったのだ。
「ごめんなさい……ごめんなさい……。誰も傷つけない力だなんて、そんなのは思い上がりだった……」
ルビーの両頬に透明な筋がつたう。視界の片隅には、畏怖の視線を自分に向ける住民たちが映っていた。
(陛下の大切な民を傷つけてしまった。お父様とお母様の言う通り、わたしは外に出てはいけない人間だったのだわ)
――もうここにはいられない。
ルビーは悲しみに暮れながら、セオドアと医師らに囲まれる女性患者に向かって祈りを捧げる。自分が与えてしまった猛毒を呼び戻し、解毒した。
セオドアがルビーの姿が見当たらないことに気付いたのは、ほどなくして女性患者が意識を取り戻したあとのことだった。
◇
サウス・ハーバーには、しとしとと雨が降り始めていた。
人混みに紛れて病院を出てきたルビーは、宿屋に戻って最低限の荷物だけ持ち、力なく海沿いの街道を歩いていた。
馬車でこの街に入るときは、あんなに楽しい気持ちだったのに。迫力満点で岸壁に打ち付ける波は、今や自分を拒絶しているように感じられた。
彼女のちいさな頭の上にはクロガラスがとまり、羽を広げて少しでも雨から守ろうとしている。後ろにはマイケルらポイズンラットたちがついてきていた。
「みんな、ごめんね。もうこの国にはいられないの。ベルハイムに戻ることもできないし、正直なところ行く当てはないわ。無理してついてこなくて大丈夫よ」
「チチィッ! チ~ッ!!」
怒ったようにマイケルが鳴く。トコトコとルビーの身体を駆け上り、頬に身体を摺り寄せた。
「……ありがとう。あなたはどんなときも側にいてくれるのね」
雨脚が強くなる。ルビーはうつむきながら一歩一歩、地面を踏みしめるように歩き続ける。
打ち付ける波音も相まって、正面から一台の馬車が近づいていることに気が付かない。馬車が目の前に止まり、背の高い男性が下りてきたところでようやく顔を上げる。
魔法陣の刺繍が縫い重ねられた豪奢なローブ。滅紫色の髪に理知的な片眼鏡。青年はずぶ濡れのルビーを見下ろして、氷のような眼差しを向ける。
「お久しぶりです、ルビー元王女殿下」
かつて親しく会話を交わした声色とは正反対の底冷えするものだったが、ルビーは大きく目を見開く。
「ジークハルト様……!?」
「アクアマリン殿下の命により、あなたを連れ戻しに来ました。同行願います」
「どうしてアクアマリンが? あの子になにかあったの?」
「詳しいことはベルハイムに向かいながら話しましょう」
ジークハルトは強引にルビーの腕を取って馬車に押し込む。彼女の正面に腰を下ろしたが、警戒心を隠そうともしなかった。
「元婚約者とはいえ、あなたは毒使いです。妙な動きをしたら命の保証はないとだけお伝えしておきましょう。これでもベルハイム王国魔術師団長を拝命していますから、抵抗するだけ無駄ですよ」
「そ、そんなことしないわ……」
ルビーは漠然と、二度と毒使いの力を使うことはないだろうと感じていた。また誰かを傷つけてしまったらと思うと、自分自身が怖かった。
まったく状況が呑み込めないまま、馬車は豪雨の中を走り始めた。