三十五話(前)
「王女! 大丈夫か!?」
ルビーが馬車の中に戻ってすぐにセオドアも追いついた。
乱れた髪を見て、よほど急いで来てくれたのだろうとルビーはぼんやりと頭の隅で考えた。
「取り乱してしまい申し訳ありません。少し動揺してしまっただけで、もう大丈夫です」
ルビーにはマイケルとホワイティが寄り添っていた。彼らの身体を撫でながら、ルビーは笑顔を作ってみせる。
セオドアは大きな体躯を屈めて中に入り、彼女の隣に腰を下ろした。
「住民の様子から事情は察した。『毒使い』ということに驚いているのだな?」
「はい。わたしがもっと上手く説明できたらよかったんですけど、頭が真っ白になってしまって……」
ルビーの困ったような微笑みは、セオドアの胸をきゅっと締め付けた。寂しそうに馬車の床を見つめている彼女の肩をつかみ、強引に自分の方を向かせる。
「君はなにも悪くない。民に尽くす優しい心の持ち主だし、毒使いの能力も人を傷つけるものではなく助けるものだと俺は知っている。どうか、そんな顔をしないでほしい」
「陛下……」
日ごろ積極的に目を合わせようとしないセオドアが、まっすぐにルビーを見つめていた。
胸の奥まで貫くようなまなざしに息を呑む。
「この地で海を相手に日々戦っている民だ。無知ゆえの無礼をどうか許してやってくれないか? 君のほんとうの力を目にしたならば、必ず誤解も解けるはずだから」
ルビーの肩に置いていたはずの手は、いつの間にか彼女の両手を包み込んでいた。
指先から伝わるぬくもりは、張り詰めていたルビーの心をじわりと溶かしていく。
「……ありがとうございます。陛下が励ましてくださったので、元気が出てきました」
作り物ではない自然な表情に、セオドアは少し胸を撫で下ろした。そして彼女の両手を握っている状況に気付き、「すっ、すまない」と慌てて手を離す。
その様子がおかしくて、思わずルビーはぷっと吹き出した。
「陛下の手、温かくて心地よかったですのに。もう離れてしまうのですね?」
「なっ、何を言っているか分からない」
「ふふっ。わたしは陛下のそういうところ、好きですよ」
ルビーの発言に、馬車から逃げ出そうとしていたセオドアは動きを止める。
「――えっ?」
「――えっ?」
真っ赤な顔で振り返るセオドアの疑問符に、深い考えなどないルビーの疑問符が答える。
カチコチに固まるセオドアに、不思議そうな顔で瞼をパチパチさせるルビー。二人の間に妙な間が流れているところにサウス・ハーバーの市長が駆けてきた。
「こちらにいらっしゃいましたか! 申し訳ありません、住民たちが騒ぎすぎてしまって!」
「あっ、ああ。別に問題ないが」
素早く皇帝モードに戻ったセオドアが取り繕う。
「わたしこそすみません。急に出てきてしまって」
ルビーも馬車から降りて出る。すっかり元の落ち着きを取り戻していた。
市長は彼女の顔を見て、「皇妃殿下にお詫び申し上げます」と頭を下げる。
「一部の者が大変失礼な振る舞いをしたと報告を受けています。市長であるわたくしの責任ですので、どうぞ罰をお与えください」
「いえ、全然平気です。住民の皆さんが悪いなんてちっとも思っていませんから。頭を上げてください」
なおも頭を下げ続ける市長。三十代前半ほどのひょろりとした男性で、なんだか苦労していそうな方だわとルビーは胸を詰まらせる。
「『毒使い』とだけ耳にしたら驚くに決まっています。ですので、もしよろしければ、この力をサウス・ハーバーのために使わせてもらえませんか? 大しけが続いて獲れ高が減り、厳しい状況にあると聞いています。少しでもお役に立てればと思うんです」
「この街のために?」
市長が顔を上げる。
「はい。そうですね……、たとえば毒によるご病気で臥せってらっしゃる方がいましたら、治療できるかと思います」
キリルで毒素に侵されたカリンの母親を助けられたように、毒が関係する病気であれば解毒できるはずだ。
「賛成だ。その様子を住民たちにも公開しよう。そうすれば、皇妃の能力は我が国に幸福をもたらすものであることが理解できるだろう」
セオドアが言い添える。
もちろん皇帝夫妻の提案に口を出せる者などいないし、サウス・ハーバーにとってもこの上ない提案だったから、さっそく翌日に市立病院を訪問することが決まったのだった。