三十三話
「陛下、お待たせしました」
「構わない。では街に――」
声の方に振り返ったセオドアは、大きく目を見開いた。
いつも下ろしている長い髪は頭の高いところで結われ、後れ毛がうなじに沿って白く抜けるような鎖骨まわりに垂れている。色とりどりの花の刺繍が縫い込められた異国風のワンピースはよく似合っていて、すらりとして健康的な足も思わず目を引いた。
「その格好は……」
自分は今、どんな表情をしているのだろう。顔が熱を帯びていることを感じて、セオドアは思わず口元を覆った。
ルビーは恥ずかしそうにワンピースの裾をつまむ。
「街に馴染むようエマが気合いを入れてくれたんですが、その、逆にちょっと恥ずかしいです……。すみません」
「そういう意味ではない。……君はラングレーでよくやっている。羽を伸ばすことも必要だろう」
「そう言ってくださると安心します。あの、その……陛下もそのお洋服、よくお似合いですよ」
セオドアも目立たないようにシンプルなシャツとスラックスという出で立ちだった。腰元に剣を佩いており商人の雇われ騎士か護衛に見えなくもないが、スタイルの良さとオーラは隠し切れていない。
「……君ほどではない」
「えっ」
「では行こう。はぐれないように」
セオドアは高鳴る心臓を必死になだめながら、頬を染めるルビーにエスコートの腕を差し出した。
◇
すれ違う女性たちが、軒並み頬を染めて振り返る。どうやらセオドアの精悍さに見惚れているようだと察したルビーだが、当の本人はまったく興味のなさそうな表情を浮かべている。そこで彼女はハッと気がついた。
(陛下ほど立派な方であれば注目を集めて当然よね。皇族として女性付き合いも多いはず。わたしのこの格好ぐらいで何かを気にするなどあり得なかったわね。完全に自意識過剰だったわ……)
皇帝になるような人間であれば、肌面積の多い衣装に遭遇する機会も多くあったはず。いまさら動揺するはずがないことに気づいたのだった。
一人で納得して頷く彼女を不思議に思ったセオドアが「何を考えていたのだ?」と訊ねる。ルビーが考えていたことを打ち明けると、彼は首を横に振った。
「いいや。ラングレーはこういう国だから、ベルハイムのように大規模な夜会などはない」
「騎士団には女性の方もいますよね?」
「それはそうだが、ほとんど男と同じような生活をしているぞ」
「でも、今までお付き合いした女性はいますでしょう?」
無垢な表情で訊ねると、セオドアは渋柿を食ったような顔をして黙り込んだ。
「あっ、別に詮索するつもりはないんです! 陛下の女性関係がどうだったかなんて、わたしが口を挟んでよい問題ではありませんから。忘れてください」
慌てたルビーが顔の前でわたわたと手を振る。セオドアはそちらを見ようとはせず、地面に視線を落としてぽつりと呟いた。
「……俺の母親は、駆け落ちして出ていったんだ」
「えっ」
唐突な告白にルビーぴたりと動きを止める。
「……母は中央の出身だったから、ここでの暮らしの落差に耐えられなかったんだろう。俺が七歳のとき、外交訪問に来ていた中央の王族と駆け落ちしていなくなった。相手は母の幼馴染だったらしい」
「……はい」
いつもより低く弱々しい声のトーン。ルビーは神妙な顔で相槌を打った。
「……正直に言うと俺は女性が苦手だ。母と同じ人間ばかりではないと頭ではわかっていても、心を通わせられるイメージができない。だから誰かと交際する気にならなかったし、愛ではなく金で成り立つ政略結婚でいいと思っていた。おそらく父も同じ思いを秘めていたのだろう。母を追おうとはしなかったし、別の女性を娶ることもなく亡くなった」
「……そう、だったのですね……」
相手に期待して見返りを求めると辛いから。ラングレーは貧しい国だから、嫌になって出ていかれても仕方がない。
諦めきったセオドアの言葉の数々が、ルビーは無性に悔しかった。
(陛下は偽者のわたしにさえ優しくしてくださる素晴らしい方なのに。陛下と本当の夫婦になれる女性は幸せだと思うわ)
想像すると、胸の奥に針が刺さったようにつきんと痛んだ。
その身に覚えのない痛みにルビーは戸惑いを覚えたが、彼を励まそうと「大丈夫ですよ、陛下! わたしは役目を終えるまで必ず陛下のそばにいますから」と二の句を継ぐ。
「お母様もきっとすごく悩まれたのではないでしょうか? 七年以上嫁ぎ先に馴染もうと頑張って、それでもやっぱり無理だった。やむを得ず逃げることで自分の心を守ったのかもしれません。陛下とお父様を置いて出てきてしまったことは、決して忘れていないと思います」
「……どうだろうな」
「わたしなどが誰かの心の内を推し量るなど恐れ多いですが、こんなに素敵な陛下を七歳までお育てになった方ですから。そこには間違いなく愛があったと思うのです。……お母様にこの国は合わなかったかもしれないですけど、貧しくても居心地のいい場所はありますし、豊かでも居心地の悪い場所はあります。わたしはラングレーが大好きですよ!」
セオドアは顔を上げて驚いたようにルビーを見つめていたが、やがて相好を崩す。
「ははっ。君が言うと世辞もそのように聞こえないから不思議だ」
「おっ、お世辞なんかじゃないですよ! 皆さん親切にしてくださいますし、食料も十分にあります。眷属のお友達も増えたので毎日賑やかですし。こんな毎日がずっと続いたら良いのにって、心の底から思ってるんですから」
「……そうか。君もそう思ってくれているのだな……」
彼の声は、ルビーの腹部から上がった音でかき消された。
「あっ……! は、はしたなくてすみません。昼食をまだ食べていなくて……」
消え入りそうな声でルビーが腹を押さえる。照れたようにはにかみながら、ちらちらとセオドアを見上げていた。
その可愛らしい様子を見て、セオドアはずっと心に引っかかっていたものがどうでもよくなってきた。過去がどうであれ、今この瞬間、自分はこの女性と一緒にいたいと思っている。それで十分じゃないかと思った。
「食事にしよう。もう少し行けば食堂が立ち並ぶ区画だ」
「はいっ!」
ルビーは花が咲いたような笑顔を浮かべた。
「どんなお料理にしますか!? 外国料理がいろいろあるんですよね?」
「君が気になるものを食べたらいい」
「えーっ! 陛下はいつもそう言ってくださるじゃないですか。今日こそは陛下の好きなものを食べましょう!」
「俺の好きなもの……」
セオドアはじっと考えながら、ルビーの宝石のような赤い瞳を見つめる。
「……陛下?」
「……激辛料理でも食べるか。真っ赤な香辛料たっぷりの」
「げきっ……!? いやでも陛下がそうおっしゃるなら……っ!」
「くくっ。冗談だ」
「陛下も冗談を言うんですね!? もうっ、ひやひやしましたよ!」
仲睦まじく笑い声を上げる二人に、行き交う住民は温かな視線を向けるのだった。
◇
庶民的なレストランで食事を終えた二人は再び街の散策を続け、夕暮れとともに宿に戻ろうとしていた。その道中、ルビーはある建物で視線を留める。
「もしかして、あれは郵便協会ですか?」
「ああそうだ。なにか気になることでも?」
「ベルハイムに嫁いでしばらく経ちますから、妹の様子が気になっていて。その……結局わたしがアクアマリンの身代わりだということはすぐ明るみになってしまいましたでしょう? あの子が今どのような状況なのか、ずっと気になっていたんです。個人的に手紙を出してもよろしいでしょうか?」
「君が気にかけることではないように思うが……」
善良なルビーは家族の醜い本性を知らない。セオドアからしたら、あんなごうつくばりの一家に気を使うほど無駄なことはないと思うのだが、ルビーがやりたいことを止めたくなかったので渋々頷いた。
「中に手紙を書くスペースがあるはずだ。俺はここで待っているから、行ってくるといい」
「ありがとうございます! なるべく早く戻りますね」
ルビーは郵便協会の中に入り、さっそく手紙をしたためた。
自分はひどい目に遭うどころかよくしてもらっているから、心配しないでほしいこと。
ラングレーは魔の国どころかとても良い所だから、偏見を捨てて一度遊びに来てほしいこと。
もし困ったことがあったら姉としていつでも力を貸すから、何でも言ってほしいこと。
――最後にお父様とお母様にもよろしくね、と書き添えて封を閉じ、窓口に差し出した。
郵便教会の建物を出ると、セオドアの姿が見当たらない。きょろきょろとあたりを見回していると、ふと視線を感じた。
違和感を覚えた方向へ振り返る。すると視界の隅で何かが素早く動き、感じていた視線が途絶えた。
「…………? 誰かに見られていた? 気のせいかしら」
首を傾げていると、別の方向からセオドアが飲み物を持って近づいてきた。
「あっ、陛下! お買い物でしたか」
「すまない。早かったのだな」
「一言二言ですからね。お待たせしてすみませんでした」
ルビーが礼をいうと、セオドアは持っていた飲み物を差し出した。
「歩き回って喉が渇いただろう。飲むといい」
「わたしに? わわっ、すみません」
よく冷えた果実水のカップを受けとる。ルビーの心はほんわかと温かくなった。
今度こそ帰宿の途について会話を交わしているうちに、さきほどの違和感はすっかり頭から抜け落ちていたのだった。