三十話
駆け込んできた女児は、きょろきょろと公園内を見回した。
片づけをしていることに気がつき、沈痛な面持ちになる。
「ごはん、もうなくなっちゃった……」
慌ててルビーが駆け寄ってきてひざまずき、細い身体を抱きしめた。
「ごめんなさいね。遅れてくる人のために、少しでも残しておけばよかったわ」
がっくりしている女児に申し訳なく思っていると、いつの間にか隣に来ていたセオドアが口を開く。
「王女さえよければ、なにか作って明日届けてみてはどうだ?」
「陛下! よろしいのですか?」
「ああ。明日は滞在最終日だ。休息にあてるつもりで予定を入れていなかったからな」
セオドアは女児の服装や健康状態を一瞥し、そう言った。満足な生活ができていないことを見抜いていたのだ。
「なにか、作ってくれるの?」
期待のこもった目でルビーを見つめる女児。ルビーは安心させるように大きく頷いた。
「優しい陛下がお許しをくださったから、あなたの好きなものを作って持って行くわ! 好物を教えてくれる?」
「すきなもの……。わたし、クッキーが好き」
「クッキーね。わかったわ」
「わあい! ありがとう!」
笑顔を取り戻した女児から名前と家の場所を教えてもらい、必ず訪問すると約束して帰らせた。
宿に戻ると、ルビーはさっそく厨房を借りてクッキー作りに取り掛かる。
潰したバイフェン芋に、マイケルたちに集めてもらったナッツを混ぜ込んで、薄力粉を振ってよく混ぜ合わせる。
高価な砂糖の代わりに蜂蜜をたっぷり入れて成形し、外側がカリッとするまで焼き上げれば完成だ。
「――うん! 上手くできた! 内側はソフトな食感で美味しいわ」
女児は喜んでくれるだろうか。このクッキーで、今日はいい一日になったと思ってくれたら嬉しいわ――。
そんな願いを込めながら、夜更けまで黙々と作業を続けるのだった。
◇
翌日。女児の家を訪れるルビーの隣には、当然のようにセオドアがいた。
宿で休むことを勧めたのに、「民の暮らしを視察したい」との一点張りで、ぴったりと着いてきたのだった。
キリルの中心部から離れた小さな集落に女児の家はあった。風が吹いたら倒れてしまいそうな、ちいさな木造住宅だった。
ノックをすると、間髪入れずにドアが開く。
「ほんとうに来てくれた! ありがとう!」
「こんにちは、カリン。それにしても、すぐにドアを開けてくれたのね」
「だってずっとドアの前で待ってたから! ねえねえ、クッキーを持ってきてくれたの?」
「もちろんよ。約束したものね。はいどうぞ」
綺麗にラッピングした袋を渡すと、カリンは小さな身体を飛び上がらせて喜んだ。
「やったぁ! お母さん、クッキーだよ! 皇妃さまがほんとうにクッキー作ってきてくれたの!」
「お母さまと住んでいるのね。ご挨拶をしてもいいかしら」
「うん! でもね、お母さんは病気なの。こっちだよ!」
隣の部屋に入ると、若い女性がベッドから起き上がろうとしているところだった。ルビーたちを見て、ただでさえ白い顔がさらに青ざめる。
「あ……。皇妃殿下に……皇帝陛下。申し訳ございません。今ご挨拶を……」
「そのままで構わない。動くのも辛いとお見受けする」
「どうぞ横になってください。ご病気のところに押しかけてしまってすみません」
「恐れ入ります。ここ一年ほど調子を崩してまして……。恥ずかしながら、娘と二人で生活補助金をいただいて生活をしている有様なんです……」
「恥ずかしいなんてことないです。病気になりたい人なんていないんですから、しっかり休んでください」
母親をベッドに戻すと、カリンが待ちきれないといった顔で声を上げる。
「ねえねえ、みんなでクッキー食べようよ!」
「カリン。あなたがいただいたものだから、母さんは大丈夫よ」
「嫌だ! お母さんも食べるの! 全然ごはんを食べないんだもん!」
カリンが機嫌を崩して半泣きになると、母親は困ったように眉を下げる。
「……じゃあ、一枚だけいただこうかしら」
「うん! みんなで食べると美味しいよ!」
カリンが張り切ってクッキーを配る。「いっせーのせね!」という声に合わせて頬張った。
「……美味いな」
セオドアが唸ると、カリンも丸い目を輝かせる。
「と~っても美味しい! カリン、これ大好き!」
「口に合ってよかったわ。バイフェン芋で作ったのよ。ナッツはわたしの友達が集めてきてくれてね――」
話に花を咲かせるルビーとカリンの横で、母親は目を見張っていた。
「ほんとうに素晴らしいクッキーだわ。なんだか身体が楽になったみたい」
「お母さんも!? じゃあもっといっぱい食べて! たくさん作ってきてくれたの!」
「そうね……いただきましょう」
そうして母親はクッキーを十枚平らげた。それはかなり珍しいことのようで、カリンは目を丸くした。
「お母さんすごい。なんだか元気になったみたい」
「不思議だわ。食事をとると胃が痛くてたまらないのに、このクッキーは食べるほど身体が軽くなる気がする」
母親は腹部に手を当てて怪訝な顔をするが、流れるように十一枚目のクッキーに手を伸ばした。
その様子を見て、セオドアは何かに気付いたようだった。
「ご婦人。あなたの病とはどういったものか教えてくれないか?」
「こっ、皇帝陛下」
母親は居住まいを正して答える。
「お医者様が言うには、毒素だそうです。何らかの原因で病の素が体内に入り、毒素と呼ばれる悪いものを出しているとのことでした。瘴気とはまた違うようで、とにかく養生して身体が病に勝つのを待つしかないとの見立てでした」
「毒素、ですか?」
ルビーが反応すると、セオドアが彼女に向き直る。
「君は毒使いだ。毒素なるものにも能力が通じるのだろうか?」
「どうでしょうか……。でも、一先ずやってみますね」
一つ頷いたルビーは母親の手を取り、精神を研ぎ澄ませる。
手首に触れる脈からは、母親の身体の叫び声がきこえた。毒素がどのようなものであったか、どれだけ手ごわいものであったか。満身創痍の細胞たちは、最後にルビーに感謝を告げて去ってゆく。
しばらくして顔を上げたルビーは、こう言った。
「毒素の残渣は感じますが、もう消えています。一年前に食べた貝が病の素を持っており、胃で毒素を出していたようです」
「貝……。確かに食べたわ。珍しい品が安く売られていると思って……」
「病気、なおったの!? お母さんっ!」
飛びついてきたカリンを、母親は細い腕でしっかりと受け止めた。
「皇妃様は聖女様なのでしょうか? 病気を治すお力があるなんて……」
「いえ、違うんです。わたしがわかるのは毒についてだけで……。もう一度お医者様にかかって確認してみてください」
それに、ルビーには解せないことがあった。いつもなにかを解毒するときは呪文をとなえているが、今回はそうでない。思い当たることと言ったら手製のクッキーを食べたことだけなのだ。
涙を流して抱き合う親子の横で、ルビーは思案に暮れた。
そんな彼女を気遣って、セオドアが腰を上げる。
「長居してしまったな。ご婦人はこれから医者にかかるだろうし、我々は帰るとしよう」
母親ははっとしてベッドから出て、床に頭をつけた。
「このご恩は一生忘れません。皇帝陛下と皇妃殿下のために、身を粉にして働きます」
「お母さんを助けてくれてありがとう! カリンも立派な大人になって、お国の役に立つの!」
セオドアとルビーが家を後にすると、中からは再び幸せそうな笑い声が上がる。
ルビーは胸の奥から温かい気持ちが湧きあがり、一度だけ振り返る。自然と言葉を紡いでいた。
「ルビー・ローズ・デルファイアの名に於いて命ず。いかなる毒も、未来永劫、親子の幸せを妨げぬよう」
◇
キリル最後の夜。
ルビーは夕食後、セオドアの部屋に呼び出されていた。
この間とは違ってしっかりと服を着こんでいるルビーが部屋をノックすると、「入ってくれ」とすぐに返事があった。