二話
ラングレー皇国皇帝、セオドア・レオナール・ラングレーは、その日の朝から至極不機嫌だった。
冥府との間にある魔の森からゴブリンの大群が湧いただの、困窮した民が税の軽減を訴えて城の外に押し寄せているだの、中央諸国から支援金の減額を打診する使者が来ているだの。
執務室に入ったとたん頭の痛くなる知らせが立て続き、若き皇帝は深くため息をついた。
(討伐しても湧き出る魔物に手一杯だというのに、みな己の利益しか考えていない……)
もともとさして良くなかった機嫌は一秒で大暴落したが、彼はそれを態度に出すほど浅はかな皇帝ではない。表情一つ変えずに的確な指示を出す。
「……ゴブリンの群れには至急騎士団を派遣するように。皇都に入る前に殲滅しろ。劣勢であれば俺も出陣するから知らせろ」
「はっ!」
「今すぐ税を軽減することは難しい。半年前に減額したばかりだからな。ゴブリンのこともあるから、民には今すぐ帰宅して安全を確保するよう伝えろ」
「かしこまりました」
「中央の役人どもには俺が直接話をする。広間で待たせておけ」
「ははっ!」
侍従が退室していくと、ただ一人執務室に残った側近のアーノルドがにやりと笑う。
「今日はベルハイム王国からの輿入れの日ですからね。なんでも聖女アクアマリン姫はその美しさでも有名なんだとか。楽しみですねぇ、陛下」
「……ああ。今日だったか。忘れていた」
「ご冗談を! ご自分の奥様なんですよ。嫁入りの日を忘れるなんて、そんな愚か者が我が国の皇帝であるはずがないでしょう」
「…………」
軽薄な口を利くアーノルドだが、セオドアは苦い顔をするだけで怒らない。
この二人は物心つく前から共に育った兄弟のような関係で、四つ年上のアーノルドは有能な参謀兼宰相としてセオドアの治世をよくサポートしていた。明るい銀髪に涼やかな顔立ちで女性受けは抜群なのだが、腹の中は真っ黒な食えない男である。
文官風な風貌のアーノルドに対して、セオドアは硬質な蒼黒の髪に鍛え抜かれた大きな身体をしている。皇位を継ぐまでは騎士団長として多くの魔物を討伐してきた叩き上げの武官だった。
したがって、二十四歳になるこの年まで恋だの愛だのとは無縁だった。休みの日は仲間の騎士達とむさくるしい友情をはぐくみ、恋の涙ではなく魔物の血で頬を濡らした。彼に怖いものなどなかったが、こと女性関係に関しては面倒だという気持ちが勝る。
「聖女が嫁に来れば国の状況がマシになるだろうと言ったのはお前だろう。俺はまだ妻帯するつもりはなかった」
「そうですよ。あなた様はわたくしが尻を叩かないといつまでも騎士達と遊んでいるでしょう。今ですら男色の噂が出ているぐらいなんですから、早く妻帯したほうがいいんです。ついでに相手が聖女であれば、瘴気にさらされている我が国も多少は豊かになるでしょう」
「……救いはその一点だな。相手が誰であれ国の役に立つんなら結婚に意味が生まれる」
――ここラングレー皇国は、世界の中でも非常に特殊な国だった。
死者や魔物が住まうとされる冥府と、この世界との境界線のすぐ内側に立地している。
国の北側を覆う『魔の森』の向こうは冥府の深淵であり、立ち入ることはすなわち死を意味する。
ラングレーの存在意義は、冥府と中央諸国の間のクッション国。つまり冥府から湧き出る魔物が中央諸国に流れないように討伐し、無駄に広い国土で瘴気を受け止め、身を挺して中央諸国――ひいては世界の安全を担保する国なのだ。
「感謝してほしいですね。お金で聖女を買えたんですから。外交は得意なほうですが、愚かなあの国でなければ無理でした。世界に大聖女がいない今、どの国でも聖女は至高の存在です。他国に流出させず、自国のために地位と名誉を与えて働いてもらうのが常識です」
「当代のベルハイム王族は浪費家だという話は事実だったのだな。……その娘もきっと甘やかされて派手に違いないと思うと頭が痛い。まあとにかく、旅の疲れが一段落したらさっそく瘴気を浄化してもらわねば。きちんと働くようであれば俺は何も干渉しない」
「ご自分の奥様に向かって酷い言いようですね」
「うるさい。人のことを言う前におまえも早く身を固めろ。ほら、早く仕事に行け」
にやつくアーノルドを追い出したセオドアは、本日二回目の深いため息を吐く。
好意を寄せている女性がいたわけではないが、自分が今日から『夫』となることには強い違和感があった。
正確には、ベルハイム側の強い希望でアクアマリン姫が出立した日に籍を入れているので、すでに夫となって一か月経っているのだが。
「……金で解決できるのなら、まだマシだ」
化粧がけばけばしかろうが、性格に難があろうが。聖女として国に貢献してくれるのであれば目をつむる気でいた。瘴気が浄化され、魔物の力が弱まれば、おのずと現在この国が抱えている問題も解決に向かうはず。情という不確かなものよりビジネス的な関係のほうが気楽だ。
「……どうせ好いた女などいなかったのだ」
ぽつりと呟き、セオドアは頭を切り替えた。
そして夕刻。花嫁を乗せた馬車が到着したと知らせが入る。セオドアは最低限の礼儀として妻を出迎えに向かった。
城の正門前には、花嫁を一目を見ようと集まった臣下や国民で人だがりができていた。
群衆に驚きを隠しきれないようにきょろきょろと辺りを見回し、身を屈めて馬車から降りる花嫁。
そのとき、質の悪いレースのヴェールが馬車の天井に引っかかった。それに気がつかない花嫁は歩き出す。
「…………!!!!」
その場が一瞬にして凍り付く。
ヴェールと共に金色の髪までもがズルリと抜け落ちる。
……そう。抜け落ちたのだ。
見事な金髪の下から現れたのは、森の深いところに生えている植物のように濃い緑色の髪。
事態に気がつかない誰かは緊張した面持ちでその場に膝をつき、そして自分ではない名を口にする。
「ベルハイム王国第一王女、アクアマリンでございます。セオドア陛下に拝謁いたします」
ざわざわとしたどよめきが上がる中、セオドアは額の青筋がぴくぴくと動くのを感じていた。
「……そなたはアクアマリン王女ではないな。何者だ?」
彼の言葉に驚き、はっとして顔を上げる少女。
その純粋無垢な表情が、今のセオドアにはひどく不愉快に感じられたのだった。