二十六話
一週間後、セオドアとルビーはアーノルドら臣下らの見送りを受けて出発した。
ルビーが偽者だということは一部の人間の中では知れた話だが、『皇妃様は偽物だったが、なんやかんや仲良くなったんですね』ということで皆なんとなく空気を読んでいるようだった。
今回の旅行は表向き「皇帝夫妻の国内視察旅行」とされ、ルビーの能力も伏せられている。
「酔ったらすぐに教えてくれ。このバスケットの中には軽食が入っているから好きなときに食べるといい。ああ、背中に当てるクッションもあってだな――」
「お気遣いありがとうございます。でもわたしは平気ですよ。こうして二人で喋っていると、あっという間に着いてしまいそうですね」
ルビーが花のように笑うと、セオドアは驚いたように目を見開き、そしてふいと横を向いた。
「……俺は話し上手ではない。女性が好む話などわからない」
「そんなことないです。わたしは陛下とお話ししていると、とっても楽しいですから」
横を向いても、セオドアの真っ赤に染まった耳は隠せない。心臓の鼓動が馬車の振動に重なって今にも飛び出してしまいそうだった。
(ルビー王女と二人きりか。……この先、俺は大丈夫なんだろうか)
彼は今までに感じたことのない種類の不安に駆られていた。
「旅は輿入れ以来、人生で二回目です! 陛下、半年間よろしくお願いいたしますね」
「……先が思いやられるな」
「えっ、なんとおっしゃいましたか?」
「なんでもない」
いちおうは夫婦なので、セオドアとルビーは同じ馬車に乗せられている。そのうしろにはエマら従者が乗る馬車が続き、そして物資や荷物を積んだ荷馬車が続く。最後尾にはマイケルたちが乗る特製の小さな車が引かれている。
国内の五都市を半年ほどかけて回る旅が始まったのだが――最初の街につく頃には、セオドアは早くも気疲れでヘトヘトになってしまっていたのだった。
◇
一つ目の訪問地は、皇都の西南に位置するキリルという町だった。
到着したのは夕方だったので、その晩はすぐ宿に入り、翌朝から活動を開始する。
「皇帝陛下、ルビー殿下。ようこそキリルにおいでくださいました。町長のモリーと申します。なにもないところですが、ごゆるりとお過ごしくださいませ」
モリーはずんぐりむっくりした白髪の老人で、明るく気のよさそうな人物だった。
「久しぶりだな、モリー町長。こちらがルビー王女だ」
「ご成婚心よりお慶び申し上げます。――しかし、その、"王女"殿下ですか?」
町長や住民の生温かい視線を浴びて、セオドアは顔をしかめる。
「……皇妃だ」
「ルビーです。よろしくお願いいたします」
「お会いできて光栄です、皇妃殿下。さっそくですが参りましょうか。馬車を用意してございます」
半刻ほど馬車に揺られて到着したのは広大な畑だった。
しかし地面には背丈の低い植物や芋のつるがぽつぽつと生えているだけで、緑の部分より土肌が見えている面積のほうが広い。
「ここキリルは我が国随一の農業地帯だ。普段の食事に使われる野菜は、輸入品以外だとだいたいキリル産だ」
セオドアの説明を受けて、ルビーは素朴な疑問を口にする。
「冥府に近い皇都からそれほど離れていないのに、農作物が育つのですね」
モリーは「皇妃殿下は聡明でいらっしゃる」と、質問を受けたことを嬉しそうに答える。
「冥府の方角に高い山脈があるため、瘴気の影響がわずかながら軽減されるのです。加えて豊富に湧き水が出ますので、農地に適しているというわけです」
「なるほど、あちらに見える山々ですね」
「ええ。山から川も流れてはいますが、そちらは瘴気の影響があるのでもっぱら下水用です」
「下流の町で湧き水が出ないようなところは川水をろ過して使っているがな。ろ過装置も高価だからバカにならん」
聞き慣れない言葉にルビーが聞き返す。
「ろ過装置、ですか?」
「川水に含まれる有害成分を吸着して、生活水として使えるようにする装置のことだ」
「なるほど、魔術を使って作る類のものですね。とても高価そうです……」
「そういう町では水は高級品で、やむを得ず雨水をためて使う民もいると聞きますな」
「まあ……!」
ラングレーの国民は思った以上に不便な暮らしをしているようだと、ルビーは胸を痛めた。
祖国のベルハイム王国では普通に農作物が育ったし、川の水は飲むことができた。それは王族だけでなく、国民すべてがそうだったはずだと。
「――畑を見て回ってもよろしいでしょうか?」
「もちろんでございます。作業をしている者もおりますが、お気になさらず見学なさってください」
モリーに断りを入れ、ルビーは靴に土埃がつくのも構わず農道に入る。
(あれはソラマメのはずだけど……固い実のまま収穫されているわね。瘴気の影響であれ以上大きくならないのだわ)
離れの離宮にいたころ、食卓に並ぶソラマメがなぜカチカチなのか不思議に思ったものだ。煮込まれてはいたがやはり固く、味も熟したものに比べて劣っていた。
てっきり品種の問題かと思っていたが、葉の形を見るにベルハイムでも一般的に食べられているものと同じだ。
(あっちではブルーベリーを採っているみたいだけど、やっぱり若いわね。未熟な果実は栄養が乏しいのに)
結局、畑の中でまともに育って収穫できているものはホッフェン芋とバイフェン芋ぐらいだった。皇国随一の農業地帯でこうなのだから、国内の状況は推して知るべしだった。
一通り様子を見て回ったルビーが馬車の近くに戻ると、セオドアとモリーが話し込んでいる。
「いつも苦労をかけてすまないな。キリルによって我が国の食卓は支えられている」
「お心遣い痛み入ります。陛下のご理解があってこそです。新しい耕運機を購入くださったおかげで、今季はずいぶん作業が楽になりました」
「ラングレーは豊かになれぬ運命ではあるが、せめて飢えることだけはないようにしたい」
「おっしゃる通りです。腹が満たされていれば、たいていのことは乗り越えられますからな」
やりとりを耳にしたルビーは身が引き締まる思いだった。どうにかして自分も、この土地とセオドアの役に立ちたいと思った。
人の気配に気づいたセオドアが振り返る。
「戻ったか。そんなところに立ってどうした?」
いつもと違う様子のルビーを不思議に思い訊ねるセオドア。
ルビーはちいさな手にこぶしを握り、凛とした決意の表情で宣言する。
「わたし、この畑を解毒します!」
「「――は?」」
セオドアとモリーは目を丸くした。