幕間 アクアマリンの憤怒
「こんな質の悪いお菓子、口にできるわけないじゃない! 今すぐ取り替えてきて!」
「恐れながらアクアマリン様。今期は小麦の質が悪く、こちらが最上級のお品なのです」
「~~~~っ。ああ言えばこう言うのね! いつからそんなに生意気になったのかしら」
アクアマリンが右腕を払うと、テーブルの上に並べられたティーセットがけたたましい音を立てて床に落ちる。
小さく一口だけ齧られたクッキーも、すべてばらばらと散らばった。
お付きのメイドが「お許しくださいませ」と真っ青な顔で何度も頭を下げる。
「はぁ。つまらない。ほんとうにつまらないわ。聖女としてベルハイムを守護しているのに、まともなお菓子一つ食べられないなんて」
姉のルビーが自分の身代わりとして嫁げば、『アクアマリン王女の双子の妹』として表舞台に戻るまで悠々自適に過ごせるはずだったのに。王女の身分も聖女としての地位も失うことなく、莫大な結納金としばしの余暇を得られるはずだったのに。
しかし計画は輿入れの初日に明るみになってしまった。それもこれもすべては間抜けな姉のせいだ。
「お姉さまってほんとうにグズなのね。おかげでまったく休めなかったわ」
結納金は思ったより早く底をついてしまい、すぐに退屈な日常が戻ってきた。
聖女としての役割は面倒だからやりたくない。力を使うと疲れるし、肌の調子も悪くなる。自分は『美貌のお姫様』でなくてはいけないから、身を削る仕事なんてやりたくない。
「ドレスが汚れるから国内視察も行きたくないわ。汚らしい田舎の民に話しかけられるのも嫌だし、粗末な食事は肌に悪いもの」
当分休めると思っていただけに、そうでなかった結末が受け入れられない。
更に運の悪いことに、輿入れと時を同じくして国内の農作物の質が悪くなり始めた。どうせ農民たちがサボっているに違いないのに、どうして高貴な聖女である自分が粗末な菓子を食べるはめにならないといけないのか。
爪を噛んでイライラしていると、私室の外から呼び声がかかる。
「アクアマリン様。国王陛下がお呼びでございます」
「お父様が? なにかしら。食事が粗末になったぶん、新しい宝石でも買ってくださるのかしら!」
途端にアクアマリンは機嫌を取り戻す。床に散らばったクッキーを高いヒールで踏みつけて、父の執務室へ向かった。
◇
父の話は想像と百八十度異なるものだった。
「公務をおろそかにしてはいないか、アクアマリンよ。今年、我が国の一次産業は軒並み収穫量が落ちているうえ質も悪い。一部の学者の間では瘴気が強まっているのではないかという話だ」
「瘴気が? わたくしはなにも存じ上げません。日々の務めに手を抜くなどもってのほか。時間さえあれば常に祈りを捧げておりますわ」
「そうか……。すまない、アクアマリンよ。少々気が立っていたようだ」
父王は語気をやわらげた。
「おまえが日々我が国に尽くしてくれていることは知っている。しかし今は国の危機なのだ。毎朝祈りを捧げていると思うが、昼と夜にも祈祷してほしい。それと今週末には南方の農作地へ足を運び、民を叱咤激励してくれないか」
「……今週末は、隣国の王太子殿下を歓待するパーティーがあるはずでは?」
隣国の王太子セルディオは二十歳。見目麗しく、剣の腕もかなりのもの。いまだ婚約者がいないということもあって未婚令嬢の憧れの存在である。アクアマリンも、彼がどうしてもというのならお付き合いしてもいいと思っていた。
このパーティーで彼から声を掛けられることを楽しみにしていたのである。
「おまえには聖女としての役割を優先してもらいたい。歓待はオパール公爵令嬢が代理出席する方向で調整している」
――オパール公爵令嬢ですって?
アクアマリンは奥歯を噛みしめた。
社交界での序列はもちろん自分が一位だ。その次にくるのが同い年のオパール公爵令嬢。凛とした美貌と宰相の父親譲りの知性が人気で、男性からの注目度も高い。アクアマリンにとってはまさに目の上のたんこぶのような存在だった。
そんな女に、王太子殿下の歓待の座を奪われるなんて――――ッッ!
頭の血が沸騰するような感覚に陥ったが、父王の言葉ではっと引き戻される。
「そういうわけだ。優しいアクアマリンよ、引き受けてくれるな?」
――父親と言えど国王だ。嫁入りの時と違って『聖女』としての役割を引き合いに出されたら断れるはずがなかった。
「承知いたしました。ベルハイムのために、わたくし身を粉にして働きますわ」
自室に戻ったアクアマリンは、無言で花瓶を壁に叩きつけた。
(――どれもこれもお姉さまのせいよ。あのグズが失敗したからわたくしが損をしているの。こんなことあってはならないわ。罪を償わせないと)
アクアマリンは鋭い声でメイドを呼びつける。存在を消して壁際に立っていたメイドはびくりと身体を跳ねさせ、主人に駆け寄った。
「ご用でしょうか」
「今すぐお姉さまを探して。おおかたラングレー皇国で物乞いでもしていると思うから、見つけて連れて帰ってきなさい。わたくしの侍女として雇うと言えば、涙を流して着いてくるでしょう」
「……しかしそれは、」
「わたくしの命令が聞けないの? あなたの代わりはいくらでもいるからクビにしてもいいのよ」
「……! 失礼いたしました。すぐに手配いたします」
「待って。良いことを思いついたわ」
アクアマリンは醜悪な笑みを浮かべた。
「お姉さまの元婚約者の魔術師団長に行かせなさい。なんだかんだお姉さまはあの男のことを気に入っていたもの。面白いことになりそうだわ」
「承知しました」
メイドは逃げるように部屋を出ていった。
(許さないわ。ここに戻ってきてわたくしのために働くべきなのよ。お姉様はずっとわたくしの引き立て役でなきゃいけない)
ふと時計を見上げたアクアマリン。一日三回に増えた祈祷の時間が迫っていたが、ふんと鼻を鳴らして鏡台の前に腰を下ろす。今日はもう疲れたし、明日は新しいドレスを作りに行く日だし、まあ明後日からやればいいだろうと考えた。
(聖女だなんて、疲れるだけで本当に面倒だわ。もともと存在するだけで至高なのだから、仕事なんて適当でいいのよ)
鏡に映る自分の美しい顔を見ながら、うっそりと微笑むのだった。