第二十四話
「陛下ったら急にどうしたのかしら? トイレにでも行きたくなったのかしら。食事の後に案内すればよかったわ。よその家では言い出しにくかったのかも」
魔の森からの帰り道。ホワイティと名付けたヘルスパイダーにルビーがそう話しかけているころ――。
「アーノルド! 午後の予定は全てキャンセルしろ。重要な話がある」
城に戻ったセオドアはアーノルドの執務室に入るなりそう告げた。
長年の付き合いからただならぬ様子を察知したアーノルドは「承知しました」と頷き、すばやく各所へキャンセルの連絡を入れる。
部屋にいた補佐官も退室させ、部屋には二人だけになった。
「……で、いかがされたんです? 今日は一日ルビー王女のために空けていたはずですよね。徹夜で仕事を終わらせて。彼女からなにか有益な情報が?」
「有益どころじゃない。我が国の未来を左右するような大きな話だ。いいかアーノルド、今から話す内容は他言無用だ」
セオドアは今朝からの出来事をすべてアーノルドに共有した。
最初は真面目に頷きながら聞いていたアーノルドだが、実際に能力を実践してもらったくだりになると喜びを隠しきれない表情になる。聞き終わると弾んだ声を上げた。
「それは確かに大ニュースですね! 我が国にとってこの上ない朗報です」
「嘘みたいな話だろう。毒使いが聖女のような力を持っていただなんて」
「にわかには信じられない内容ですが、この件で陛下が冗談をおっしゃるはずがないこともわかっています。ああ、よかった! 聖女アクアマリン姫でないとわかったときはどうなることかと思いましたが、結果的には帳尻が合ったのですね!」
「さすがわたしが整えた縁談ですね」などとアーノルドは悦に入るが、セオドアの表情が晴れないことに気がついた。
「どうしたのです陛下。おめでたいニュースなのに顔色が冴えませんね」
「……ルビー王女は自分の力がどれだけすごいものなのか、理解していない様子だった」
「長年幽閉されていたそうですから、能力を行使することもなかったんでしょう。ベルハイムあたりは瘴気が薄いですし魔物もまず出ませんから。それがなにか問題でも?」
「彼女は森での暮らしを気に入っている。これから俺たちが頼もうとしていることは、酷ではないだろうか」
その言葉にアーノルドは目を丸くする。
「王女の幸せを陛下が気にするなんて。今日は驚かされることばかりですね……」
良くも悪くもセオドアは有能な皇帝だ。人を切り捨てるような冷酷な判断をすることもあるし、騎士団にいたときは容赦なく罪人や魔物の命を奪ってきた。
幸せを願う対象は国民だけであり、特定の個人――ましてや女性の幸せを気にかけることなどなかったというのに。
幼馴染として共に育ってきたアーノルドのぽかんとした表情に、セオドアは居心地が悪そうに目を逸らす。
「……いちおう妻だからな」
「まさか陛下からその言葉が出てくるとは。ほんとうによかったですよ、早まって離縁しなくて」
うつむいたまま黙り込むセオドア。彼自身も自分の気持ちを完全に理解できているわけではなかったから、なんなら今この口から飛び出した言葉に驚いているくらいだ。
「話を戻しましょう」
アーノルドが真面目な顔に戻る。
「陛下がアクアマリン姫と結婚した暁には、半年かけて国内を回り各地を浄化する予定でした。ルビー王女が聖女に準ずる能力があるということは、王女にその役目を負っていただくということになります。いろいろ悩んでいるようですが、陛下も同じ考えという認識で間違いないですね?」
セオドアは腕を組み、苦い顔のまま頷く。
「ああ。しかしルビー王女の能力に未知な部分が多い以上、どれだけのことができるかは謎だ。あくまで毒使いなのだから、聖女とまったく同じ活躍というのは難しいだろう。ゴブリンのような小型の魔物を追い払い、瘴気に侵された井戸を一つ二つ浄化できれば恩の字だと思っている」
「……少々舞い上がってしまいましたが、おっしゃる通りです。彼女は聖女ではない。期待しすぎるのはやめた方が無難ですね」
二人は同時にため息をついたが、セオドアのそれはアーノルドのものとは質が異なっていた。
セオドアはもごもごと小さく口を動かす。
「……それですら、俺が彼女にした仕打ちを考えると都合がよすぎる頼みだ」
「まだ気にしてるんですか。その件なら王女の怪我を手当てしたことで相殺されていると思いますよ? 何度か救護室に見舞いにうかがいましたが、陛下への感謝を口にされていましたし」
「……いずれにしろ、王女は俺たちが頼めば断らないだろう。あれは根が善良すぎる。無理強いしたくない」
煮え切らないセオドアの態度に、しだいにアーノルドの表情が厳しいものになっていく。
「予定通りにアクアマリン姫と結婚していたとしても、同じことをしてもらう予定だったでしょう。なにを血迷われているのですか。あなたは皇帝なのですよ?」
「わかっている。立場を考えれば俺に選択肢などない」
決断を下せないのは、あくまでセオドアの私的な部分が引っかかっているから。
旅に出れば、移動ばかりのタイトなスケジュールを半年続けることになる。ベルハイムと違ってラングレーは貧しい。町によっては庶民と同じ宿屋に泊まることもあるし、腹いっぱい食べられない日もあるだろう。
聖女であれば自分自身に回復魔法をかけることもできるが、毒使いのルビーにそれはできないはず。他者を救うことはできるかもしれないが、自分自身を救うことはできないのだ。
あの世間知らずで無垢な女性に、そんなことを頼んでもいいのか? 自分を冷遇したくせに、都合のいい時だけ利用するような男だと思われないだろうか。
結局セオドアは、「ルビーにどう思われるのか」というところが気になって仕方がないのだった。
そこに気がついたとき、セオドアは激しい自己嫌悪に襲われる。自分が浅ましい人間だということを感じずにはいられなかった。
アーノルドの冷えた声が彼の耳を刺す。
「あなたが最も優先すべきは民の幸せです。民の満足が皇帝の幸福。前帝陛下のお言葉をお忘れになったのですか?」
セオドアの父は、民の幸福を願いながらも志半ばで病に倒れた。
冥府が目と鼻の先にあるラングレーに好き好んで住まう民などいないのだから、それでもこの国を選んで住んでくれている民に少しでもいい暮らしをさせてやりたいと、幼いセオドアとアーノルドに常々語り聞かせていた。
その遺志を継ぐようにして、これまで二人は互いを支え合いながらラングレーの舵取りをしてきたのである。
「心配するな」
深いため息をついたあと、セオドアはアーノルドに向き合った。
「明日、もう一度王女のもとに行ってくる」
「お願いします。よい返事を期待しておりますからね」
アーノルドは苛立ちを隠さずに言い放つ。
そんな旧友を一瞥し、セオドアは部屋を後にするのだった。