十八話
ズキン、と頭の上のほうが痛んだ。
ゆっくり目を開けると、知らない部屋にいる。
しばらくぼんやりしていると、ルビーはしだいに意識を失う直前のことを思い出してきた。
(木材を支えながら釘を打っていて、バランスを崩して、それで倒れてしまったのだわ……)
「危ない!」と思った時にはもう遅かった。倒れてくる木材を支え切ることはできなくて、鈍い痛みとともに意識が途絶えたのだった。
頭に触れると包帯が巻いてある。手当てをしてくれたのはエマだろうか。ズキンズキンと拍動するような痛みをこらえながら上半身を起こす。お腹や肩のあたりにも鈍い痛みを感じた。
「王女殿下! お目覚めになったのですね。お加減はいかがですか?」
はきはきした声で訊ねるのはベテラン風の女性医師だ。ルビーは面食らいながら答える。
「はい。頭がちょっとズキズキしますが大丈夫です。えっと、ここはどこでしょう? あなた様が手当てをしてくださったのですか?」
「皇室付医師のドルーアと申します。こちらは皇城の救護室でございます。頭にお怪我がありましたので傷が塞がるまでは痛むかもしれません。今、追加の痛み止めをお持ちいたします」
もらった薬湯を飲むと、拍動するような痛みが楽になった。
どうも自分はお城に運び込まれているらしい。セオドアの庇護から離れて静かに暮らすはずが、また迷惑をかけてしまった。さすがのルビーもがっくりとうなだれる。
落ち込んだ様子を見てドルーアは気を利かせた。
「メイドのエマ様と、かわいらしい動物様たちが別室で待機しております。お呼びしてまいりましょうか」
「ありがとうございます。お願いしてもいいでしょうか」
「もちろんでございます。体調に変わりがありましたらこちらのベルでお知らせください」
ドルーアが救護室を出ようとすると、入れ替わるようにして急いた様子のセオドアが入ってきた。
「王女が目を覚ましたと聞いた」
「陛下。はい、今さっき意識を取り戻しまして、痛み止めを服用なさいました。容体は安定しております」
「そうか。……王女と少し話があるから二人にしてくれ」
「かしこまりました。皆、行きますよ」
医師や看護師がぞろぞろと退室していき、部屋にはセオドアとルビーの二人きりになる。彼は大きな身体を屈め、ベッドサイドの椅子に腰を下ろした。
ルビーはぽかんとした表情をしている。セオドアと面と向かって顔を合わせるのは嫁入りの日以来だった。
「……具合はどうだ」
ぶっきらぼうだが、優しさを感じる声だった。
「おかげさまで痛みはわずかです。ご迷惑をおかけしてしまい申し訳ございませんでした。エマもこちらにお邪魔しているようですので、すぐに帰り支度をいたします」
「何針も頭を縫っているんだ。今すぐ帰れるわけがないだろう」
セオドアは呆れ声を出す。抜糸するまでは定期的に消毒処置を行わなければいけないし、少なくとも一週間はこの救護室にいないといけない。
そう伝えるとルビーは眉を下げた。
「ですが、これ以上ご迷惑をかけるわけにはいきません。アクアマリンが来なかったことで陛下は大変なご苦労をなさっているとか。追い出されて当然のわたしに離宮や食事まで与えていただいたのに、怪我まで面倒を見ていただくのは心苦しいです。健康だけが取り柄ですのでどうぞご心配なく」
「……離宮から森に移り住んだのは、俺に遠慮していたからなのか」
「! やはり陛下はご存じだったのですね。おっしゃる通りです。自給自足で暮らせばご迷惑にならないかと思いまして。眷属たちも自然の中でのびのびと過ごさせていただいております」
ルビーの態度からは、セオドアに対する怒りは微塵も感じられなかった。それどころか心の底から感謝し恐縮している様子で、身構えていたセオドアは拍子抜けする。
「……もう森の小屋には戻るな。城に部屋を用意させる。今後はずっとそこに住め」
「えっ! なぜですか」
「俺がそうしたいからだ。……今回、なぜだかわからないが、君が怪我をしたと聞いてひどく胸が痛かった。魔の森は危険だ。王女が住めるような場所ではない。安全な場所にいてほしい」
「やっぱりセオドア陛下はお優しいのですね」
ルビーはかねてよりセオドアの厚意に感謝し続けていた。
こんな優しい人が君主のラングレー皇国に来ることができてよかったと、改めて幸せを感じたルビーは微笑んだ。
セオドアの頬が一気に朱に染まる。
「俺は優しくなどない! 君を冷遇していたのだぞ。……その件は、本当に申し訳なかった」
腰を折ったセオドアにルビーは慌てる。
「おやめください陛下。冷遇だなんてご冗談を。ラングレーでの待遇が冷遇だというのなら、ベルハイムでの暮らしはなんだというのでしょう。お父さまがわたしを虐待していることになってしまいますよ」
「……それは冗談で言っているんだよな?」
「……? いえ、冗談ではございません。冗談を聞くのは好きですが、あまり自分から申し上げることはありません」
きょとんとするルビーに、セオドアは言葉を失っていた。
アクアマリン王女との入れ替わりの経緯を調べた際に、ルビーのベルハイムでの扱いについてもある程度把握していた。
彼女に罪はないとわかったからこそ、この国から追い出すことは憚られた。離縁したのちも、元皇妃ということで最低限の保証はしてやるつもりでいた。
だが、本人に虐げられていた自覚がないというのは想定外だった。
「……アクアマリン王女に嵌められたと考えたことはないのか?」
「妹にですか? 妹は聖女なのですよ。そんな卑劣なことをするはずがありません。わたしが代わりに嫁ぐことになってからもあれこれ情報を調べて教えてくれましたし。少々臆病なところはありますが親切な子ですよ」
「……そうか」
セオドアは話が通じているようで通じていない感覚に陥り、どっと疲れを感じていた。
(こんなに人を疑うことを知らない人間は初めてだ。絶滅危惧種と言ってもいいんじゃないか? 嫁いできた先が俺でよかった。悪人のところに輿入れしていたらどうなっていたかわからんぞ)
そんな心配をよそにルビーは声を改める。
「ですので陛下。話を戻しますが、わたしは今の暮らしを続けさせていただきたいのです。この婚姻に意味がないことは理解しておりますので、離縁はもちろんさせていただきます。ですが陛下のお手を煩わせることのない形で、どうかこの国に置いていただけないでしょうか?」
「離縁だと?」
待ち望んでいた言葉がルビーの口から出てきた。
それなのにセオドアはちっとも嬉しくなかった。むしろ、なんだか煮え切らない感情が胸に渦巻き始めていた。
「はい。離縁すればわたしに対する陛下の責任はなくなります。新しい奥様をお迎えするにも支障はございませんし、いいことばかりだと思います」
セオドアはルビーと離縁して余計なしがらみと責任から解放される。
一方ルビーは彼の庇護から抜け出して、眷属たちとの自由気ままな生活を手に入れる。
そういう提案だった。
願ってもない提案のはずだった。誰がどう見たって「当然そうするべきだ」というもので、悩むはずのない内容。
それなのにセオドアは即答することができない。
「……俺は」
たっぷり考えたのち、セオドアは重い口を開いた。